はてなキーワード: 地中海世界とは
ローマ帝国というのは所謂地中海世界をほとんど征服してしまった大帝国だったのだけど
あまりにも広い領土なのでひとりの皇帝で治めるには何かと不便なのであるとき東と西とで
西の皇帝が廃止されるという形でもって西ローマ帝国は滅んでしまう。
こういった歴史を改変できる現代のテクノロジーがあるとしたら何なんだろうか?と時々考える。
現代技術のうち、たったひとつだけ選択してローマ帝国の為政者に渡すとして
いったい何を渡せば帝国は分割されること無く大帝国として存続できたのだろうか?
東と西で分割統治が始まる主な理由は帝国が広すぎることだったみたいだから
何らかの通信技術、電話なんかを帝国に付与したらいいのだろうか?
アジア地域で戦争が始まってもローマからの皇帝ホットラインで直接指示を出せるようになったら戦局は好転しただろうか?
あるいはもっと実際的な武器、機関銃なんかをローマ軍団兵に装備させることが出来れば周辺の蛮族の侵入を防げたのだろうか?
実際の歴史でも東ローマ帝国の秘密兵器火炎放射器は戦争で随分と役に立ったようだしやはり武器だろうか?
なんてことを考えている。
Paradox Interactive社製コンピューターゲームの略称。
とはいえ、最近はTPSや戦術級RTS、アクションRPGなどの販売も行っている。
主な過去作
Europa Universalisシリーズ - 14・15世紀から18・19世紀までの宗教改革や大航海時代の世界を扱ったストラテジーゲーム。
Hearts of Ironシリーズ - 第二次世界大戦をテーマとしたストラテジーゲーム。
Victoriaシリーズ - 19世紀から20世紀までの産業革命や第一次世界大戦の世界を扱ったストラテジーゲーム。
Crusader Kingsシリーズ - 11世紀から15世紀までの欧州・地中海世界を舞台に十字軍をテーマとしたストラテジーゲーム。
March of the Eagles(英語版) - ナポレオン戦争をテーマとしたストラテジーゲーム。
Stellaris - 西暦2200年からの宇宙を舞台にしたストラテジーゲーム。
Cities: Skylines - 都市建設シミュレーションゲーム。
幼いころに観た、「ドラえもん のび太のドラビアンナイト」には、ぜんまい仕掛けの舞姫が出てくる。しかし、まだ自分はそれに欲情することはなかった。パンツがエッチなものと認識はあったのに、しずちゃんのへそ出し衣装にも、それどころかオアシスでの全裸水浴にも何の感慨も抱かなかったのである。
もう少し大きくなってから、とある学習漫画で見たベリーダンスには、なぜかエッチな気持ちになった。確か、アラビアと聞いて半裸の女性が踊っている不埒な妄想をしているシーンだったような気がする。性の目覚めとは不思議なもので、その時に出会ったものとタイミングによって、その後の性癖に多大な影響を与えてしまうし、パンツの向こうにある女性器に興味が出てきたのは、中学生以降になってからだった。
文学でベリーダンスに出会ったのはオルハン・パムク、2006年のノーベル文学賞作家を読んでいた時だ。結婚式などの場にベリーダンサーを呼ぶべきかどうかについて議論している個所が作中に出てきた。どうやら、ベリーダンスの持っているイメージや社会的な意味が、ヨーロッパとはかなり違うのではないかと気づいたのはこの時である。
今回はかなり日英のウィキペディアの記事が充実しているので、そこから抜粋しよう。
そもそもベリーダンスには二種類の社会的コンテクストがある。一つはRaqs BaladiまたはRaqs Shaabiと呼ばれる社交ダンスで、別に露出度の高くない通常のファッションで行われる。保守的な地域では男女別に踊るものとされている。もう一つがパフォーマンスとしてのダンサーだが、社会的地位はまだ高くない。想像する通り、イスラームでは禁忌とされる肌の露出を行うからである。
衣装はbedlahと呼ばれ、典型的なのはぴったりしたブラトップ、臀部のベルト、そしてロングスカートかハーレムパンツの組み合わせでできている。ブラとベルトはビーズやスパンコール、クリスタルやコイン、ビーズや刺繍で飾られている。ベルトはスカートと一体のこともあれば、別々のこともある。
