はてなキーワード: 劇映画とは
https://twitter.com/nanai_komusai/status/1397122109319483393
優れた映画ってのは作品自体の中に設定で決めたことが分かるように入れ込んであるんであって分厚い設定資料集作ったのに作品中にそれが反映されてないのは駄作なんよ、だから考察に耐えうる作品ってだけで最近じゃ少ないんですよ。書を捨て本編を観よ!
https://twitter.com/nanai_komusai/status/1397497351514726407
公式本に書かれていあることは答えなんですよ、ああ正しいさ正しいだろうよ、けど答え書いてある本読んだあとで何を考察しろって言うの?公式本は考察をできなくする本だよ。第一アニメ本編見ても絶対に分からないことはいくら外部資料にあったって”採用されたか疑わしい”じゃないか
https://twitter.com/nanai_komusai/status/1397496162140114945
さんざん本編部分の誤読を突かれたあげく、「優れた映画ってのは作品自体の中に設定で決めたことが分かるように入れ込んでいるもんだ。そうじゃないのは駄作!」と叫ぶ。その言でいくとおまえ的には『もののけ姫』は「考察に耐えない駄作」ってことになるのだが? と思ってしまうがここではいじめないでおいてあげましょう。きっと何も考えてない人なんですよ。
とはいえ、上ふたつのツイートで言われていることは理念的にはさして間違っていない。
もっともラジカルなテクスト論では書かれてあることがすべてであり、作品の外部に「正解」などない。
実際的な問題としても、インタビューで開発者や製作者が「この作品は○○について書きました」と明言しようが、作品を見たら全然そう受け取れないことはよくある。
単に制作側が事実や題材について勘違いしているケースもあるだろうし、制作者がインタビューでテキトーなことしかいわない高田純次野郎だという可能性もある。そもそも作者が自分の作ったものについて2000%知悉しているなんてファンタジーである。作者はクリエイターという点では神に擬せられるかもしれないが、全知全能であるかどうかいう点についてはとても神とはいえない。
なので、「作品のなかで描かれていることのみを受け取って解釈すべき」というスタンスはおおいにあり得る。「インタビューや設定資料などの外部の資料にもあたるべきだ」というスタンスとおなじくらいには。
「考察」は違う。
「考察」とはなにか。
わからん。
そこでは「”正解”を探すための思索を伴う洞察」と「作品の幅を広げるための妄想的二次創作」というふたつの意味あいがせめぎあっている。
答え探しであって答え探しではない。二次創作であって二次創作ではない。
この曖昧さがネットにおける「考察」文化をたいへんブルシットなものにしている。
よく「考察」をのべるときにオタクたちが前置きとして言うのが「これは個人的な解釈です」だの「妄想として捉えてください」だのといったエクスキューズ。
これがまあ卑怯だ。
だって、本当は「個人的な解釈」や「妄想」として受け取ってほしいだなんて微塵も願っていない。
半分与太話として聞いてくださいよ〜〜〜という韜晦を装いつつ、腹の底では好きあらば自分の説を解釈のひとつなどではなく無二の真実として受け入れることを受け手に要求する。
作品を踏み台にして、自分の世界にむりやり引きずり込み、その世界、すなわち自分を讃えろと強いる。
そういう態度が卑怯だと言っている。
批評や二次創作はその形態自体が数ある解釈のひとつであるということを前提にしている。
劇映画を観るときに観客が誰もそれを現実だと受け取らないのと一緒だ。
「考察」はその言葉自体答え探し的な性格を孕んでいるにも関わらず、実態としては全然そうではない。
「考察」勢は、そのあいまいさの暴力を自分たちの都合のいいように使う。
こうした手合は陰謀論者に似ている。
政治的だったり差別的だったりするたぐいの陰謀論に比べると実害は少ないかもしれない。
だが、損なわれているものは確実にある。
世界を醜くしている。
いま発売されている日本製のスチルカメラ(写真撮影用のカメラ)というのは、写真だけではなく動画撮影に関しても非常に優秀で、わざわざビデオカメラ(動画撮影専用のカメラ)を買わなくてもいいかなと思わせるものも多い。
でもスチルカメラの動画撮影に関して、ものすごく悩ましい点がひとつある。
それは、1回の撮影で30分以上動画を録画できないカメラがほとんどだということ。
