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はてなキーワード: 寺家とは

2019-03-11

兵庫県警無能さは今に始まったことではない

兵庫県警ブラクラを貼っただけの女子中学生補導したこと話題になっている。

悲報兵庫県警さん、ブラクラURLコピペしただけの女子中学生補導してしま

https://blogos.com/article/363067/

兵庫県警がこのようなふざけた捜査をしてしまった原因は、サイバー課にIT知識が無かったためだ。

しか兵庫県警においてこれはサイバー課に限った話ではない。

以前から兵庫県警は専門知識の欠如による致命的な捜査ミスを繰り返している。それも現在進行形でだ。

2012年兵庫で猫の死体連続で見つかるという事件があった。

(当時の記事アーカイブ

https://matome.naver.jp/odai/2133957959315497001

兵庫 体切られ死ぬ猫が相次ぐ NHKニュース

13日午前7時半ごろ、加古川市加古川町寺家町の駐車場で、猫が刃物で腹を切られて死んでいるのが見つかりました。

切り傷はおよそ3センチで、周囲に目立った血の痕は残っていないということで、警察は何者かが別の場所で殺したあと、放置した疑いが強いとみて動物愛護法違反の疑いで調べています

加古川市高砂市では、先月10日から27日にかけて、猫やハトが首や脚を切られるなどして死んでいるのが6件見つかっていて、いずれも半径2キロ範囲に集中しています

一時期捜査班まで構成した本格的な捜査すら行われたこ事件だが、真相は「アライグマが猫の死体を食った跡」というもの事件性が無いものだった。

https://yo-mu-wa-inko.com/hyougokenn-nekorennzoku-hennsi-14496

これだけならただの笑い話で終わるが、実は終わっていない。兵庫県警はこの後も毎年のように同じような捜査を繰り返している。

2017年5月

https://www.sankei.com/west/news/150718/wst1507180070-n1.html

18日午後2時40分ごろ、神戸市西区森友の公園で、頭部と胴体が切り離されたネコの死骸を近くの男児発見し、兵庫県警神戸西署に通報した。首をちぎられたとみられ、同署が動物愛護法違反容疑で調べている。

2018年3月

https://www.sankei.com/west/news/180323/wst1803230025-n1.html

22日午前7時半ごろ、兵庫姫路市白浜町集合住宅駐車場で、上半身のない猫の死骸があるのを散歩中の近所の女性(55)が発見し、飾磨署に通報した。同署は何者かが切断した死骸を現場放置した疑いもあるとみて、動物愛護法違反容疑などで調べている。

2019年1月

https://news.nifty.com/article/domestic/society/12184-45245/

2018年12月から今年1月にかけ、兵庫姫路市動物の死骸が相次いで発見される事件が発生。付近住民不安が広がるとともに、動物愛好家から怒りの声が上がっている。

もう一度2012年事件の話に戻るが、この時犯人アライグマだと特定したのは警察ではない。外部の専門家による鑑定で判明したのだ。

まり兵庫県警は検死すら行わず人為的虐待と断定して捜査を行っていたことになる。

なぜ兵庫県警はこのようなことを繰り返しているのか?それは兵庫県警日本唯一の「アニマルポリスホットライン」があるためだと私は考えている。

アニマルポリスホットライン動物虐待事案等専用相談電話

http://www.police.pref.hyogo.lg.jp/sodan/animal/index.htm

ここの担当部署アニマルポリスとしての実績欲しさに猫の死体通報を受けるたびに捜査を行っているのだろう。

しかし、動物知識が無いにも関わらず動物虐待捜査を行っているため、事故や共食いで死んだりした猫の死体虐待扱いして捜査してしまう。もちろんその捜査費用税金で賄われている。

