はてなキーワード: 大長編ドラえもんとは
あれって、一見すると「みんな違ってみんな良い」みたいな曲の印象があるけど、実は割と凄い事言ってるんだよね。
冒頭部分の「大人は時々ムリ言うぞ子供にまじめにムリ言うぞ『世界の人とは仲良しに国際的な人となれ』一緒に遊びたいけどアメリカ10時でもう夜ペキンは8時でまだ朝遊べない」って、
要するに「世界の人と仲良しになんかなれない」って言ってんだよね。
これは暴言のように聞こえるが、ネットとかやってると、世界の人どころか同じ国の人でも「こいつとは仲良くなれないし、なりたくもない」ってのがぞろぞろいるのが普通だ。
まして世界なら、プーチンだの習近平だの、ヤバい奴が目白押しで仲良くなんてなれるわけもない。
けど、殺し合いまでやるわけには行かない。
じゃあどうするのかと言ったら、他のやつも巻き添えにしてあいこにするしかない。1対1だと殺し合いで決着になるから。
皮肉というのか何というのか、大長編どらえもんって、夢幻三剣士も含めてあいこで終わる事ってないんだけど。
いずれにせよ、1対1で完全に決着をつけてしまうのが大長編ドラえもんなのであって、魔界大冒険や鉄人兵団なんて、相手を惑星丸ごと、歴史丸ごと破壊して決着をつけている。
夢幻三剣士ものび太やしずかが一度は死亡するという大長編史上まれにみる陰惨な戦いの末に、ラスボスを殺害している。
これはもうグー同士で戦って、あいこではなく相手を殺しての決着なんだよね。
そのエンディングテーマに「いや、あいこにするべきでしょ。グー同士でもなく、グーとパーの戦いでもなく、グー・チョキ・パーでみんな違うんだから」という歌詞ブッ込んだ武田鉄矢って凄え。
浅すぎる。
『平成狸合戦ぽんぽこ』は多摩の開発と自然破壊を題材にしているが、そこに描かれているテーマは「自然vs人間」ではない。
「里山vs都会」だ。
なぜ狸が擬人化されているのか?
狸の反抗が左翼活動家集団のように描かれて、居座りやら内ゲバのようなものまで描写されるのはなぜか?
ラストに敗北した狸が「慰み」として作り上げた幻覚は、どうしてただの狸の生息する森や山ではなく、かつての暮らしをする人々のいる人里なのか?
狸たちは都会人としての生活に反抗し、里山的な生活を固持しようとする人間の表象だ。
物語のラストで、敗北した狸たちは、人間に化けられるものは都会の暮らしを余儀なくされ、人間ではない狸たちは社会から阻害されて死出の旅へと出る。
その表象を現実と照らし合わせたときに、単に自然破壊はよくないという感想になるのだとしたら、あまりに貧しい。
この物語の類型は、戦後の日本において産業構造の変化に伴い、それまであった田舎といったものや、そこに住む人々たちが変化していかざるを得なくなったという話の仲間だ。
たとえば『フラガール』なんかは第3次産業に移行する時期の地方の村における人々を克明に描写している。
同じジブリでも、近い時期に製作された『耳をすませば』や『もののけ姫』は同じテーマをベースにしている。
この時期というのは、宮崎駿が漫画『風の谷のナウシカ』の方向性を裏返してラストを書き上げた時期でもあるし、寄生獣の岩明均が「環境問題への見方が連載当初と変わってきた」と述懐しつつあのラストを描いた時期でもある。
増田が考えるような純朴な「自然環境保護」の思想が日本のアニメや漫画で力を持っていたのは、藤子・F・不二雄が没するくらいまでだろう。
晩年の大長編ドラえもんではかなり純朴な「自然環境保護」思想が描写される。
思うに、こうした「自然環境保護」の思想は90年代前半にピークを迎えたあと、90年代後半には変質したのではなかろうか。
純朴なほうの「自然環境保護」は「道徳」と親和性が高いので、2000年代くらいまでは学校教育に根強く残っていたような肌感触がある(その後の教育がどのようであるかは寡聞にして知らない)。
この時期的なギャップから、この時代の作品についての評価についてはかなり歪みが残っているように感じられる。
2000年代以降は複雑化し単純に善悪で語れなくなった「自然環境保護」思想はあまりフィクションで求められることがなくなったというのもあり、当時鑑賞していた人間もこの認識に無自覚のまま、見方を更新できていないのだろうと思われる。
