はてなキーワード: 初期条件とは
タイトルが全てなんだけど、もうちょい無駄なコメント残しとく。
エルデンリングが秀逸なのって、みんなが強敵だって言ってるボスも方法さえ問わなければ意外とどうにかなることなんだよ。
自分は過去のソウルボーンシリーズ未プレイな状態でベータテストに参加し、ツリーガードで挫折した人間です。発売日当日にゲームも買って、ツリーガードとかマルギットを初期条件で倒そうと躍起になってた時期があった。
でも途中で気づいたんだよ。それ本当に楽しいか?
そりゃさ、1つのボスに縛りプレイで1時間2時間かけるのも人によっては悪くないよ。でもそういうプレイってアクションゲームそんなに得意じゃない人間がやりつづけたら疲れるわけよ。
ゲームってのは究極楽しいかどうかが全てであって、自由度に惑わされて誰にも課されてない筈の縛りプレイを自分に課してゲームに飽きるのって本末転倒なのよね。
まあ初手でツリーガード出してくるゲームデザインがクソという問題はある。手加減をしろ。
でもエルデンリングってそういうシビアなゲームデザインにしつつ、「楽しようと思えばいくらでも楽できる」って構造でもあるので、結局は自分自身とどうゲームを向き合うのかって話になっちゃうんだよね。
結局初手でがんばってツリーガード倒そうとするのとか、マルギットと支援なしで戦うのかって、レベル1のままFF7全クリしようとするのとどのくらい違うんだよって話ですよ。
親は物心つく前に片方死んで、家父長制の権化のような毒祖父に叱られ続けた学生時代。毒祖父のせいで家庭は崩壊してた気がする。
物理的に包丁向け合ってた家なので子供が得るべき基本的な安心感みたいなのは育まれてないと思う。何をするにも劣等感にまみれてたし、運動音痴だし、友達は少ない。インターネットに救いを求めてた。当然ブスでオタク。承認欲求だけが育ち、当たり前だがスクールカーストで地を這う。田舎でむくむくと恨みを育て続けた。自分を取り囲む環境の全てに復讐したかった。
で、まずは大学受験をしたけれども経済力と偏差値が足りず県内進学。私は頭の出来も普通に悪かったようだ。死にたい。ただし、国立だったので地元では「頭の良い学生」になれた。ギリギリ自尊心が壊れずに済んだ。ついでに目の上に線を足す整形もした。
だがカスみたいな地元で上位層になっても仕方ないので「地元で結婚して子供を産みなさい」という大人たちを振り切って上京し企業就職した。
希望の業界だった。まあまあの大きな企業。唯一、業界内で貰えた内定。
希望の職種ではなかったが、こんな自分なんぞが業界に入れただけで誇らしかった。あとゴミみたいな地元からも足を洗えて最高だった。このままコネ作れば希望の職種に就けたりして、と妄想してた。第二の人生始まると思ってた。
が、同業界で希望の職種に就いてる人間を見ていると圧倒的すぎる。
「東大卒です」
「センター利用でMARCHは受かってたのでそこから大学選んだよ」
「実家に家賃として毎月3万円納めないといけなくて大変なんだよ」
「同業界の最大手に受かってたけど、弊社の方が雰囲気良さそうだったから選んだんだ!」
ふざけんな。
こんなに恵まれてる奴らと同じ職種を目指してたのがバカすぎる。同じ土俵で戦える訳あるか。家柄、経済、学歴、容姿、すべて最初から持ってる奴らに勝てる訳ねえ。初期条件が違いすぎる。
ところで、こうしてやいのやいの言ってる自分の職種だが、先輩には高卒の方がいる。仕事ができる人というのは分かるし尊敬もしてる。ただ、なんか色々頑張ったけど東京に住む高卒=地方Fラン国立大卒は同じレベルの仕事をやらされるんだなと思いやりきれなくなった。そもそも最終学歴や出身地にこだわってる自分がゴミすぎるしな。あーマジで何だこれ。
自分がそんな愚かなクソボケだと認めたくなくて足掻いている。頑張ってることしか取り柄がないので、この頑張りを諦めてしまったら○ぬしかない。
自分が首を括るか、希望の職種に転職できるか、幼少期の環境全てが爆発するか、そのどれかでしか報われない気がする。助けてくれ。
家事育児の分担について、「家事育児を頑張ると言っていた夫が結局やらなくなってしまう」という怨嗟で満ち溢れている。しかし、はっきり言わせてもらうと、女性の方が圧倒的に責任があるのである。
まず初期条件として、①労働時間は男性の方が長いことが多い、②子供の頃から家事を任されるのは男子よりも女子が多くて得意である、③家事育児の「普通」の期待水準も女性の方が一般的に高い、④出産以降に子どもとの関わる時間も女性の方が多い、ということがある。