サイバー課も同じだ。実績が欲しいが知識が無いため本物のサイバー犯罪に手出しできず、ブラクラを貼っただけの人間のIPアドレスを開示するのが限界なのだ

私はこの2つの事例が兵庫県警の体質を表す氷山の一角だと思っている。

このような体質から今日までどれほどの冤罪兵庫県警で発生しているのか、私たちは知る由もない。

2017-09-06

寺で始まる名字はクソダサなのに寺で終わる名字はかっこいい:寺始まり一覧

寺々 てらでら

寺の下 てらのし

寺ノ下 てらのし

寺一 てらいち

寺下 てらした

寺世 てらよ

寺中 てらなか

寺主 じしゅ

寺久 てらく

久保 てらくぼ

寺井 てらい

寺井和 てらいわ

寺井町 てらいまち

寺倉 てらくら

寺側 てらがわ、てらそば

寺僧 じそう

寺元 てらもと

寺光 てらみつ

寺内 てらうち

寺分 てらぶん

寺前 てらまえ

寺務 じむ

寺十 じつなし

寺升 てらます

寺南 てらみなみ

寺原 てらはら、てらばる

寺口 てらぐち

寺台 てらだい

寺号 じごう

寺司 てらじ

寺園 てらその

寺地 てらち

寺地町 てらぢちょう

寺坂 てらさか

寺坪 てらつぼ

寺垣 てらがき

寺垣内 てらがいと

寺埜 てらの

寺域 じいき

寺埼 てらさき

寺堀 てらぼり

寺堂 てらどう

寺塚 てらつか

寺塩 てらしお

寺境 じけい

寺奥 てらおく

寺子 てらこ

寺子屋 てらこや

寺宝 じほう

寺家 じけ

寺家村 じけむら

寺家町 じけちょう

寺寺 てらでら

小屋 てらこや

寺小路 てらこうじ

寺尻 てらじり

寺尾 てらお

寺尾中 てらおなか

寺尾台 てらおだい

寺尾釜田 てらおかま

寺居 てらい

寺屋 てらや

屋敷 てらやしき

寺山 てらやま

寺岡 てらおか

寺岬 てらさき

寺峰 てらみね

寺島 てらしま

寺島町 てらじまちょう

寺崎 てらさき

寺嵜 てらざき

寺嶋 てらしま

寺嶌 てらしま

寺川 てらかわ

寺師 てらし

寺平 てらたいら

寺広 てらひろ

寺床 てらとこ

寺庭 てらにわ

寺廣 てらひろ

寺延 てらのべ、てらのぶ

寺廻 てらまわり

寺後 てらうしろ

寺志 てらし

寺戸 てらと

寺戸町 てらどちょう

寺所 てらどこ

寺敷 てらしき

寺方 てらかた

寺木 てらき

寺本 てらもと

寺村 てらむら

寺杣 てらそま

寺東 てらひがし

寺林 てらばやし

寺柿 てらがき

寺栖 てらす

寺根 てらね

寺格 じかく

寺横 てらよこ

横町 てらよこちょう

寺次 てらじ

寺永 てらなが

寺江 てらえ

寺池 てらいけ

寺池台 てらいけだい

寺池町 てらいけちょう

寺沢 てらさわ

河内 てらがわうち

寺河戸 てらかわど

寺治 てらじ

寺沼 てらぬま

寺泉 てらいずみ

寺泊 てらどまり

寺洞 てらぼら

寺津 てらづ

寺浦 てらうら

寺添 てらぞえ

寺澤 てらさわ

寺濱 てらはま

寺瀬 てらせ

寺片 てらがた

寺生 てらお

寺田 てらだ

寺田町 てらだちょう

寺田縄 てらだなわ

寺田谷 てらだや

寺男 てらおとこ

寺町 てらまち

寺畑 てらはた

寺畠 てらばたけ

寺矢 てらや

寺石 てらいし

寺社 じしゃ

寺神 てらかど

神戸 てらかど

寺端 てらばた

寺竹 てらだけ

寺籠 てらかご

寺縣 てらあがた

寺義 てらぎ

寺背 てらせ

寺脇 てらわき

脇町 てらわきちょう

寺腰 てらこし

寺臺 てらだい

寺舘 てらたち

寺薗 てらその

寺藤 てらふじ

寺裏 てらうら

寺西 てらにし

寺見 てらみ

寺観 じかん

寺谷 てらたに、てらや

寺賀 てらが

寺越 てらこし

寺跡 てらあと

寺農 てらのう

寺辺 てらべ

寺辻 てらつじ

寺迫 てらさこ

寺道 てらみち

寺邊 てらべ

寺邑 てらむら

寺部 てらべ

寺里 てらさと

寺野 てらの

寺野下 てらのし

寺銭らせん

寺門 じもん、てらかど

寺阪 てらさか

寺院 じいん

寺領りょう

寺館 てらたち

2014-09-29

http://anond.hatelabo.jp/20140927113327

たまたま記事が目に入ってきたのですが、思うところがあったので書かせて頂きます

当方関東のどこかに住んでいる二十代後半男で、歴史ウェブサイトを立ち上げる為に頑張っているところです。

仕事柄いろんな場所に行き、地域の裏山なんかに眠っている中世の城跡の歴史などを調査する為に茂みの中に入って行く事が多いのですが、

中世の城跡、つまりかつて戦国時代軍事拠点であった場所地権者って、代々農業を営んでいる方が大変多いのです。

それはなぜか。

私自身の話が分かりやすいかと思うのですが、私の実家のお墓は地域小高い山の上にあります

地域に数件ある増田家の墓のみがその小高い山の上にあり、増田家以外の墓の多くが同じ地域の低地にあるお寺の敷地内にあります

てっきり増田家は地域の爪弾きもので、いじめられっこだったのかと勝手に思っていましたが、

どうやらその墓地周辺が中世戦国末期の城跡の主郭付近であり、増田家はその城主だった、とのこと。

そして現在増田家は、やはり農家江戸時代は庄屋さんで地域でも裕福だったが、やはり農家

なぜ農家になったのか?

