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2013-12-03

地球上のすべての土地を削り取って海に投げ込むと陸地は無くなって海だけになるという。つまり山の総量よりも海の深さの総計(海の容量)の方が大きいということだ。

つの例え話なのでこれが事実であるかはどちらでもいい(たぶん事実だけど)。

もしくは以下のような仮定をしてみる。。

予算に限りのあるNPO、例えば貧しい人に食料を配布するNPOだとしよう。そのNPO一部の人だけに支援をするのは不適切からと支援の対象者を世界の全員に広げたら支援は一食分にも満たずに結局は一人も救えないことになる。一人ひとりには取るに足りない金額でもかき集めれば何かを成し得るという募金の考え方の真逆になってしまう。

世界は少しずつ改善されており、建前と現実に食い違いはあるものの着実に民族宗教性別ジェンダーでの差別を減らす方向に向かっている。

奴隷はいなくなり、軍人ですらも拷問されない権利があり、病気や障害などで働けない人、そもそも働く気のないような人ですらも生きることは保障されていたりもする。

今では子供向けギャグマンガでうっかり男の子同士がキスしちゃったりしたときに「オエー!気持ち悪い!」なんて言っている描写を見ると、同性愛者の人は気分を害していないだろうか?なんて余計な心配をしてしまうぐらいに世界は「配慮」に満ち溢れている。

もちろん国や地域社会階層などで進行・浸透の度合いは違うけれど、少なくとも日本の属する西側先進国の間ではあらゆるマイノリティに対しての配慮を進め、平等社会を実現することを目標としているように見える。

貧困差別は無い方がいいに決まってる。貧困にまつわる問題を解決するためには貧困層以外の全員がなんらかの負担をしなければならない。それはある程度は税金と言う形で実現されている。

差別をなくすためにも何らかの負担必要だ。上に挙げた例のようにゲイオカマデブハゲチビに嫌な思いをさせないためには程度の低いジョークを止める程度の負担で済む。もっと根深差別に対しても同様で、差別される側が深く傷つく代わりに、差別していた側が広く浅く少しだけ何かの負担をすればいい。それは金銭的、精神的な負担だったりもしくは歴史的背景を学ぶことだったりといろいろな事が必要だとは思うけれどつまりマイノリティが抱え込まされている負の財産大勢ちょっとずつ負担するという募金のような考え方になるんじゃないかと思っている。

2012年ごろに月刊アフタヌーンで連載していた「勇者ヴォグ・ランバ」という漫画で以下のようなセリフがあった。正確には覚えてないので印象に残った部分の要約みたいになってしまうがこんな感じだ。

世界から奴隷がいなくなったので今まで奴隷がやっていたような労働を一般の人が少しずつやるようになった。世界から戦争を無くしたいならば一般の人を含めた全員が今まで軍人がやっていたような作業をやらなければならない。」

続きで語られる具体的な部分は覚えていないが、つまり戦争を無くすという大きな変革を成し遂げるためには全員がそれなりの負担をする(主人公為政者側なので「負担をさせる」が正しいが)覚悟必要覚悟も無しにきれいごとを言っても意味が無い。という会話だったと思う。

誤解の無いように書いておくと、ここで言う「軍人がやっていたような作業」とは人を殺して回ることなどではなく、もっと精神的な部分だったと思う。この辺で揚げ足を取られるのは本意ではないので意図を汲んでいただけると幸いです。

現実に話を戻すと、少人数の重病の人の治療費をみんなの保険カバーすることは可能だと思う。日本人口の2%程度に生活保護を支給するのもまだ大丈夫だろう。でもこれは日本と言う裕福度の平均値が高い閉じた社会から可能なだけであって、先の二例だけであってもこれを世界中に広げることは不可能だ。

全ての先進国が食事の選択肢を減らし、贅沢をしないように、残飯が出ないように、とがんばればアフリカで飢えてる人を全員救ってもまだ余るらしい。じゃあやりますか?「それ(アフリカ)とこれ(先進国)は別」というのが現在出ている答え。これについては特にコメントしない。

食料やお金なら多少は分けてあげてもいいという人もいるかもしれない。じゃあ平和を少し分けてあげることはできますか?過度な貧困地域犯罪多発地域を無くすために世界で広く貧困犯罪を引き受けてあげますか?

