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2020-07-16

沖縄旅行してきた(最後の方にGoToの話)

 京都が雨続きでうんざりしていたところ、天気予報を見ると沖縄だけ晴れているので、7/11-13に旅行することにした。

 多少コロナが増えてきたとはいえ一日十人程度の京都しか京都市ではなく田舎の、未だ感染ゼロ自治体住民なので、行くことに躊躇はない。

 これで「誰かに移したらどうするんだ!」なんて言う奴は、何でお前は死なないのと言いたい。お前が生きて活動してる限り、誰かにコロナを移す可能性はゼロじゃないんだからさ。

 もちろん手洗いとマスクは徹底するが、熱中症もあるので屋外ではマスクは外す方針とした。一人旅なのでどのみち喋ることはほとんどない。

 関空からLCCで2時間那覇に到着。

 驚いたのが国際通りガラガラだったこと。

 土曜の昼なのにほとんど人が歩いてない。牧志駅から向かったので、県庁側は違ったかもしれないが、それにしても大きな土産物屋に客はゼロ店員が暇そうに立っている。

 やはりどの県も観光業やばい状況である……誰かが行かないと。

 とはいえ着いたばかりで荷物は増やせないので、申し訳ないが通り過ぎて壺屋焼物博物館へ。

 こちらも来館者は他には二人くらい。見る分には見やすいのだが、どうしても心配になる。

 隣の陶芸センターも客ゼロで、二千円の酒器を買って『やちむん通り』に向かうが、やはり人影はほとんどなし。

 国際通りに戻ってレストランへ入るも客は自分だけで、一人で山羊刺しなどを食べる。

 ゆいレールの延伸部分を乗ってからバスうるま市へ。

 途中で金網に囲まれ米軍基地が見える。

 よりによってこの前日、基地の中で感染者が数十人見つかったとのこと。

 まあ米軍関係者接触するとも思えないので、気にせず続行。

 途中で普天間宮の洞窟を見せてもらった後、海中道路を通って、浜比嘉島ホテル投宿した。

 翌日は今回の主目的である勝連城へ。客はちらほら。

 登るのは辛いが青空石垣が映え、天守からの海の眺めも最高である今帰仁中城訪問済みなので、残る世界遺産は座喜味城のみだ。

 向かいの休憩所で土産を買ってからバスを待ったが、四十分ほどの間に購入者自分だけだった。

 バスで戻って海中道路のあやはし館へ。こちらの客は結構いた。

 沖縄そばやブルーシールアイスもずくグルクン天ぷらを食べる。

 二階が海の資料館になっており、コロナ対策に連絡先を書く方式だった。前の人が書くのが遅くて待たされたし、個人情報を書かされるのは少々不安大阪の追跡システムが広まればいいのに。

 ホテルに戻って近くの小さなビーチへ。

 ここも日曜なのに泳いでるのは数人で、海の家は採算取れてるのか心配になる。

 一人海水浴は手間がかかる割にあまりやることはなく、ナマコが多い海底を見てから10分ほどで上がってかき氷を食べる。

 この日は途中でマスクを紛失してしまい、離島ではドラッグストアもなく、ハンカチを巻いて代用する羽目に。

 予備を一枚持って行くべきだった。

 最終日は琉球開闢神話聖地であるシルミチューへ。

 バスが一日四本しかないので、行きだけ使う。

 海中道路から離島側は『うるま市有償バス』というマイクロバスだが、いつも結構乗客がいて、マスクをしてないおじさんもいたけどまあ喋ってなかったか大丈夫だろう。入口に消毒液があるのは嬉しかった。