もし現在の視座から再び『平成狸合戦ぽんぽこ』をみるとしたら、空疎に都会化する郊外についてとか、ゴーストタウン化する商店街とか、高齢化した多摩ニュータウンに残る空き家とか、多摩で育った子供が大人になってどこに行ったのかとか、そういったことに思いを馳せることになるだろう。
しかしやはり作品のメインとしては、活動をする集団の人間くさい失敗あるあるをみて笑い泣くエンタメという楽しみ方になるだろう。
「多摩の自然が素晴らしい」という感想はその次に、絵としての美しい描写として出てくるものになるだろう。
そして、「自然を守らなければならない」というのは、この映画のテーマとしてではなく、描かれた美しい自然に感動した観客が、自身の良心でもって結論づける感想としてしか出てこないだろう。
日本人は外国に長く住んでも必ず帰国する、みたいな話を何かの折に読んだが、
まあ、実際には旅先で帰化して日本に帰らない人というのも普通にいるわけだし、「華僑などと比べるとそういう傾向が強い」というだけの話ではあるのだろう。
ただ、実在の人物であれ物語上のキャラであれ、「帰れなかったキャラ」というのは、一種の悲哀や寂寞の念があって印象深い。
実在の人物だと、阿倍仲麻呂(帰国しようとしたけど嵐でベトナムに漂着)とか、大黒屋光太夫の仲間の新蔵や庄蔵(正教に改宗していたので、帰国不可)。
物語上のキャラだと(あ、古い作品だけど一応ネタバレ注意ね)漂流教室の主人公とか、エデンの檻のキャラとか、今そこにいる僕のサラとか、ドラクエ3の主人公とか。
逆に、帰れなかったキャラがいるなかで、かろうじて帰れたキャラというのもそれはそれで味わい深い。
漂流教室のユウちゃんとか、今そこにいる僕の主人公とか。初代ペルソナのセベク編バッドエンドとか。さらば宇宙戦艦ヤマトとか(さらばの方を正史として推したいのは、この物寂しさがあるからである)。実在の人物だと、大空のサムライの坂井三郎とか。
サバイバーズ・ギルトみたいなのが凄そうな感があり、全員帰れた場合に完全にハッピーエンドになるのとは、まったく違う後日譚が想像できて良い。
ゲート(自衛隊のやつ)は、帰れなかった人たちが多すぎたせいで、あんまり悲劇的な感じがしないのが惜しかった。
全員帰れたパターンというのは、彼方のアストラとか、ナルニア国物語(最終的には1人除いて全員帰らぬ人になったけど)とか、大長編ドラえもんとかである。
主人公一人だけが漂流するケースだと、全員帰れるか全員帰れないかの2択なので、運命の明暗が分かれず、あまり余韻がない。ロビンソン・クルーソーとかゼロの使い魔みたいな感じである。
火魅子伝(ゲーム)なんかは選択肢次第でどっちもできるが、なんというか、あっさり終わらせ過ぎていて余韻がないのが良くなかった。
「何人か死んで、生き残ったキャラが日常に帰る」というパターンもなかなか良いが、取り残されたキャラに思いを馳せる事がないので、寂寞だけがあり余韻に違いがある。
時空転抄ナスカとか。ベトナム戦争や第二次大戦の戦争映画はこのパターンが目白押しなので、割と好きである。
昨今、クラス丸ごと異世界転生とか何作品もあって、大抵途中エタってしまうわけだが、
ここはぜひとも最後まで書いて「何人か帰れて、何人か帰れない」というパターンを見せてほしい。
でも主人公は大抵ハーレムを作ってしまって帰国すると問題がありそうなので、「帰れたのは主人公以外」みたいなパターンが多くなりそうではある。
https://dora-world.com/daichohen2020sp
ドラえもんは4コマのように縦4分割したコマ割りで1ページだいたい7コマは使っている。1コマの中でセリフのやり取りも多い。
一方、現代のジャンプ漫画は1ページ5コマが平均くらいで大ゴマが多い。1コマの中でセリフが無くカメラの切り替えだけに使ってるコマが多い。
https://zebrack-comic.com/magazine/1/detail
これだから大長編ドラえもんは単行本1巻でもストーリーに重厚感があり、物語を読んだという満足感が得られるが、現代の漫画は単行本1巻読むだけでは話がスカスカな感じがしてしまう。
すごく面白かった。95点くらい。
雪という題材も、なんか冬に合う映画な感じ。
後、歌も良かった(吹き替え版)
ストーリーはなんか、DQとFFを混ぜたようなファンタジー感があった。
風、火、土は出たけど、水はいなかったような…。(馬が水か?)