貧困が減れば犯罪も減るかも知れないので、それらの総量は常に一定ではないかもしれないけどここでは無視する)

今は世界の都会でもいわゆる危険エリアに行かなければそこそこ安全だけれども、広く薄く貧困犯罪を引き受けるというのは、全員が常にそこそこの犯罪リスクさらされながら生きるという事になるのではないかと思ってしまう。全員が「負担」として十分な警戒心と自己防衛の知識と技術を持たなければならなくなるのではないだろうか。

先進国の豊かな暮らしは、貧困犯罪差別や不衛生やその他の負の財産途上国マイノリティ負担してもらう事でなりたっている。

みんなの理解や努力で負の財産自体を減らしたり消滅させたりすることが可能な部分もあるとは思う。

それでも海は陸地より大きいのではないか不安になる。

全ての人を救おうとした結果に待っているのはすべての人の不幸なんじゃないだろうか。

おれの考え方がおかしいのかもしれない。みんなこの辺にどう整合性を付けているか気になる。

追記

トラバにあるように、まずは自分生活大事。遠くの誰かより身近なペット心配。というのは理解できるし自分もたぶんそういう人間だと思う。

しかし目が届きにくいからと言って遠くの問題から目をそらすのは人間としてあまり程度の高くない行いにも思える。100年前ならいざ知らず今はインターネットマスメディアなどで多くの情報を得られ、一般人でもその気になれば世界のほぼどこにでも行ける時代だ。なのに「遠くの事は知りません」という態度が(個人としてではなく社会として)正しいのかはわからない。

じゃあ何をどこまですればいい?そもそも今のまま差別不公平をなくして行けば良くなるのか?もしかして良くしてるつもりがみんなで袋小路に突き進んでるのではないのか?と疑問がつきない。というのが現状。

追記2

トラバブコメもあんまりついてないのに追記ばかりしてもしょうがないのだけれど、どうも意図がうまく伝えられてないようなので書き足す。

身近 VS 遠く という軸も気になる部分の一つではあるのだけどそれが主題ではないのです。

社会は確実に「遠くの知らない誰か」や「昔なら無視していいと考えられていたマイノリティ」に配慮する方向に向かっています。だからと言って身近な人やマジョリティ死ねとかは誰も言っていない。全員が幸せになるために、現状不幸せな人が幸せラインに立てる方策模索しているわけですよね。

だけど「全員が幸せ」っていうのは実現可能なのか?それは「全員が少し不幸せ」になるのではないか?と言っているのです。

10の人、5の人、マイナス10の人、いろいろいると思います。(誰がどういう基準で判断するのかは置いといてください。定量化目的ではなく、ただの表現ですから

全員の幸せを目指した時にせめて3とか4で落ち着けばいいけれど、結局全員がマイナス7とかになるんだとしたら悲しい結末ですよね。会社で言うならば使えない社員アルバイトにも平均的正社員と同じ待遇を与え、障害者雇用も推し進めてたら潰れてしまったということになるんじゃないの?差別や不平等は無くした方がいいとは思いながらも、差別や不平等があるからこそ今の生活があるのだとしたら、差別や不平等を無くさない方がいいんじゃないのか?でもそれは被差別者人権を考えるともうありえない選択肢になっている。つまり社会沈没に向かっているということになるのではないか

というのがメインテーマです。

さらに追記

いろいろ意見をいただけてうれしいです。今後も考える材料にしたいと思います。より有益意見をもらえるように以下に気になったコメント等に返事します。これ以降、コメント等への返事については「追記」とか区切らずに追記しちゃいます

そもそも幸せかどうかって以前に命が保証されてない生活を送っている層もあるわけで、食料や医療の問題と、差別マイノリティの問題を同じステージで考えるのは無理があると思うよ

話を広げ過ぎてしまったこちらのミスです。すみません

だけども、基本的には同じだと思っています

命が保障されていない人たちを救うために自分たちの命の保証度を引き下げる事をどう考えるか?

差別されている人を差別から自由にするために自分たちの自由が減ることをどう考えるか?

一個一個を見ると「やるべき」に思えるけど、それらをすべて推し進めた先には暗い未来が待ってる気がする。結局は誰かを犠牲にしないと生きていけないのか?という疑問です。

歴史上、農耕社会成立以降に被搾取者や非差別者がいなかった事はありません。彼らの犠牲なしに人間社会を維持できるのか?犠牲のない社会とはどんな社会なのか?そこに自分は暮したいのか?今の暮らしを維持するために誰かを犠牲にし続けるのか?結局は「遠くの被差別者よりも身の回り大事から」と言って物質精神搾取を続けるのか?わからないことだらけで困っています

http://anond.hatelabo.jp/20131203172536

わかりやすい説明をありがとうございます

富の問題に関しては少なくとも良い方向に向かってるんですね。なんか安心

 
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