 バスを降りて、コロナで封鎖されたビーチを横目にシルミチューに向かう。

 帰路の二人とすれ違っただけで、他に人影はなし。さすがに霊場となると人がいない方がありがたい。

 鍵のかかった洞窟の前で、柵越しに雰囲気ある聖地を思う存分拝んだ。

 意外だったのが中にあった大正時代の石碑に、日章旗が二つ描かれていたこと。別に撤去したりはしないんだな。そりゃそうか。

 三十分歩いてホテルに戻る。汗が噴き出す暑さ。

 「気温だけなら真夏京都の方が高いし大したこといかも?」とか思ってたがそんなわけはなかった。

 しかし車のめったに通らない島の道路を、さとうきび畑を眺めながら歩いていくのは趣があるな。

 ホテルを発って那覇へ戻り、途中でマスク調達する。

 最後に行くのは首里城。12年ぶりだが、まさかあんなことになるとは。

 以前にはなかったインフォーメーションセンターができていたが、こちらも寂しい状態

 平日とはいえカフェに客はなし。

 守礼門で視界に入るのが数人、城内では係員しか見えないことも。

 コロナのせいと火事のせいと両方あるのだろうけど、沖縄最大の観光名所でこれは心が痛い。

 有料エリアでは再建工事中で、壁の向こうでクレーン車が働いている。

 焼け残った龍柱や、燃えて髭だけ判別できる龍の飾り、遺構などを見学した。悲惨事件だったが、今しか見られないものからね。

 前は入れなかった東のアザナの展望台では、狭いのもあってさすがに多少の客が滞留していたので早めに退散。

 再建の募金をした後、土産物屋でお釣り二千円札をもらった。

 珍しかったが、本州で使える自信がないので、駅で切符を買って千円札に替える。

 空港職場へのお土産を買って伊丹に戻った。うちの職場旅行を叩くような陰湿な人はいいからね。

 帰宅途中にニュースを見たら、米軍感染うるま市の肝高公園無許可BBQしてたからって。

 よりによってうるま市かよ! まあ米兵には会わなかったし……。

 帰った後は世間GoToキャンペーンで騒がしくなっていた。

 俺はキャンペーン関係なく行くのでどっちでもいいのだが、観光地の閑散ぶりが本当にやばいので、多少の感染増は覚悟して決行するしかないのではと思ってしまう。幸い重症者は少ないようだし。

 大阪知事は「まず近場で」と言ったようで、それも分かるけど近場は五月六月にもう行ってるんだよな。

 嵐山金閣銀閣龍安寺三千院平等院東大寺通天閣ガラガラだった。

 コスモタワーコロナ関係なくいつもガラガラだが。

 唯一人が多かったのは、紫陽花が見頃の三室戸寺だけ。

 やはり地元人間は、「いつでも行ける」観光地にはなかなか行かないのだな。

 京都の人は京の名所には行かないって、前々から言われてるしね。

 宿泊土産を考えても、やはり遠くから人を呼ばないとどうにもならんのじゃないかなあ。

 もちろん自分が周る分には人は少ない方がいいし、五月末の誰もいない祇王寺の、青紅葉と苔が溶け合う風景には感動した。

 でもその時は、こんな京都は今だけだな!と思ってたんだ。

 あれから一ヶ月半後に、まだ回復しないどころかさらに悪くなりそうとは予想しなかった。

 一人旅では焼け石に水だろうけど、もっと観光地に金を落としに行かねば。

 無論むつ市みたいに来るなと言ってるところは行かないなら、来て欲しくない人は首長に働きかけてくれな。

2019-11-06

首里城見てきたよ

たまたま近くに用事があったので、募金したるで~くらいの気持ちで行ってみた。公園の大部分はまだ立入禁止。以下感想

ゆいレール首里駅前のカーブからおそらく奉神門が少し見えた。木の骨組みがむき出しになって痛々しい

守礼門までの道のりはゆいレールの駅の張り紙確認すべし。

弁財天堂は入れた。池に魚がたくさん浮いていたが、関係あるのかは知らない。大量のバリケンたちは相変わらず元気そうである

龍潭ほとからも奉神門らしきものが見えた。無言で写真を撮る人、拝む人、自撮りする人、様々いた。

守礼門と歓会門は見学可能。すすをかぶったのだろう、白い漆喰がだいぶ黒くなっていた。

・それでも赤い瓦と青い空のコントラストはきれいだった。見下ろす町並みもきれいだった。

・案内所も空いているが、今回の火事に関する募金はできないそう。

・一番近くて確実な募金場所那覇市役所首里支所だろうか。近所の芸大学生たちもミニライブみたいなものを開催して募金を募っていたが、テレビカメラも来ていて派手だったので気が引けてそっと離れた。募金はひっそりこっそりやりたい主義