つまり、「時間的な余裕があまりなく、家事育児の経験値が少なく、求める水準も低い」男性に対して、「時間が少しだけ余裕があり、家事育児の経験値が多く、求める水準も高い」女性の間で、「家事・育児」を平等に分担しようとしたらどうなるか。当然ながら、女性の決めた基準とやりかたに男性が従ってついていく、という形になる。
2)女性から見ると明らかに不満な水準なので、「なんで言われた通りにできないの?それでやったつもりなの?」と怒られる。
3)女性は結局自分でやったほうが早いということになり、次第に女性のワンオペ家事・育児になる。
4)男性は「勝手にやると怒られる」ので自ずと「指示待ち」になり、それを女性が見てさらに怒る。
5)男性はますます手出しをできなくなり、家事・育児から逃げるようになる。
このプロセスで悪いのは、はっきり言わせてもらうと女性の側である。家事育児については女性の方が完全に主導権を握っているからである。もし職場の上司で「使えない部下ばかりで、働いているのは俺だけだ」と怒鳴り散らす人がいたら、それは明らかに「ブラック上司」だろう。しかしこれが家事育児の話になると、ほとんど似た状況なのに、男性が一方的に悪いことになってしまう。明らかに理不尽である。
女性に求めるのは、①一度男性に任せたら口出しないこと、②家事育児の「普通」の期待水準を下げること、③外部サービスの頼ることの三つである。これができないというのであれば、それは「わがまま」としか言いようがない。
そもそも女性は家事育児に頑張りすぎているが、そんなものは超適当でいいのである。母親が不在で、今から考えてもきわめて不衛生な家と雑な育児で育った人間として強く思う。
今僕らが生きるシステムがユートピアでないのは、それが『人間によってデザインされたものではないからだ』
乾燥した地形を眺めて、川が将来どんな形になるかを水が重力に従うと仮定すれば分かるように、文明をみて人々がインセンティブに従うということを予測すればどのような機構ができあがるかを予測できる。
だけどそれは、川の形が美しさといった人間の価値観のために作られた訳ではなく、むしろ乱雑に生成された地形の結果であるのと同じく、全ての社会的機構は繁栄や正義の為に作られた訳ではなく、ただランダムに決定された初期条件の結果であるということだ。
人々が地形を塗り替え、運河を作ることができるように、人間もより優れた機構のために、動機の形を作り替えることができる。だけど「それ」が行われるのは動機付けられた場合のみであり、いつもではない。結果として、むちゃくちゃな支流や激流なんかがとても奇妙な箇所に現れることになる。
[...] まるで、最初の雨が降るはるか前から地形の中に運河の流れが埋まっているように、カエサルの宮殿は存在する前から神経生物学、経済学、そして監督制度に潜んでいたにすぎない。設計した建築家は、半透明な幻影の線に従って本物のコンクリートを埋めていただけだ。
https://tatuichi.hatenablog.com/entry/2019/10/24/211331
人間がAIを作りシンギュラリティを起こすことは宇宙の誕生時点で決まっていたのかもなあ
偶然すらも必然に過ぎなかったと
知識だけでしゃべっちゃうけど、産後すぐの母の特に辛い部分って、第一は「睡眠時間がとれない(場合がある)」だが、第二には「話し相手がいない」みたいなんだよな。
子供産んだあとのヒトのメスって、誰かに相談したり手助け頼んだりしないと、不安になるようにできている。ムラに住んでて近所のバアさんの協力を仰ぐことが、野生のヒトにとって正しかったから。都市での核家族のヤバい部分はそこに集約されてて、近所で昔からの地元の友達が専業主婦をやってる頃はまだよかったが、現代は本当に誰も相談相手がいなくなってひたすら鬱になってしまう。そして睡眠時間の欠如が鬱に拍車をかける。らしい。
俺が思うに、"ちょっと目を離したらすぐに死ぬ生き物だから不安"っていうのもちょっと違って、まず先にホルモン的に不安になって、それから理由を考えたら"赤ん坊はすぐ死ぬから"って理屈が出てくるのではないか? そこが父親との齟齬を生みやすいところで、父親には初期条件としての不安がないから、女性からみたらちゃんと見てないと取られる楽観的態度を取りがち。真実は、赤ん坊は女が思っているほどにはすぐ死ぬわけではないが、男が思っているほど楽観的にしていいわけじゃない、ぐらいのところにあるのでは。
