よくよく考えると変なことわざだ
いや、待て……
あの世にお金は持って行けない、って話はどこから来たんだ
もっと言うと、あの世に現世のモノは持って行けない……という世界観はいつからあるんだ
古墳からなんかすごい剣が出土したというニュースを見た
あれはまさにあの世に持っていくためのものではないのか
(順序が逆で、このニュースを見たからこそあの世に持って行けるものって何?という疑問がスタートしたわけだが)
それが現代日本に生きる人の世界観ではあの世にモノを持っていけないという認識に……いや、違うか
「オレが死んだら棺にタバコを入れてくれ」とか「あの人はタバコが好きだったから棺にタバコを入れましょう」みたいなことを言う人もいるな……
これはあの世にタバコを持っていく気満々の発言ではないのか
ということは「あの世にお金は持って行けない、しかしそれ以外のモノは持って行ける」という世界観を持つ人がいることになる
なんか……中途半端な感じがする、なんでお金だけダメなんですかアナタ
その一方で冥銭ってやつもあるんだよな
これはまさに「あの世に持っていくお金」そのものである
本物のお金じゃないあの世専用のお金を燃やすことであの世にいる死者に送金するらしい……類感呪術ってやつなのかな
これは中国とか沖縄でそういうことをやっているらしいと聞いた
三途の川の渡し賃の六文銭ってのもあるよなあ
昔は冥銭用のイミテーションのお金じゃなくてマジのお金を六文銭として使ったと聞く
ギリシャ神話でもカロンってやつがいるし
ただ、こっちは「あの世への通行料」って感じやな
通行料がいる、それ以外の財産は持って行けません……みたいな?
でも奪衣婆って鬼がいるんだよな
六文銭を払えなかったら衣類を奪う、逆に言えば六文銭を払えたなら衣服というモノは持ち込める……
身につけているものはセーフ?
脳内の別人格がツッコミをしてくる
対話を試みましょうね
「 『地獄の沙汰も金次第』というけれど、どんな苦境でも札束を積めば解決できることがあるって意味であって地獄というのはものの例えだよ。本当に閻魔大王様に賄賂を渡せると昔の人が考えていたわけじゃないと思う。」
「坊さんに高い金さえ払えばしっかり供養してもらえる状況を皮肉った側面もこのことわざにはあるんじゃないかな。」
「もともとの意味は『財産を寄付など善行のために使えば地獄に落ちない』みたいな意味らしいよ。」
なるほどなるほど、私もそう思います(あたりまえだ、そのツッコミをしたのは私なのだから)
でもなー、そのツッコミ群は「あの世にお金は持って行けない、しかしそれ以外のモノは持って行ける」という話について説明してくれない
「そもそも『あの世にお金は持って行けない、しかしそれ以外のモノは持って行ける』という世界観を持つ人がいる話はあくまで仮定でしょ?その前提は正しいの?」
確かにそれはそう、まずは現代日本における死生観……あの世観の裏取りしたほうがよさそうだ
その仮定が真か偽かを確かめるために調べている、これがゴール
「 『あの人はタバコが好きだったから棺にタバコを入れましょう』イコール『あの世にタバコを持って行ってもらう』は本当に真なの?」
そこも怪しいよね
死後の世界を信じていない人でもそういう事をするかもしれない
いや、どうだろう?自信ないな……
少なくとも言えることは、副葬品の目的はあの世に持って行ってもらうためだけではないであろうということ
「 『あの世にお金は持って行けない』は拝金主義者を嗜めることが目的の言説でしょ。」
でしょうね
「 『あの世に現世のモノは何も持って行けない』が実際のところじゃないの?」
それも確かにもっともらしいんだけど、実際に副葬品として亡くなった人の身の回りのモノとか生前好きだったものを棺に入れることもあるじゃん
その棺に入れるものの選択肢としてお金が無いのは何故?という話にもできる
「お金を棺に入れたらもったいないじゃん。」
確かにね、しかしだからこそ中国などのアジア圏の一部では冥銭というあの世専用のお金があるんじゃないか
あーそうか、これって「なぜ(一部地域を除く)日本では中国のような冥銭の文化が根付いていないのか?」という問いと言い換えることもできるのか
「死んだら無になるよ。あの世は存在しない。」
私もそう思っている、でもそう思っていない人もいる
余談だが「自分が死んだら無になる」はすんなり受け入れることが出来るけど「大切なあの人は死んだから無になった」はちょっと受け入れるのに抵抗がある
いろんな地域、いろんな時代の世界観をごっちゃにして物事を見てしまっているのであろう
混乱の原因です
ちゃんと調べて考えを整理したい欲求が高まってきた
ここらへんについて調べよう
①「地獄の沙汰も金次第」の語源について
②「あの世にお金は持って行けない」って考え方はいつから存在する?