一眼だろうがコンデジだろうが、エントリーモデルだろうがハイエンドモデルだろうが、日本製スチルカメラのほとんどは30分以上録画できないようになっている。
厳密にいうと29分59秒までしか録画できない。
念のために言っておくと、バッテリーやストレージや発熱等の問題によって一定時間以上録画できない場合があるのは事実ではある。
でもこの30分録画制限っていうのは、技術的な問題というわけやなくて主に貿易上の問題やねんな。
EUにカメラを輸出する際、1回の撮影で30分以上動画を録画できるカメラについてはスチルカメラであってもビデオカメラ扱いになってしまって(厳密にはもっと細かい条件があるんやけど)、そのぶん関税が高くついてしまうってのが原因なんや。
パナソニックとかオリンパスみたいな一部のメーカーやと、特定の機種に関しては時間制限を設けず最初からビデオカメラ区分として輸出しとるなんてこともあるけども、それ以外はどのメーカーもファームウェアで時間制限かけとるのが現状なんよ。
ファームウェアをハックしてこの30分制限を突破するという荒業をやってのけるカメラファンもおるけど、そのやり方が好ましいものではないのは言わずもがなやしな。
そもそもなんでEUの事情でこっちまでしわ寄せ来とんねんふざけんなとかずーっと思い続けとったんやけども、昨日ついに朗報が飛び込んできたんよ。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190201/k10011798871000.html
つまり何が言いたかったかというと、EUとの段階的な関税撤廃によって、このクソみたいな30分録画制限がなくなる可能性があるということ。
ついでに言うとライカ製品も比較的安く買えるようになるかもしれんわけ。
返信
スチルカメラとビデオカメラどっちにも一長一短あって、どちらを買うかは用途や状況によって各自で決めればいいし、自分も一応使い分けてはいる。
https://www.youtube.com/watch?v=Z2S5M7angds
ただ動画内でも言われとるけど、ビデオカメラというのはざっくり言うとお手軽なご家庭向けかプロ向けかの二極化がすごくて、ちょうどいい中間のものがほぼないわけ。
でも一眼スチルカメラはちょうどその中間にはまっているものが数多くあって、選択肢が豊富なんよ。
それに一眼スチルカメラのいいところっていうのは色々あって、例えばセンサーが普通のビデオカメラより大きくて高画質だったり、暗所に強かったり、ダイナミックレンジが広かったり、なにより撮りたい画に応じて設定も細かくいじれるしレンズも変えられるしみたいな感じで、ご家庭向けビデオカメラより拡張性があってバッチリきれいな画作りができるのにそこそこのお値段で買えるっていう物が多いんよね。
そしてなによりスチルカメラは写真も動画も両方キレイに撮れるわけで、やっぱりそこは大きい。だってご家庭向けビデオカメラってスチルカメラほどキレイに(ちゃんとした)写真って撮れんからね?
それに一台だけで済むならそれに越したことないしそのほうがコスパもええよねっていう。大体そんな感じやね。
type-100 なぜ途中から関西弁になった/日本製デジカメは世界でも圧倒的に強いので、販路が広がればよいことだと思う。
ただしシネマカメラ(映画撮影専用のカメラ)においては全然強くない。
https://www.youtube.com/watch?v=nzsfHGaHE6E
これ2019年のアカデミー賞ノミネート作品ではどういうカメラが使われとるか確認してみたっちゅう動画なんやけど、ノミネート作品中で日本のカメラが使われとるのはどうやら二作品だけらしいんよ。
ひとつはナショナルジオグラフィックの”FREE SOLO”っていうドキュメンタリー作品で、これはCANONの”EOS C300 Mark II”が使われとるみたい。ちなみにこのカメラはさっき言うたプロ向けビデオカメラっちゅうやつで、Amazonなんかじゃ取り扱っとらんやつやね。
もうひとつの作品は犬ヶ島で、これもCANONのカメラが使われとるんやけど、こっちは”EOS-1DX”っていうスチルカメラなんよ。まあストップモーションアニメやから当たり前なんやけどね。
結局、劇映画で日本のビデオカメラは採用されとらんっちゅう現状なんよね。
じゃあ外国語映画賞にノミネートされとる万引き家族(Shoplifters)はどうなんかっちゅう話なんやけど、これはARRI社っていうドイツの会社のシネマカメラ(デジタルとフィルム)を使って撮られとる。ついでに言うとARRI社のカメラは今年のオスカーでも最も使われとるみたい。圧倒的王者やね。