ベリーダンスの起源は諸説存在するが、地中海世界、中東、アフリカと関係があるという証拠が最も多く挙げられている。たとえば、紀元前5世紀のものといわれるエジプトの墓の壁画には、半裸のダンサー達が描かれており、その姿はベリーダンサーが鏡の前で行う柔軟体操の姿勢に似ている。ウィキペディアにはこんなことが描かれているが、画像がないのがもどかしい。紀元前14世紀のネブアメンの墓には、少女が帯だけを身に着けて裸で踊る姿が描写されているが、紀元前5世紀とは年代が合わない。紀元前13世紀のもので、トップレスのダンサーの姿を描いた陶片も出土している。
健全な精神がどうたらという言葉で有名なユウェナリスや、風刺詩人のマルティアリスは、現在のスペインや小アジア地方で波打つ動きやカスタネット、太ももを震わせて床に沈み込む所作のある踊りを記録している。
そして、12世紀から13世紀にかけてのペルシアの細密画の中においてもベリーダンスの描写が見られ、その歴史の長さを伺わせる、とあるが、これもウィキペディアはリンクを貼っていない。やれやれ。
ちなみに、アンダルシア地方でロマ人の踊りと融合してできたのがフラメンコだという説がある。
エジプトのベリーダンスは西洋人が最初に見た様式とされる。ナポレオンがエジプトに侵攻した際、ナポレオン軍は芸人や音楽家としてられるガワーズィー族と遭遇した。フランス人たちは重たげな宝石と髪型に飾り立てられた踊りに徐々に引き付けられた、という。
現在のエジプトのベリーダンスの多くはカイロで行われ、その起源はナイトクラブにある。多くのダンサーはエジプトの映画に出演し、エジプト様式のダンスの発展に寄与した。
プロのダンスはエジプト人に限られていないが、2004年に当局は外国人のダンサーがパフォーマンをすることを禁止した。現在は解除されてはいるが、排他的な雰囲気は残っているようだ。
エジプトでは、ダンサーはbedlahを着用している。また、メッシュで覆われた切り込みの入ったドレスを着ることもある。エジプトには、ダンサーが着用できるものとできないものに関する法律があり、文学作品の検閲に関する法律第430号によると、ダンサーは乳房や腹部を含む下半身を覆わなければならない。事実、衣装については「Raqs sharqi」の項にも詳しいが、1950年代以降、エジプトではベリーダンサーが腹部を露出して公の場でパフォーマンスをすることは違法とされ、ワンピースガウンを着用することが一般的になってきている。
と、書かれているそうだが、一般的には、肌色の薄手のメッシュ生地で腹部を覆うだけで十分である、という記載もある。カイロの多くのダンサーはこの規則を無視しているが、この規則はそこまで厳密に施行されておらず、腹を出してパフォーマンスをした場合は単に罰金を科されるだけである。しかし、外国人のベリーダンサーが衣装を着て逮捕されるという事件が何度も起きているとのこと。
ブラとスカートを別々に着用する場合は、ベルトはほとんど使用されず、タイトでなめらかなlycra(?)のスカートに直接刺繍が施されている。腹をカバーするために、薄手のストッキングを着用しなければならない。
エジプトのダンサーは伝統的に素足で踊るが、最近では靴を履いてハイヒールを履くことも多い。また、抑制のきいた正確な動きでも知られている。
子孫繁栄を祈る踊りでもあるため、中東各国では結婚式に欠かせないそうだ。なるほどパムクの小説に出てきたのもこれで説明がつく。
トルコのベリーダンスの衣装は肌を露わにしたものであり、ダンサーたちは腰より高い位置で留められたベルトに脚を完全に露出させるようなスリットの入ったスカートをしばしば身にまとっていた。
多くのトルコの衣装の特徴的な特徴は、V字型または三角形のベルトが含まれており、上端の周りに形を整えたり、輪郭を描いたりすることができる。また、ブラジャーとベルトの両方に多くの装飾やビーズのフリンジが含まれる。スカートは、しばしばエジプトの対応するものよりも充実しており、lycraよりもむしろシフォンやベルベットで作られている可能性が高い。
1980年代から90年代にかけては、両足をヒップまで露出させたスカートや、広く開けたブラジャーやはなはだしくはスパンコールのみなど、非常に露出度の高い衣装が採用された。何があったのだろう?