③古墳の副葬品は本当にあの世に持っていくためのものなのか?
④日本の各時代の副葬品の変遷について
⑤いろんな地域・宗教の副葬品について
⑥冥銭について
⑦現代日本人のあの世観について
いろいろ読みかけの本の続きを読むべきかもしれない
『日本人はなぜ無宗教なのか』 『日本人無宗教説 ――その歴史から見えるもの』あたりに何か関係あることが書いてあるかも
追加で本を探して買ってもいい
そういえばキリスト教圏は副葬品という文化が全然ないらしい(全くないわけではないらしいが)
その一方で中国は冥銭を燃やすことでお金やら車やらスマホやらをあの世に送っているらしい
日本はなんか、中間というか……ほどほどに副葬品がある
なんにせよ知識不足、生半可な知識で「これこれこういうことです」と理解してしまうと大火傷してしまいそうだ
なんか、タイとかブータンあたりの仏教文化圏の葬儀がどんなものかも調べた方がいい予感があるな
儒教文化圏の葬式も
古墳時代の日本だと持って行けるって考えだったろうから古墳の副葬品に通貨とかが……あっ、古墳時代の日本に貨幣ないかもか
仏教伝来あたりの時代の墓の副葬品が気になるな……
今日は問いを設定するまでで終わってしまった
いろんな国地域時代の葬式スタイルを調べることで、そもそも問いの立て方がずれていたと発覚することもありえるが……
調べるのはまた後日にしよう
しかしこれって何を調べ上げたら私は納得することができるんだ?
まだわからない
納得できるのはこのままいろいろ本を読み続けたあとの数年後とか普通にありえる
という私の思考を整理するための日記です 3/28
]]>おれの時代はお経唱えれば極楽いける感じだったけどゆとり仕様になったんだな
]]>それはお前が一遍たりともイスラム教徒じゃないからだ。
でも初詣をする。ほんのちょっとだけ仏教徒だから
クリスマスはする。ほんのちょっとだけキリスト教徒だから
こういう話すると一番出てくるのは、日本人は「生まれ変わったら何になる?」というトークを普通にするってこと。
生まれ変わらないのよ仏教以外の人間は。天国で永遠に暮らすんだから。
でもまあ実際問題、本来の仏教徒とかとかだいぶ感じが違うので「日本教」という表現が使われてるわけ。
]]>神に祈ると天国に行けます。みんなで神に祈りましょう→キリスト教
とりあえず人間みんな極楽浄土行きやで→仏教
]]>
新興宗教が定期的に起こってきたし、寺社仏閣があまりにも文化と一体化しているし、異教徒への排斥も全然ないから、
「宗教信仰」というのを"普通の寺とか神社以外の信仰をめちゃ熱心にしていること"だと思ってるんだよね。
キリスト教圏にいくと、無宗教っていうのはアナーキズム無神論者のことだから、そこでおかしなことになるって話が有名だ。
ちゃんと宗教とか日本文化を学んだ層だけが、
日本というのは仏教が入り混じったアニミズム、いうなれば日本教を信じていますよね。
……という正しい理解をしている。
なんで、それに関してはネットの意見とかアンケートとか何一つアテにならないよ。
ネットで信仰ないですって意見してるやつに、いや自分初詣いくから仏教徒じゃん?って正論いったら、確かに~~って掌かえしてくれるよだいたい。
]]>聖剣Lomは
①DQのAltであるFFの②スピンオフである聖剣伝説シリーズ③の非ナンバリングタイトル
という出自から生まれて仏教を混ぜ込んだ奇跡的世界観なんだよな……ダナエすこ
あのセンスは今になっても腐らない独自性があるわ。戦闘が地味なのが惜しい点
しかし、いまどきはああいうの ないよなあ
ダン飯は世界観がかなり細かく組み立てられてるけど、そういうのはお好みでない?