いろいろ言うたけどSONYはじめとした日本の会社も頑張ってシネマカメラ市場に切り込もうとしとるんで、この先が楽しみではある。
団塊世代が読んだであろう本(吉本隆明、高橋和巳、三島由紀夫、等々)は読んだけど、団塊世代の人生経験自体は書いてねえぞw
それよか、黒澤明とか野村芳太郎とかの1960年代の現代劇映画観てると、当時の世相が反映されてる、劇中に汚い貧乏人ごろごろ出てくるね
いっとくが、ウルトラマンとかはあえて未来的な風景を強調してるからな
あと加山雄三や植木等の映画はわざとハッピーで明るい享楽的な作風を意識して作ってる
本を読めとか勉強しろとかうるさいけど、貴殿が言う、団塊世代は1人残らず苦労知らずでひたすらハッピーで脳天気で夢見がちだったということを裏づける、具体的な作品名を挙げて欲しい
学生運動を批判的に描いた作品(たとえば1960年代に書かれた倉橋由美子の現代劇小説とか)では、全共闘の学生がいかにも脳天気な甘ったれのように描かれている、その手の描写はよく見た
しかし、俺は最初から「団塊の大多数は高卒中卒・農家とか工場労働者とか」と述べている
それら非大卒まで一切、苦労知らずでひたすらハッピーで脳天気で夢見がちだったということを裏づける、具体的な資料を作品名とか作家名とか挙げて欲しい
写実的で実存感に溢れる流麗な映像と共にかかるThe WHOのMy Generationに、山田尚子監督と京都アニメーションの円熟と"私(達)の時代の話をしているんだ"という監督の高らかな宣言を感じた。
単行本7巻分の原作を2時間にシェイプアップされた映像は、大胆な再構成と説明要素の排除で進行される。
原作で描かれた硝子の主観はほぼほぼ排除されている。硝子は聴覚障害があり、手話と不明瞭な言葉でしかコミュニケーションを取ることが出来ない。
それは劇中でもありのまま描かれ、我々健聴者は彼女が何を言っているのか正確に理解できない。
将也や、その他の登場人物の反応で保管できる部分はあるが、原作のように硝子の視点も用意されておらず、想像の範疇を出ない。(なんとモノローグすらない)
つまり観客は彼女に同化することを構造上許されていないのだ。(これは字幕上映を観ることで考えが変わるかもしれない)
物言えぬ硝子を介して、将也はコミュニケーションを、人の間で生きていくことを学ぶ。
しかし原作で大きく扱われていた周辺登場人物との関係(欺瞞に満ちた映画作り〜かつて失くしたコミュニケーションの復活・その崩壊・硝子による再構築)も排除されている。
将也の成長物語のみに徹底的にフォーカスした結果、将也の成長を促す硝子を含むすべての周辺登場人物へのフォーカスを切り捨てたのだ。
それでは山田尚子監督及び京都アニメーションのスタッフ陣はどのような物語の演出方法を取ったのか?
それは徹底的なリアリズムと情感を託された映像密度と、そこにあるもの以外語らない、という選択だったのだと思う。
ノイジーでインダストリアルな劇伴と静かに喋る将也と物言えぬ硝子。大きなカタルシスを用意するでもなく(物語上には存在するが、ここで挙げるのは演出上のカタルシス)、ただただ丁寧に心の機微は描く。
その役割は言語化されたコミュニケーションが大前提な劇映画では異常なほど、人物(言語)ではなく映像に委ねられている。
象徴的に繰り返し映し出される様々な花のモチーフにも、それぞれ意味があり、雄弁に語る。しかしそこに言語はない。
とても静かな映画だった。
それは聴覚障害・コミュニケーション・少年の成長、という大きな主題を映像化する上でベターな選択だったし、原作モノを再解釈して色を付ける、しかしあくまで原作の範疇から出ることはせず、映像化にあたっての最良の選択だった。
「けいおん!」で見せた山田尚子監督のバケモノ級の構成力がいままさに円熟しているのを感じずには居られなかった。
もちろんその演出を選択できる体力としての京都アニメーションのスタッフの技量があってのこの映画だったと思う。
「響け!ユーフォニアム」で到達点を見せたと思われた、写実的で被写体とキャメラの存在を追求した京都アニメーションのレイアウト〜撮影までの画作りの更なる進化があってこそ、将也の心情に寄り添った雄弁な映像は生まれたのだ。
先週観た「君の名は。」で新海誠が描いていた、印象だけで構成された陳腐で空虚でしかないセンスの欠片もない映像と退屈で死にそうなほど単純なボーイミーツガール、ポストエヴァ世代の終わりなき呪縛を今作は問題外と言わんばかりに完璧に凌駕していた。比較対象が雑魚すぎるきらいもあるが、あらゆる意味で次元が違った。