そしてそんな真実は何の役にもたたなくて、父親はただただ母親の精神の安寧のためにうごけばいい。具体的には長時間いっしょにいて逐一話をしつつ、鬱を助長する疲れの原因を除去すればいいのだと思う。そのための休みなんだろう。家事の負担を分担するためではなく。
あと、そういうわけだから、本当は父親の長期休みよりも、母親の実家に一旦長期帰省して一緒に暮らしとく、のほうがいい気がするんだよな。皆がそうできるわけじゃないんだろうけど。
クリエイター系専門学校の小説(ライトノベル)学科で講師をしていた者です。その仕事をしていた時、小説の書き方を学ぶ若い生徒たちに「ある傾向」が見られたので、それについて少し書きます。
生徒に向かって語った言葉を元にしているので、やや説教くさい言い方なのは見逃してください。
「キャラクターが勝手に動き出す」、という言い回しがありますね。作家が自作について、キャラクターたちが自分の手を離れて半ば自動的に物語を進行させているような感覚を表現したもの、とされています。
これをもう少し一般化すると、登場人物の人格を含む初期条件さえ設定されれば物語の結末は自ずと決まる、という考え方になるでしょうか。
小説学科で教える中で、僕はこうした言葉を生徒から一度ならず聞きました。大抵は、どこか誇らしげな調子で。
いま流行りの「なろう系」はシミュレーション小説としての性質を持つものも多いので、作為が薄い方が作品として優れているのだと考える作家志望者もいるのかもしれません。架空の世界や人物を純粋な観察者として文字に描き起こしているだけ――そういう境地こそが作家としての理想なのだと。
でも、もしもこの文章を読むあなたが小説家(ラノベ作家)になりたいのなら、少なくともプロになるまではそんな言葉を使うのはやめた方がいいです。
たしかにプロではそういうことを言う人がいます。その内の十分の九ぐらいは一種のリップサービスでしょうね。現代は〈大文字の「作者」〉が死んだ世界なので、作者が「出しゃばる」ことを嫌う読者も多いですから。
残りの十分の一は天才です。天才は、セオリーを踏まえた上でそれを軽々と飛び越えられる人たちなので、もしかしたら本当にキャラが勝手に動く感覚を体験しているのかもしれません。
ですが、あなたは恐らく天才ではありません。天才でないあなたの「キャラが勝手に動く感覚」はただの願望による錯覚です。
僕は授業で、物語の要素が書かれたカードをランダムに並べて物語を作る手法を教えました。これは、大量のプロットを手早く作成するトレーニングが第一の目的でしたが、それとは別に生徒たちに、たとえ出発点は同じでも物語は(有限の組み合わせではあれ)多様な展開が成立し得るということを感じ取ってほしかったのです。
もちろん、その展開を自然に感じさせたり、人気が出たり売れたりさせるための難易度は各プロットによって差はあります。ですがそれでも、結局のところ物語というのは作者自身の手でどういう形にもなるものなのです。
「物語の流れに従っただけ」
これらは、その一見謙虚な響きとは裏腹に、物語を作る者がその責任から逃れる卑怯な言葉でもあります。
物語作家としての責任を引き受けるというのは別に、自分の書いた作品に影響されて読者が犯罪者になってしまったらどうするかなどという極端な仮定に限った話ではありません。ある作品について、他の形でもあり得たはずなのにそうはせずにこの形を、他でもない作者である自分自身が自由意志で選び取った、という事実を認めること全般です。小説の作者は全ての登場人物について生殺与奪の権利を完全に独占しており、「キャラが勝手に動いた」などという欺瞞が入り込む余地はありません。
そうは言っても商業作家は出版社やプラットフォームの規定や意向で作品内容を制限されることがいくらでもあるだろう、と思ったでしょうか。ですが、完全に無断で作品に手を入れられるのでもない限り(そういうケースも実際に存在するのが困ったところですが)、制限をどのような形で作品に取り入れるかは作者が決められますし、最悪でも作品の発表そのものを取り下げることはできます。その意味で、やはり現代においても作品は作者のものなのです。
現実的には、主に経済上の理由から、作家が真に自由に作品を執筆することなどほぼ不可能でしょう。そのような状況で重荷ばかりを背負わされることを理不尽に感じるかもしれません。
それでも、(ラノベ)作家という言葉を社会に送り出す仕事を選ぶのであれば、この「創造主としての責任」の問題を投げ出すことは許されないのです。それでも、あなたは作家を目指しますか?