]]>なぜ他の感謝の言葉ではいけなかったのか
・因縁
そもそも前世の縁を信じてもらえないだろ
・一期一会
これを理解できるのそれなりの人生経験者で草
・浮世
世の中のことを浮世って言うのやめろ
・諸行無常で
会話中にこれ言ってくるやつ嫌いだわー
・おかげ
そもそもおかげってどういう意味なんだよ
・我慢
お前はその我慢を抱えて死ね
・四苦八苦
むしろ仏教のほうではもう使ってない
・差別
身分差別とは関係ない
・自由
まぁ言ってくる奴たいがいオッサン
・弔い
どこどこ行くの~
]]>日本の方が米好きで仏教信者多いから「米国」「仏国」に相応しいだろ?
だから、アメリカは「肉国」、フランスは「スイーツ国(ス国)」にするべき
ついでに他の国も考えた
明日からこれで頼む!
]]>アイカツ!は子供向けアイドルアニメであるが、
語られる教訓はアイドルに限らず、普遍的な、いまの自分と未来の自分をどう捉えるかという内容である。
プリンセスプリキュアの「プリンセス」があえて曖昧な概念で、子どもが持つそれぞれの夢や目標と重ねやすいようにしているのと同じだと考えるとわかりやすいかもしれない(わかりにくい)
ともかく、アイカツ!にどういう教えがあるかというと、
未来の自分が振り返ったときに、自慢できるような過去の自分でいよう。だから、今を精一杯生きよう。
これをひたすら歌とストーリーをシンクロさせて語るのである。
この一貫性が見事で、初期EDのカレンダーガールの歌詞から、10年後を描いた劇場版まで全くブレない。
それがぶっ刺さってしまって、人生が大きく変わった。きっとそういう人は他にもいると思う。
卒業も決まり、暇になって夕方テレビをつけるとアイカツ!というアニメがやっていた。
第121話「未来に約束!」だった。ちなみに、アイカツおじさんはサブタイトルではなく話数で言うことが多い。
留学生が帰るタイミングの話のようだった。自分から見る自分と他人から見る自分の折り合いをつけるような話だった。
1話見た瞬間ピンと来た。これはすごいアニメなんじゃないかと。人生で最も正しい判断であった。
そして、新卒で上流SIerに就職した。
はてなー一同ご存知の通り、ほとんどなにもしないのと同義のような仕事をしていた。
もちろん定時で帰れていたので、1話からアイカツを追いかけた。
仕事にも慣れてきたころ、125話に到達した。(アイカツおじさんはサブタイトルではなく話数で言うことが多い)
125話は初代主人公のいちごから、2代目主人公のあかりに、話のバトンを完全に渡すという話だった。
そして、ライブパートでの、Good morning my dream。。。
(簡単に説明すると、私がもっている大切な「夢」、私のことを選んでくれてありがとう。きっと叶えるからね。という歌)
そしてそして、OPがLovely Party Collectionに変わった。
(簡単に説明すると、今日の自分にリボンをかけて(未来の自分にとっての)宝物にしよう。という歌)
これが決定打となった。
10年後の自分が今の自分を見たとしたらどう思うだろうか。
あの時の自分、あの時の毎日、振り返ったら宝物にできるだろうか。
できないと思った。
こうして会社をやめて、違う道に進むことにした。
具体的には、博士課程に進学した。
3代目主人公も登場し、トークショーなどイベントも盛り上がり、まだまだアイカツ!は終わらない。
そう思っていたら、翌年突然アイカツ!は終わった。
ライブ会場で新シリーズが発表されたのだ。
しかし、アイカツ!を全話視聴した者にとっては、この別れが新たな始まりであると立ち直ることができる。
アイカツ!がなくても、アイカツ!を好きになった自分が、アイカツ!のことを考える自分がある限り、その自分を拠り所にして立つことができるのである。
仏教でいう自灯明法灯明の教えだと思えばわかりやすいかもしれない(わかりにくい)
こうして、アイカツ!のない期間も、未来の自分に恥じないように毎日をがんばって過ごしてきた。