今日のダンサーはエジプト・スタイルを想わせる、淑やかなマーメイドスタイルのスカートを穿いている。ダンサーたちはハイヒールとプラットフォーム・シューズ(厚底靴)を履く事でさらに、ターキッシュ・スタイルである事を強調する。ト
トルコのベリーダンスはオスマン帝国のスルタンの宮殿にあるハレムに深いルーツを持ってはいた。しかし、今日のトルコのベリーダンスは、エジプトやシリア、レバノンと言った姉妹様式よりも、ロマ民族やローマ人の様式により強く影響を受けている。現に、現在のトルコのダンサーの多くは、ロマ民族にルーツを持つ。トルコの法律は、エジプトのようにダンサーの踊りの様式や衣装に制限を課さなかった。
エジプトとトルコの様式の中間であると言われる。レバノンダンスは、古典的なオリエンタルダンスをベースにしながらも、現代的でもある。大きなステップ、体幹の後方への傾き、ヒップローテーションのねじれ、大きくて忙しい腕、そして多くのシミー(体自体は動かさず、肩のみを前後に動かす所作)がある。
衣装については、腹部を見せることを禁じる規定は存在しないため、bedlahスタイルが一般的である。スカートはエジプトのものよりも透けている傾向にあり、ダンサーの身体がよく見える。ヴェールはエジプトと比べて広く用いられ、ハイヒールも一般的。レバノンのダンサーはエジプトよりも衣装の自由を享受している。
アラビアの様式によく似ており、イランではベリーダンスのことをアラブのダンスと呼ぶ。
その他の伝統的な様式がある。興味深いのは、民族的なスタイルのブラに着けられたコインは中近東のものとは限らず、日本や中後のものらしいものが含まれることだ。参考、ブラトップ。乾隆通宝とあるので、18世紀のものだ。当時からそこまで交易網が広がっていたことがありありと浮かぶ(インド洋交易の歴史はもっと古いが)。
ベリーダンスという名称も、https://en.wikipedia.org/wiki/Belly_dance#/media/File:Jean-L%C3%A9on_G%C3%A9r%C3%B4me_011.jpg:title-ジャン=レオン・ジェロームの絵画]の俗称に由来しているという説がある。この絵画では腹部どころか乳房をあらわにして兵士たちの前で踊っているが、この画家は空想を織り込むことで有名だ。たとえば別の有名な蛇使いの絵画]
の後ろにある青い壁と床の組み合わせも、確かどっかの宮殿とモスクを適当に組み合わせたもので、正確さに欠けている。異国情緒あふれていて魅力的だが、今ではたぶん許されない表現だろう。実際、ベリーダンスからイメージされるものは、元来その地域のものであったものとは異なる。
普通、ベリーダンスの衣装としてまず想起されるものは、1930年代のエジプト・ダンサーたちが身にまとい、他の地域へと知れ渡った衣装で、たいていビーズかコインがブラの周辺に飾られたブラジャー風のトップスで、腰のベルトにもビーズかコインが飾り付けられている。下半身はハーレムパンツ、ストレートタイプのスカート、サーキュラー・スカート、パネル飾りがあしらわれたスカートである。
20世紀のバーレスクや映画産業がこうした幻想を広めたのだが、当のエジプト人ダンサーたちもまたまたビーズで全面を飾り立てた衣装を身に纏うようになった。映画でも、セクシーな悪役のイメージとも結びつき、胡散臭いものとして見られることも増えてしまった。このイメージの払拭には時間がかかった。
今でもカイロにあるナイトクラブのオーナー、バディア・マサブニは西洋人旅行者の期待に添うために露出度の高いドレスを採用している。身体の輪郭を覆い隠し、ダンスのたびに強調されるのはスカーフやお尻に巻かれたベルトくらいであるエジプトの民族衣装とは異なるのである。
https://dic.pixiv.net/a/%E8%B8%8A%E3%82%8A%E5%AD%90%E3%81%AE%E6%9C%8D]
踊り子と聞けば川端康成ではなくこっちを思い出してしまう人は多いだろう。
たぶん、日本のゲームでベリーダンス的な幻想を多くの青少年に植え付けたもっとも古いものの例だ。今に至るまで踊り子といえばへそ出しであり、無数の同人誌で多くの人を悶絶させたはずである。ただ、中東のベリーダンスは伝統的にはここまで脚を出さない。
【マギ】モルジアナさんの踊り【ぬるぬるな高画質】 - ニコニコ動画
現代の漫画でオリエント幻想を一番前に出しているのはこの作品だと聞いたのでリンクを張る。読書の傍ら、漫画も読もう読もうと思って全然読めていないのが悔しい。短篇ばっかり読んでいる。
ただし、書かれているのが謝肉祭とのことであり、結婚式の場ではないようだし、伝統的な衣装とは幾分異なる。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm21377022]
英語版のウィキペディアでアニメの中のベリーダンスとして紹介されたのがこの作品だ。鳴子ハナハルの作品については、エロ漫画ソムリエの友人から薦められて楽しく読んだ。大体、彼が進めてくれるのはストーリー重視で性欲があまり刺激されないものが多いのだが、それはさておいて、上の動画は深夜アニメなだけのことはある。
しかし、衣装や腰の動きは半ばリオのカーニバルじゃなかろうか。未来が舞台だから文化が混交しているのかもしれないが。
Intimate parts in Islam - Wikipedia
で、実際イスラームにおけるへそ出しファッションってどのくらいのタブーに当たるのか?