何の話をしているのかよく分からなかった人も多いでしょうが、作家志望の方たちはどうかこの話を頭の片隅にでも置いといてください。なろうで日刊ランキング入りするノウハウのような、今日明日で役に立つ話ではありませんが、お守りぐらいの意味はあるはずです。たぶん。
下の話にも通じることかも知れないですが、無理ゲーというか、鬱というかそういう感覚なんじゃないですかね
やまもといちろう 公式ブログ - 働き方セミナーで見た若い人の希望「いつかは正社員」って夢無さ過ぎじゃないか? - Powered by LINE
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/lineblog.me/yamamotoichiro/archives/13197867.html
日本の「失われた20年」を招いた決定的な弱点 | インターネット | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/toyokeizai.net/articles/-/233921
「何を言ったところで原則論の繰り返し」とか「初期条件が違いすぎて勝ち筋が見えない」とかそういう話でしょう
ニコ動に関しても、「何を言っても無駄だな」と大半のユーザーは判断したのでは無いでしょうか?
一度失った信頼を取り戻すのは大変だと思います
ユーザーを騙し騙し運営することは可能だったかも知れませんが、「偽物は脆い」訳です(FGOにも関わって……こないか)
そうしているうちに、「あれ?自分にもチャンスがありそう」と思えるようなYouTuberなるものが出てきた
YouTuberではHIPHOPくらいに食っていくのが難しい、と分かると、Vtuberなるものが現れた、「これなら何とかなるんじゃね?」のような物語の変遷
テレビ文化からネット文化への変遷と、自動車の人気の凋落や、地元志向(=東京への憧れの減衰)もある程度は連動しているのでは無いでしょうか
逆に言えば、「憧れられる何か」があれば、「自分にもまだチャンスがあるんじゃね?」という意欲に繋がる、という話です
つまり、「あなたには憧れる何かがありますか?」という話にもなりますが
もっとも、「アコガレ搾取」なる言葉もありましたが(ブラック企業はそれを悪利用した訳ですが)、それが現在進行形だったりもしますが
五輪ボランティア11万人、手当なし「来てくれるか」:朝日新聞デジタル
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASL3X3TNDL3XUTQP018.html
こういう虫の良さがニコ動にも無かったですか?という話にもなるし、個人的には、五輪ボランティアの場合は、ムチばかりでアメがない、
という話も一因だと思っています(アメの方を言えば、例えば、東京都内で使える商品券を渡すとか方法はありそうですけど
「オリンピックの結果、東京は物凄い税収を上げる、君らはボランティア」というのはさすがに理屈に無理がある気がします)
「氷河期世代はアメを与えられなかった」と言うつもりはなくて、「インターネットブームでチャンスも掴んだ人もいる」訳で、
この場合の問題は、それがかなり限定的だった、という話であるだけだと思います(既得権益が今よりもさらに強かったですし)
個人的な感覚を言えば、年配の人達は権力を持っている、いないにかかわらず、エゴが巨大な気がします
彼らの世代においては、「エゴを巨大にすることが時代に合わせることだった」のでしょうが、承認欲求も物凄い、というか
では、「夢を見るだけ無駄なのか?」と言うとそうでもない
日本国内において、なろうのサイトアクセスはインスタよりも上、という話ですし、強固な物語はまだ存在する、ということでしょう
ライトノベルとかライト文芸とか広く大衆小説の凄さっていうのは、個人で作れて制作予算が低いことに集約されるんだよ。
作るのにあたって初期投資が非常に少なくて済む。商業印刷するにしたって数百万程度で済むし、なろうに連載するなら(作者の人件費以外)ほぼノーコストだ。
商業出版にしたってその作者の人件費は印税という形で出版後の割合報酬ということになってる。
なんだそんなの常識だろ? という人がいるかもしれないけれど、アニメだってゲームだって映画だってそんなことはないわけだよね。「放映中止になったんでギャラ払いません」なんてないわけだ。
この初期コストの低さというのが、メディアミックスの原作生成にむいているんだよ。
テンプレという言葉は今現在否定的な意味で用いられることが多いけれど、それって「創作者たるものは独自性を追求すべきだ」であるとか「読者である我々により大きなメリット(新鮮な読書体験)を与えるべきだ」みたいな、突き詰めると根拠があいまいで言いがかりに近い否定要素なんだよね。