・近所の食事処や甘味処はポツポツやっていた。

ニュースの印象から沖縄に住む人たちはさぞ落ち込んでいるだろうと思いきや、地元育ちじゃない人たちは普通だった。

「無くなる前に一度行っておけばよかったな~」とは言っていた。

全く無縁な観光客である自分のほうがショックを受けていたかもしれないな…

訪問回数忘れる程度にはまめに通っていて、暇な時間があれば首里城にも散歩感覚で行っていたので多少思い入れがある)

現場からは以上です。ブルーシールさとうきび味が好きです。

2011-09-02

沖縄日本ではない

母親沖縄人で父親が内地人。

私自身は本土でずっと生まれ育ち、5年に1度くらいの頻度で母と帰省する。

今年も帰った。

やっぱりここは日本ではない、日本の一部とするにはもったいない、と帰るたびに思う。

言葉食べ物自然信仰も思想も建築様式も芸術も町並みも何もかも日本とは違うのだ。

中国に近いけど中国とも違う。


実家首里城のすぐ近くにある。

母親守礼門に隣接する小学校に通った。

首里城とそれを囲む城壁を何度見ても紫禁城万里の長城に重なる。

赤を基調とするカラフルな配色、豪華絢爛な装飾。

町中あちこちに祭られるシーサーや石敢当は言わずもがな、龍を祭る風習も中国に似ている。

赤塗りの瓦屋根、通路を囲む石垣、路面を覆う石畳も、中国的であり日本的でもあり、両方が合わさって「沖縄らしさ」をかもし出している。

言葉は確かに日本語の一種であり転訛したものだが、日本語との対応関係がわからない語や中国語の残滓らしきものをよく発見する。

食べるものも、豚のあちこちの部位やらヤギ肉やら苦瓜やらピーナッツ味噌汁やらヤドカリやらハブ酒やらグアバやら、

もはや日本料理に分類していいものではない。



沖縄の人は内地人をそれと見分けられる。私もすぐにないちゃーだとばれる。

雰囲気だけでもなんとなくわかるようだし、しゃべったらほぼ確実に見分けられる。

姓を教えれば決定的に判別できる。

沖縄の人は本土姓と沖縄姓を正確に区別できる。

本土から沖縄に移住して3年滞在している友人の通称は「大城」だ。

現地人を装いたいためというが、この沖縄姓を名乗っていても本土人とばれるという。

顔が薄っぺらいからかななどと言っていたが、風格や匂いでわかるものがあるのだろう。

本土のことを「大和ヤマト)」とも言う。



やっぱりここは違う国だ。

比喩的な言い方だが、通っている血が違うのだ。


現在沖縄人で自分日本人ではない、日本から独立したいと考えている人は皆無に等しい。

独立して自分たちだけで琉球国家を運営する能力がないことに関する説明は、あまり自明なのでここでは割愛する。

母親沖縄日本ではないと言ったら怒る。

多分これが標準的な沖縄人の反応だろう。

国民国家」という枠組みに押し込められて成長してきた結果、

明らかに違う属性を持つにもかかわらず、「日本人」としてのアイデンティティけが過剰に発達して、

本来の在り様との間に乖離が生じて、アンバランス立ち位置になっているように思う。



母は、親族東京でたまに食事をしたり東京にいる兄弟に贈り物をするときは、沖縄料理を選ぶ。

本人は「あえて沖縄料理にしよう」と意識していない。

自然と選んでいるのだ。

親族と話すとき自動的に沖縄弁に切り替わる。

また冒頭で「沖縄に帰る」と言ったが、母がいつもそう言うのでいつしか私も、

住んだこともないのに、「帰る」というようになった。

これもまた母は意識せずそう言っている。

帰省して祖母としか会わないこともあるが、

沖縄という土地自体が「家族のいる場所=帰るべき場所」と認識しているようだ。

意識せず自然体で現れるからこそ、自分の拠り所、ルーツなんだろうなあと母を見ていて思う。


国家」という枠組みで個人のアイデンティティを規定することには、本当はいろいろな不都合がある。

母親らにとっての拠り所は「日本」よりももっと狭い、空気のような存在であり意識する必要すらない「沖縄」なのだ。

 
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