アイカツ!の展開としては、新シリーズの次のシリーズの次のシリーズまでやったあと、
アイカツオンパレードという、まあPIXARの映画のEDで流れるNG集みたいな感じのファンサービスがあった。
ただ、アイカツ!の本質というべき思想はどれにもなかったかな。
アイカツ10周年ということで、突然完全新作の劇場版が製作された。
それも、同窓会的映画ではなく、完全にTV版が終わった直後からそのまま続くストーリーである。
しかも、新シリーズを経るごとに変わっていったキャラクターデザインや3DCGのクセもガラッと戻し、
「あのときからのアイカツの10年」を完全に捉えた映画であった。
アバンでのいちごの「ただいま!」から始まり、終盤での観客への語りかけ。
「アイカツがなくても、アイカツを好きな自分を信じて」と考えていたのが、自分の暴走的妄想ではなかったと、今までの期間のがんばりが正しかったんだと認められたようで、本当に嬉しかった。
これからまたアイカツ!のない世界が続いても、振り返れば、がんばってきた過去の自分がいるじゃないかと、送り出されるような映画だった。
こうして、突然打ち切りにあったようなTVシリーズも7年越しに卒業式を迎えることができ、我々もアイカツ!から卒業したのである。
そして、ちょうどこのとき、仕事でも大きな転機を迎えていた。
アイカツ!で進んだ博士課程、そこから続くアカデミアの道。(簡単に言うと、ポスドクから大学教授まで進むルート)
あるいは、企業に進むAcadexitの道。(Brexitのようにアカデミー+EXITを組み合わせた造語)
結果的には、良い話があって企業に転職することになった。
アイカツ!がなかったら今の自分はなかっただろうなと本気で思う。
アイカツ!があったから、今の自分にポジティブに向き合えたし、未来向きの今を生きることができた。
転職先で働き始めるのはまだ先のことだが、不安はない。
ここまでは来られたんだから、きっとこの先も大丈夫。
]]>仏教は英語でBuddhism
どっちも「ism」じゃんねえ
もちろん保守主義もconservatism
宗教にも福音主義とかあるし
要は日本(漢字圏もか?)での翻訳の問題じゃんねえ
英語圏では両者に言葉の上では差が無いんで
意識の上でも日本人の感覚とはズレがあるんじゃないかな
]]>しかも仏像ってめっちゃ種類多いよね?
釈迦如来とか阿弥陀如来とかよく知らんけど、誰やねんそれ!っていつも思ってみてるわ
仏教関係あらへんやん
だからいつまで経っても西洋の方で流行らへんねん
坐禅とかマインドフルネス〜みたいな変な感じで伝わるねん
もう仏像壊したらいいと思う
だってそんなのブッダは言ってなかったから
「仏教彫って拝みましょう🙏」なんて言ってないでしょ?
誰が考案したのか分からんものありがたがって、「たまにしか見れないけどご開帳しまーす」って言ったら人が群がるんだよ
そしてお金を取る!
税金もかからない!
坊主丸儲けやなぁ
そらゃ仏像ありがたがるわ
まあありゃ美術品というか、金儲けの道具なんやろうなぁ
]]>・他界
・入滅(仏教っぽい)
・昇天(キリスト教っぽい)
・崩御(人物限定)
なんなの?
そんなにタヒを意識したくないの?
]]>言っておくが、ドーパミンやオキシトシンの放出を幸福と捉えるようでは、仏教で言うところの四苦八苦に振り回され、安息にたどり着くことは絶対に無い。
ヤク中と一緒だ。満足は次の枯渇を引き起こす。得れば、もっと欲しくなる。
アランの幸福論には「警察署で書類仕事に追われているあの男は幸福である。次の仕事が絶え間なくあり、休むヒマがない。能力を発揮し、過去や未来への恐怖一切から解き放たれている」という主旨のプロポがある。
彼は恐怖は病気であると述べ、幸福を得る方法について考察した。
幸福はショウケースの中の宝石ではないというのも、その本の受け売りだ。幸福は外部から与えられるものではない。
ま、過労で鬱になってるかどうかの区別は、文面からは不可能だけど。
]]>神社に参拝で手を合わせる→仏教
神社は仏教だった!?