上記記事によれば、身体のどの部分を覆うべきかについては大きな差があるようだ。主要な見方をまとめると次のようになる。
とはいえ、トルコのようにかなり世俗化しているところもあるし、特に異教徒に対して顔を隠すべきかはかなり差があるようだ。
実際のところ、イスラーム圏でへそ出しダンスって普及しているの? と思っていたので、意外と広まっていたのには驚いた。しかし、あれだけ広い地域に広がっている宗教なのだから、戒律をどのくらい守っているかには地域差があって当然だし、都市と農村では法の運用方法にも差があってもさほど驚くべきではないだろう。悪名高い女子割礼や名誉の殺人にしたところで、イスラーム本来の教えというよりはその土地の部族の慣習が強化された面もあるようだ。海外に行くと善意から両手を合わせた挨拶をしてくれることがあるが、タイ人と日本人を混同するような誤解を、きっと僕らもしていることだろう。
自分で書いてみる。
このエントリーでは基本的に首都まで攻められるか、首都以外を失うに等しい状況から
反攻に出て逆に周囲に脅威を与えるレベルにまで回復した国家を取り上げる。
※※独立戦争関係は「弱くて当然」なので極力避けています。(追記)
「落ちる時はいっそどん底まで落ちた方がいいんです。はい上がる距離が長いほど男の子はずっと強く素敵になりますから」結崎ひよの(城平京)
国名 | 地域 | 簡単な紹介 |
---|---|---|
旧バビロニア | アジア | アッシリアのシャムシ・アダド王に隷属する都市国家であったが、シャムシ・アダドの死後時間をかけてナイセイTUEEEで力を蓄え、マーリから兵を借りパクするなどして四方世界の統一に至る。 |
趙 | アジア | 老いた大国晋の内乱で智氏ひきいる智・魏・韓の連合軍に根拠地を攻められるものの、奇跡の逆転。中国戦国時代には強国のひとつとなる。類似例:田氏斉(弱体化はしたので趙を選定)越(追記) |
ローマ共和国 | ヨーロッパ | ケルト人に首都ローマを攻められ、みかじめ料を払って帰ってもらう。その後もピュロス・ハンニバル・同盟市戦争などのピンチがあったが、根性でしのぎ地中海世界一円を支配する強大国になる。類似例:アテナイ |
パルティア王国 | アジア | ローマ帝国に何度も首都クテシフォンを攻め落とされるが、何度もしぶとく復活する(知識不足ですみません)。 |
ウェセックス王国 | ヨーロッパ | デーン人に攻められ国王が農家のおかみさんにカマドの番を命ぜられるまで墜ちるなどするが復活。いちおう世界帝国イングランドに繋がっていく。 |
フランス王国 | ヨーロッパ | 百年戦争ではパリの地方政権状態にまで追い込まれる局面もあった。ゲクランやジャンヌ・ダルクなど国民的英雄の活躍でイングランドを追い出し、長年のライバルをつとめる。 |
ビザンティン帝国 | ヨーロッパ・アジア | イスラム帝国によって首都コンスタンティンノープルまで攻め込まれるもギリシア火の神通力によって撃退。小アジアを奪い返す。その後もトレビゾンドゾンビ。 |
モンゴル | アジア | チンギス・ハーン幼少期には一家族の単位にまで落ち込む。チンギスが成長してからは庇護者のトオリル・ハーンのケレイト族すら吸収。チンギスの死後も領土を拡大していく。 |
ムガル帝国 | アジア | 初代バーブルはウイグル族によって故郷を追われた身。背後で敵と戦いながらインド方面に進出して領土を得る。二代目のフマユーンがイランに亡命する局面もあったが、最終的にインドの大半を支配する。 |
徳川家 | アジア | 今川家の属国状態から義元の死を機に独立。幾多の窮地をめんどうくさい三河武士の助けで切り抜けて天下を取る。類似例:毛利家。 |
おまけ
国名 | 地域 | 簡単な紹介 |
---|---|---|
新羅 | アジア | 朝鮮半島統一直前も百済の手痛い反撃を受けていた。唐の参戦で一挙に形勢を逆転。百済と高句麗滅亡後は巧妙に立ち回って唐を追い出す。 |
スペイン | ヨーロッパ | 西ゴート王国からの連続性が微妙なので十選には加えず。 |