調査してみると、豊臣による小田原征伐が原因らしい。

まず増田家は、地域の駅名に名が残るぐらいの地域の小領主

仮に小寺家しますが、小寺家の重臣として召し抱えられて、現在実家近辺の統治を任されていたとの事。

その小寺家は隣の隣の隣ぐらいの町拠点とする赤松家(当然仮の名)によって追放され、

増田家は赤松下り(前述の低地のお寺は赤松菩提寺末寺)、その赤松

当時関東平野制覇を目論む小田原の後北条家にやがて下ることになる。

北条家は赤松家を頭としその地方一帯を統治する◯◯衆を組織し、

増田家もその◯◯衆のメンバーとして、引き続き実家付近拠点統治を続けたとのこと。

そして問題小田原征伐。豊臣とその取り巻きにて小田原を包囲し、関東地方一帯の小田原方の城郭が同時に攻撃を受ける。

上杉前田真田に攻められた八王子城惨状や、忍城成田家の奮闘はこの時の事で、うちの実家付近拠点は簡単に落城

増田家の筆頭は小田原城に籠もり、◯◯衆として勇敢に立て篭った、のかもしれない。

そして小田原北条家は滅亡し、関東統治ネットワークはそのまま徳川家に与えられ、関東には徳川の家臣が流入してくる。

元々関東のそれぞれの地方統治してきた◯◯衆の大半はその際に潔く農業を取り仕切る庄屋層に転身し、

残りの一部は徳川への仕官を申し出てたりして引き続き武家である事にこだわり続けたとさ。

かくして、関東の大半の武士農家になり、少数の徳川家臣による統治を受け入れた。

この話を土地の古老に話したりすると、忘れ去られていた「イエ」の記憶を取り戻したようで、いたく感動される方が多い。

また逆に、「当家は代々武士家系・・・。」といった方に話をすると、複雑な顔をされる方が少なくない。

身分は固定されたもので、名前とともに受け継がれるようなイメージ漠然と抱いている方に多いのですが、

「単に先祖徳川方に付いて頑張っただけ」というストーリーに聞こえ、どうも「武士家系イメージに合わないらしい。

・・まあ元々が漠然としたイメージなので仕方の無い事ですが。

(ちなみにこれらは関東の話ですが、土佐長宗我部と一領具足の結びつきが幕末坂本龍馬時代まで尾を引いた事を考えると、全国各地である事なのでしょう。)

この話を踏まえて、血筋とは何なのか。

「イエ」の物語やその教訓は代々守り伝える限り残るが、

遺伝的な意味での「血筋」がはっきりと出るのは数代の限りなのではないかと考えている。

まり大事なのは家庭内での教育

農家さんの多くが確かに自分たち自身を「ただの百姓」と呼び、学も無く品格も無い、と自虐的に語るが、

失われた歴史ストーリーとしてお教えすると、生き生きと誇りを取り戻す。

しかしながらそれまで受けてきた教育は変わらないし、次世代に何を教え残すかも教育者としての自分次第。

ちなみに「農民」で一括りにされる事が多いですが、庄屋層は江戸時代からかなり恵まれ教育環境にあったとのこと。

うちのばあちゃんも地域で唯一女学校に行かせてもらえたらしく、単に士農工商かいファンタジーではくくる事が出来ない場合が多い。

家庭環境の違いは生まれによって確かにあり、教育の質は当然大きく変わってくる。

また、「武士家系」という代々受け継がれる「イエ」の物語が作り出す誇りと自信も大きいのかもしれない。

千葉県の某所にやはり「武士家系・・・。」という誇り高き地主タイプの方がいらっしゃいました。

その方の家はやはり小田原北条家に仕えていたとの事でしたが、なぜか江戸時代を通して武家として、徳川から本領を安堵されていたとの事。

何だろうな・・・。と思い調べてみると、何の事は無い、北条家に仕えながらも徳川家と内通をし、小田原征伐では豊臣側に付く代わりに、本領安堵約束をしていたという(うろ覚え)。

武士家系物語が作り出す誇りというものも、割と中身の無いものである

(ただし、これも一つの歴史であり、武家としての「イエ」の歴史を守る、という意味では尊い決断なのかもしれない。)

教育の質に関しては、言わずもがなであるが、近代的な教育人材登用システムが構築されてからはそのシステムをよく理解している事が肝心なのは当たり前で、

教育水準の高い家には、良い教育方針と良い物語が備わっているのかもしれない。

物語」によって得られた誇りを胸に、立身出世を志す感覚が備わっているかどうかは大きい。

教育の機会も家庭の経済状況などに左右されてきたが、時代とともに様々な仕組みが生まれてきた。

貧困理由とした教育機会格差問題は、薄められてきた。「志」の教育を出来ているかが大きいと思う。

最後大事になるのが、攻略法教育。つまり受験」というペーパーテスト人材登用システム攻略法を伝授できるか否か。

現代引きこもりの人々は、高い志を母親、あるいはテレビ漫画から植え付けられてきたのに、

攻略法を持たないのでその理想現実ギャップ屈辱感にまみれて腐っていく。(かなりもったいないと思う。)

そして、教育とは代々受け継がれるもの。早く気づいた方が有利なのは、間違いない。

明治時代から気づいている家庭もあれば、最近気づき始めた家庭もあるだろう。

伝統的な教育方針物語血筋の内と考えるならば、血筋ってのははある所にはあるのかもね。

ウェブサイト来年ぐらいには公開できたらいいなあ。)

 
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