小野田さんみたいなキャラがいたりと、結構ストーリーはシリアス。
最後、悪役と戦うシーンがなかったのが、ちょっと物たりなかったかな。
大長編ドラえもんでも最後に敵と戦わない話は少しイマイチだったりする。(竜の騎士とか)
アナもエルザも結構アクションをするシーンがあって、これが本場のポリコレという奴かと思って感嘆した。
エルザが馬を乗りこなすシーンとか、津波に向かって走っていくシーンとか、なんかすごいなと思った。
あれはあれで、少しリョナというか、そういう層を引き付ける何かがあるかもしれない。
後、別に悪いというんじゃないんだけど、女性キャラの眼の大きさが少し気になった。
みたいなことを大真面目に言っていた友達がいたが、俺も「全て」は言いすぎにしても一定程度同意できると思った。
正確には「完成度の高い物語は全てミステリの文法に則っている」というのが俺の主張。
たとえばラノベやなろう系であっても、人気のものは基本的にミステリの文法に則っている。
最初にそれを感じたのは「灼眼のシャナ」1巻で相手の作戦を打ち破るために主人公が起死回生の一言を発するシーン。
それまでの話に出てきた要素や説明を全て踏まえて、ちゃんと考えなければ出てこない解決策だった。
「ハルヒ」も「禁書目録」も「サクラダリセット」も「はたらく魔王さま!」も「ロウきゅーぶ!」も「りゅうおうのおしごと!」も、章ごとの核となる部分でしばしばミステリの文法が使われる。
すなわちミステリの文法とは、【物語の転換点に出てくる困難な障害を、それまでの物語に散りばめられた情報だけを使って解決する】ような話作りのことだ。
これに対してその場で急に出てくる設定や、根気と努力、謎パワーなどで乗り越えてしまうのは、ミステリの文法ではない。ファンタジーの文法とでもいうべきか。
俺が思うに、面白い、また読みたいと思うような話は、基本的にこのミステリの文法に則って作られている。
漫画でもそれは変わらない。
「バーテンダー」は1話構成で、毎回異なる客の悩みをマスターが酒や話術さりげなく解決する運びだが、
マスターの使う、客の素性の推理、客が自分からは言わない悩みの突き止め方、その解決方法などは完全にミステリであり、ホームズを彷彿とさせるところがある。
「ドラえもん」もひみつ道具の使い方がミステリじみていることがしばしばある。大長編ドラえもんなどはその典型で、基本的に終盤でぽっと出の道具が問題を解決することはない。
序中盤にさりげなく出てきたなんてことない道具が、最後のカタルシスを導いたりする。これも完全にミステリの話運びだと言えよう。
「五等分の花嫁」は、零奈が五人のうちの誰かという謎の解決が、物語の主軸となる。伏線をしっかり張った謎と解決は、ミステリの文法だ。
ジョジョやハンタの能力戦で、相手の能力や相性を考えて、どうすれば勝てるのか、単に力比べでない解決を導くところも、もちろんミステリ。
一般小説でも、なおさらミステリの文法は重視される。作例はありすぎるのでいちいち挙げたりはしないが。
何にだって謎があるのだから、ジャンルによらず、それをしっかりと伏線を貼って回収すべきだ。
これをきっちりやっている作品が面白くて、逆に、全てがファンタジーの文法だけで作られた物語は、完成度に欠けるよね、と、そういう話。
(追記)
当然ミステリは読んでるしどちらかというと生粋のミステリ読みに近いよ俺は
でも全ての物語はミステリであるって言う時に本当のミステリの話をしたって意味がないでしょう
それに一般小説は書いたら書ききれないしここじゃ反応も微妙だろうから省略しただけで、中高時代はともかく今はラノベより一般小説の方ばっかり読んでる人間だよ
ネット見てたら週刊ダイヤモンドの記事で「ドラえもんの映画が復活した理由」というのがあった。
内容は、声優や作画、主題歌、脚本など常に変化に挑戦してきて今のヒットがある、というもので、それに特に異論はないけど、復活した理由を語る前に、落ち込んでた理由を考えなければならないはずだと思った。
作者が生きていた頃の旧ドラの場合でも、確か日本誕生辺りをピークにして後は落ち込んでいくばかりだった。90年代は映画ドラえもんは、とにかく「子供向け」アニメ映画でしかなかった。その「子供向け」でも、ジャンプ人気の勢いに押されて、コロコロコミックを中心に展開する映画・大長編のドラえもんは子供の興味の脇に追いやられていた。今から振り返ると、作者が長生きしていた場合、いつまで大長編ドラえもんが描かれ続けていたか、と考えてしまう。どっちにしろ声優交代した辺りで、藤子氏も大長編の原案を考えるのを止めていたのではないか。
そんなドラえもん映画が復活したのは、トヨタCMなどいろんな展開をすることで、幼児・児童向けの映画から若者・大人も見に行くコンテンツに変化させて客層を広げたこととともに、ジャンプの漫画が高年齢層向けにシフトして小学生離れを始め、ライバルがいなくなったところをコロコロ勢力・ドラえもんが繁栄することとなった。