でもそれじゃなんでテンプレがこんなにあるかっていうと、創作者レベルでいえばある程度創作の指針を借用できるからってのももちろんあるんだけど、業界レベルでいうと「初期条件をわずかに変えた実験を大量並列でやることに価値があるから」なんだよ。この実験可能ていう価値観ってのは研究者になら判りやすいと思う。
その実験が商業的に、つまり、メディアミックス原作を探査するうえで有用があるからこの状況があるんだ。
もし小説を作るのにかかるお金が現在の十倍もあれば、こんな実験は原価割れするので絶対に行われなかった。
実験コストが高いのならば、実験の施行回数を絞らざるを得ない。そこでは「作品Aと0.1%違う作品Bを作って反応差異を計測する」なんてのよりも、もっと距離のあるBの実験の方が優先される。マンガは、この状況にある。
つまり、なろうという環境でなんであんなにテンプレが謳歌されているかといえば、もちろんそれが作者に負担を書けないっていうのもあるんだけど、なろう連載はラノベ出版よりもさらにお金がかからないので、実験環境として優秀だっていうのがあるんだよ。実験コストが(それこそ素人の思い付き労力以外消費しないほど)低いから、ほとんど差異がないような作品が並行して連載される。
なにをもってメディアが豊饒なのか否かというかにはいろんな見地があるとおもうけれど、個人がわずかなコストで実験可能だ、という意味で、小説ジャンルは「豊穣」なんだよ。
極端に言えば、裕福な家庭で一通りの努力と苦労をすれば大会社の跡取りとなれるのが見えてる子どもと、ものすごい幸運で奨学金に選ばれるか、奨学金とは名ばかりのリスキーな学資ローン無しでは大学には行けずその見返りも不透明って子どもでは、努力をするインセンティブに天地の差があるだろ。
で、そのインセンティブの差によって子どもの時に努力したかしないかの差が、次の段階において努力が実りやすい環境になるかどうかを大きく左右する。そういったものが次々と積み重なって現在がある。
努力した、苦労した、リスクとった、成果を出したと言ってる人の行動の根っこが生まれという大きな運に左右されるものだったなんてことはザラなんだよ。
努力した人、成果を出した人がそれを理由に報われるべきというのは、初期条件が揃っていてのことだ。だが、その機会の平等ってやつは一般に思われているよりずっとずっと昔の段階から揃えなきゃならないものなんだわ。
東大卒には優良顧客の多い一級地の営業担当をさせて、そいつが同期で一番の成果を残したからそいつを昇進させる、みたいなものを「うちは完全実力主義だ」とか経営者が言ってる恥ずかしい会社がたまにあるが、そんな浅い考え方をすることないよう学べよ、いろいろと。
事実については嘘をいう訳じゃないが、事実から当然導き出されるべき結論(1+1は2みたいな)に、
毎度当然のようにトラブルを発生させた後、「俺はすべて正しいことをやった、悪いのはお前らだ」
みたいなことを言い出す。そして事態がこじれた原因がいつもの破綻ロジックによるものであることが明らかにされると逆ギレする。
おそらく、結論ありきでスタートした案件が、どうにもならない初期条件を持っていた場合なんかに「できません」が言えなくって
無意識にそういう論理のねつ造をするんだろうが下流工程の人間はいい迷惑だ。
自覚が全くない上、日に日に他罰的発言がエスカレートしていってるので、もはや強制入院しか出口が見つからないが、
なにか穏便にすませる方法が残っていたりするだろうか。
初期条件で相手に満足できていれば、その後の生活で生じるもろもろの問題にも我慢しやすいんじゃないでしょうか?
費用と手間をかけるなら確度の高い方法がねぇかなぁ とは考えています。
面倒でさーせん。素直に、良い結婚相手と出会いたい と言ってるつもりでしたが。
無条件で「俺と結婚してくれるなら誰でもいい」とは考えられなかったので。
でもこれって普通だと思うんですが、ずれてる?
出会い系の方が真剣に探されているのを否定する意図はありません。
ただ売れ残り、性格に問題のある方、高齢者が多いイメージはあります。
理論的には好意の返報性というやつですね。よかった探しはしてみようと思います。
近くにいる子がいないので、そこをどうするかですが。
趣味サークルに参加しての接点増加は検討してみようと思います。
真面目に活動している方に「出会い厨ウゼー」と申し訳ないことになる可能性はありますが。
人は色々考えて動いていると感じるのですが
配偶者選ぶだけ何も考えずフィーリングという方は少ないのではないでしょうか。
相手を搾取して幸せになってやろうというのではなく、相互に幸せな家庭を築きたいので打算的とは何か違うと思いますが。
良い相手と出会いたいという考えを捨てるだけでは、出会い自体は増えない気がしますが。
リアルじゃこんなエゴイスティックなことはなかなか言えんのです。
あと同種のこと考えてる人もいるはずなので、どうしているか知りたかった。