お寺はなに!?
]]>ご飯を食べるときにいただきますごちそうさまで手を合わせる→仏教
神社に参拝で手を合わせる→仏教
御冥福をお祈り→仏教じゃない
]]>令和3年8月4日に、石村智の妻が河川敷で確認している
令和4年2月28日に大手町のサブウェイの閉鎖に伴い、ままがシェアハウスを閉鎖した。
住宅相談員の鈴木が、 ファインズコート6丁目、TOP志村の順に検討したが、 最終的には、小さいものがいいのかしらということで現在のところになった。
なお、住宅相談員の鈴木や、不動産会社の男が、令和4年2月25日頃に、様々な案内をしていたことに関しては、CWの中谷が記録していなく、CWは、年度末で小俣に変わり、
すぐに藤原に変わった。民生委員は従来から決まっていたが家に来ることはなく、民生委員が、見目とみ子になってから、障子に目あり、といわれるようになった。
]]>
そもそも仏教は、生きることは、生老病死、即ち苦しみであると説いている。
これね、「生きていると、老いや病や死という苦しみがつきものですよね」ではないんですよ。
生も苦しみなのだ。生きてるだけで当然苦しい。苦しいのがデフォ。
そこは近代以前において説明不要なのよね。貧しいし、人権とか無いしさ。
なので仏教ってのは、苦しみしかない現世をいかに乗り切るか、という話をしている。
これは、いわゆる伝統宗教は、だいたい全部そうなのだ。キリスト教もイスラム教も、いまめちゃくちゃ苦しくても死後は天国に行くって話が基礎だし。
ところだが、俺ら実際、生きていて苦しいか?
ハッキリ言って、そうでもないんだよ。
何か我慢して苦しみをのりきったり、将来の天国に期待をかけたりする必要は、必ずしも無い。
だって今が苦しいとしても、それってのは、例えば金さえ手に入ったら解決してしまったりするんだ。悟りとかいらねぇし、悟りよりも積み立てNISAのほうがはるかに救済に近いのよ。
しかもだ、なんなら老・病・死さえも、適切なタイミングで来るなら、この現代において苦しみではない。解決策ですらある。性欲に悶々とするの面倒くさいからさっさと枯れたい人たちがいる。今の人生が苦しいから、安楽死を望む人たちがいる。なんつーか、生の苦しみの質が変わってるんだよね。人生が50年から100年になって、終わりは突然くるものではなく、いつかくるものになった。90近くなってボケてしまう予定が既に立っているならば、その前に死んだ方が楽という考え方が確かに芽生えている。
その状態で、誰が、伝統宗教を信じるか?という。
現世が苦しいですよね? 悟りを開けば苦しみが取り除かれますよ?
いや、別にそれほど苦しくはないな。っていうか苦しみが無いだけの人生を100歳までやるほうがかえって辛くない?
みたいな。
信者数が減って当然の状況ではあるんだよね。
だからもう従来の意味での宗教を信じる人は、世界からどんどん減っている。イスラムだけ名簿上は増えているが、それは発展途上国の人口増が効いているだけで、欧州に出てきたイスラムの子供とか、産油国の新世代とか、どんどん信仰をおざなりにしていってるから。
]]>仏教の研究してるわけでもないしね
]]>本当は100味わえる幸せを10程度しか味わえてなかったんじゃね?だとしたら残りの90分を味わなかった。その分だけ人生損してないかな。
仏教はよく知らんが、ブッダとの目的意識の違いがその疑問になっているのでは?
ブッダは若い日に酒池肉林贅沢の限りを尽くし、「満足は渇望を生む」的なことを悟ってそのループを断つために修行を始めた……みたいな話じゃなかったか。子供の名前もひどいもんだし
増田は「幸せの感得」、ブッダは「感情の平安の獲得」が目的だから、ズレを感じるのは当然じゃないかなあという仮説。
まあ、苦しむ日があっても、トータル幸せならいい!ていう考えなら、それもそれでいいと思うよ。
]]>