新海誠に代表されるセカイ系の次世代として2000年代後半に登場した、近景に特化した所謂空気系の旗手として君臨した「けいおん!」は物語の歴史の中でノスタルジックかつアブストラクトなエポック的作品だったが、その監督である山田尚子と京都アニメーションがさらなる次世代を紡ぐ、体制側・システムとしての完成をみたのが今作だったと思う。
オルタナティブとしての物語を自分のストーリーとして受け取る現世代のための物語装置を創りだすシステムとしての京都アニメーション。
圧倒的なクオリティと確実なチョイスで、先陣を切りそれを体現していく山田尚子。恐ろしいことに今回は萌えを武器にもしていないのだ。
派手な爆発も、世界を救う大いなる力も、悩める個人と直結したセカイも、今作の持つ超弩級の冷静さの前では旧態依然とした使い古されたアイデアでしか無かった。
それでも丁寧に丁寧に人の手で作られたアニメーションは、絵が動き、実写以上の実存感を持って我々の心に寄り添い訴えてくる。
同時代に生きられることに感謝し、最大級の賛美を持って新時代の幕開けを向かい入れたいと思った。
必見。
日本の深夜に流れる萌えアニメの日常パートに使えるほど3DCGの技術は高くない。
実行すればスクールガールストライカーズのCMのようなものを見て萌え続けることを強いられるだろう。
日常シーンで3DCGが導入されない訳
カートゥーンレンダリングの違和感が未だ拭い去れないからでは?
カートゥーンレンダリングというのは、モデルをレンダリングする際に陰影を潰してフラットに仕上げることである。
これにより3DCG特有の光沢感をなくし、旧来の2Dアニメの風合いにぐっと近づけることができる。
しかしフィギュアを作る感覚でモデリングをしてアニメ調にレンダリングしてしまえば、
普段アニメを見ている僕たちが違和感を持たないものができるわけではない。
ベルセルクやgdgd妖精's、シドニアといった作品は素晴らしいが、
談笑している南ことりや渋谷凛を眺めるような感覚を持って鑑賞することは難しい。
ダンスや戦闘といった動きの激しいシーンならそこまで気にならなくても
なぜならカートゥーンや日本のアニメは立体物を写実的に描写しているわけではなく、
平面的な動きの面白さの追求や漫画的表現の導入の末に確立された表現スタイルに則っているからだ。
カートゥーンレンダリングを経て普通のアニメに見えるような逆算が必要なのだが、
1話25分のアニメをフルで毎週1本量産できるほどノウハウが確立されていないのではないだろうか。
些細な人間の仕草を再現することはかなり困難だからでは?
「不気味の谷」という言葉があるが、それは3DCGアニメーションにも言えて、
機械的に肘を30度に曲げて・・・というようにモーションをつけたり、
シミュレーションを導入したりしても、なかなか手描きのアニメのようにはならない。
なんというかキビキビ&ヌルヌルしすぎた動きになってしまうのだ。
ピクサーや白組が手がけるような、多大な予算を組んで年単位で作る劇映画ならば、
数千万単位で発案から放送開始まで1年もないようなテレビアニメではそんなことできない。
モーションキャプチャを採用するにしても設備はなかなかないし、アクターへのギャラやスタジオ代も馬鹿にならない上、
モーションキャプチャになれたアニメーターは少ない。
そうしたところで細やかな修正はやはり必要で手間がかかることには変わりない。
そこのところダンスシーンなら動きがある程度決まっているため、アニメーションもそこまで難しくないし
モーションキャプチャにもなんとか予算を割くことができる。
要は僕らが無邪気に「〇〇かわいい」っていっていられるようなアニメを量産できるレベルに今の3DCGアニメーションのレベルは達していないということだ。
これは技術的なことではなくて経験値の問題だと思うので、時間をかけてフロンティア精神ある人々が失敗を恐れず挑戦していくしかないのかも。
そしてそこまで業界人がこぞって3DCGにかまけていられるほどの余裕はないし、
萌えアニメを本格的に作っていきたいという情熱ある3DCGスタジオの数は
よほどの理由がなければフルで3DCGにしようなんて企画は通らないのだろう。
じゃあなんで最近のアニメはダンスシーンに3DCGを使うようになったのかといえば、
それは3DCGでダンスを見せることは3DCG用いた他の描写より楽で、
逆に手描きでダンスシーンを手がけることは他よりもしんどいという合致があったからということと、
プリキュア諸々の女児アニメでの活用例やMMDの普及などにより
日本の3DCG業界内でダンス描写が妙に洗練されていった結果だと思う。