オスマン帝国 | ヨーロッパ・アジア | キリスト教徒農民を守る遊牧民ヤクザからスタート。ギリシアを得て、順風満帆かと思いきやティムールによって壊滅的な打撃を受ける。しかし、ビザンティン帝国が衰退していたおかげで復活の時間をえる。キリスト教世界最大の敵となる。 |
ズールー王国 | アフリカ | だいたいモンゴルに同じ感じ。 |
ベルギー王国 | ヨーロッパ | 第一次世界大戦でドイツ帝国の侵略を受け、領土の大半をうしなう。しかし、西端に国王アルベール自らが率いる軍がふみとどまり連合軍の一員として反攻を続けていく。ドイツの敗北によって全土を回復した。 |
イスラエル | アジア? | 現在進行形すぎてうっかり忘れていたので追記 |
スイス連邦 | ヨーロッパ | 最初からクライマックス(追記) |
ポーランド(第二共和国) | ヨーロッパ | 第一次世界大戦による誕生直後の脚がプルプル赤ちゃんバンビ状態で、同様のロシアに攻められる。しかし、ヴィスワ川の奇跡と呼ばれる大勝利で逆に東方へ領土を拡大した。その後はお察しのとおりだよ(ブコメより追記) |
サウド家 | アジア? | 弱体化し一時はクゥエートへ亡命するも、第一次世界大戦の流れに乗ってイギリスと協力し、オスマン帝国からアラビア半島を切り取る。(ブコメより追記) |
なんとかアフリカ・アメリカ・オセアニアの例を取り上げたかったけれど知識不足でした。
中国は国家の組織ができていないように思える内乱の浮動期を入れないようにしました。
ビザンティンも最盛期をすぎているので、オスマン帝国と交換した方がいいかもしれません。
「shi3zの長文日記」がホッテントリに入っていますが少し言葉足らずかなあ…
http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20160607/1465246379?_ts=1465261918
”また、いま普及している聖書は基本的にさまざまな本の断片を集めた合本であるため、訳者によっても微妙に解釈が違う。そもそも原著はヘブライ語で、ヘブライ語聖書からそのまま翻訳しているわけでもなくて、一度英語になったものを翻訳したりするわけだから話がさらにややこしい。”
上記は旧約聖書にはあてはまりますが新約聖書にはあてはまりません。
http://www.bible.or.jp/know/know07.html
”旧約聖書はヘブライ語で記されている。ごくわずかの部分はアラム語である。”
ですが
”新約聖書はギリシア語で記された。このギリシア語はヘレニズム時代に地中海世界で共通語となったコイネ-と呼ばれるギリシア語で、古典ギリシア語とは異なるものである。使徒たちによってキリスト教が伝えられていったのは、このコイネ-・ギリシア語の世界であったので、新約聖書はコイネ-・ギリシア語で記されたのである。”
イエスが生きた時代のパレスチナの日常会話はアラム語であり、ローマからオリエント世界における国際共通語はギリシャ語でした。
一般にイエスが実際に発した言葉はアラム語で、その言葉を使徒が書留め、書簡に記したり布教に使用したのはギリシャ語だったと考えられています。
”イスラエル民族はカナンの地(パレスチナ)に定着してからヘブライ語を使用したが、後にアラム語が使われるようになった。このアラム語はアッシリア、バビロニア、ペルシアで用いられていた。エズラ記のアラム語部分はペルシア王との間に交わさた手紙であるが民衆は理解できなかったことを示す記録が列王記18:26にある。アラム語は次第にイスラエルに浸透するが、バビロニア捕囚はそれに大きな役割を果たしたと考えられる。ギリシア支配時代以降ヘブライ語は聖書その他の宗教文書に用いられ、一般にはアラム語が日常化していった。イエス時代のパレスチナではアラム語が用いられていた。福音書記者はイエスの語られた言葉の中に、ごく少数ではあるがギリシア語と並行してアラム語を保存している。「タリタ・クム」(マルコ5:41)「エッファタ」(同7:34)「アッバ」(同14:36)「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(同15:34)がそれである。”