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2023-05-10

anond:20230510120813

から1400年ほど前の日本

とある仏師精魂込めて彫り上げた仏像を寺に納めると、その仏像毎日寺に観察しにきて、

同じポーズ仏像を彫って売り出す、コピー仏師が横行し、原作仏師ほとほと困り果ててしまいました。

こんなにコピー仏像が出回るなら、もう二度と寺には奉納しないと言い出し、対策を求められた寺は、

御開帳システムを考案。特別な日にだけ仏像を見せることで、複製しにくくしたのだそうな。

現代でも、善行寺では7年に一度の御開帳システム運用しています

御開帳システムについては、こちからどうぞ。

https://www.gokaicho.com/

2023-01-25

仏像顔の人っているよね

今日ニュースで、中学校先生が作った現代版の仏像ってのをやってた

記事では石原さとみに似てるって言われてたけど、私の印象ではめっちゃ壇蜜に似てて笑ってしまった。

どんな顔にありがたみを感じるかはたぶん人それぞれなので、壇蜜顔の仏像があってもいいと思うけど、もし私が仏師なら浅田真央か、愛子さまイメージしながら彫るかなぁ。

切れ長のしょうゆ顔が相応しいと思いきや、インド人は目鼻立ちがクッキリしてるわけで、どんな顔が仏像顔とは一言では言えない。顔というより柔和な表情かな?神秘的というか、私生活が謎のヴェールに包まれている感というか…。あ、これがアルカイックスマイルってやつか!!

女性ばかり挙げてしまったが、男性だとどうだろう。中性的神木隆之介サッカー内田篤人なんかはいい線いけそうな気がする。先程のインド人の例でいえば、インド俳優仏像にするとゴージャスで映えそうではある。バーバリの人とか(バーバリの人しか知らんけど…)でも仏像っていうより仁王像か?

とにかく左右対称で整った顔立ちであることは間違いない。かといってキムタクちょっと違う気もする。ちょっと野生味が強すぎる。シワがないことは重要ファクターひとつだろう。…あ、香取慎吾!!香取慎吾めっちゃ仏像っぽい!!奈良の!あまり骨ばってない、ふっくらとした顔が望ましいのかもしれない。

ちょっと前までなら福原愛山口達也なんかも良さそうだったけど今となってはね…

しんみりしてしまったけど、仏像にしたいくらい美しいと言われるのは本人としてはあまりありがたくないのかもしれないなぁ。

2022-08-26

もしも私が金持ちになって生活のための仕事をする必要がなくなったら仏師になりたいな。

無料仏像を彫るのではなく形ばかりの謝礼として九円を請求する仏師になりたいな。

いつしか九円仏師と呼ばれるようになりたいな。

災害現場に一番に駆けつける九円仏師になりたいな。

「きゅうえんぶっしが届くぞ!」と思って期待されていたところに九円仏師として現れてがっかりさせたいな。

2020-10-15

仏師良秀って現代だったらツイッター炎上してめちゃくちゃ叩かれそう

2020-09-07

3Dプリンターと銃

なんか自称技術者バカが暴れてたので書いておく。

3Dプリンターというと、すぐ銃が作れるという話をするバカがいる。なぜなら米国で銃を作ってる連中がいるからだ。が、現実的ではない。というのもこれはかなり政治的な側面があり、理解するには何でもかんでもとりあえず銃か爆発物を作って遊ぶ習性を持つ米国人についての知識必要だ。

米国は旧英国植民地で、独立戦争によってフランス支援英国軍を撃退して建国し、更に南北戦争というガチ内戦を経て革命的に成立した国家だ。誰でも知っているナポレオンの生涯と重なる時期である。『ナポレオン -獅子の時代-』などの高名な歴史書で知っている人も多いと思うがこの時代には既にバリバリ銃器存在する。つまりアメリカは、建国神話銃器を含むのだ。

よって、銃(特に軍用銃)というのは米国人にとって国民国家アメリカ合衆国の建国の神器に近い存在であり、主権者たる国民銃器を所持する権利を持つのは当然のことである天皇三種の神器を持つ権利があって当然ないわけがないのと同じである(主上に御謀反のない限り)。当然憲法でも権利として認められているし法律でも個人許可不要での銃器製造・所有・使用が色々と条件付きで許可されている。そして、「憲法で定められた権利行使しよう!」という「市民なら図書館に行こうキャンペーン」くらいの気軽さで権利向上運動として銃を作る・持つ運動がある。年中やってる「1・23絶対ゆるさない緊急行動」の同類である。その中で使われる銃は日本に訳せば「建国神話追体験」の要素があり必ずしも実用的な銃とは関係がない。神社に置いてある御神体の鏡の平滑度がそんなに高くないようなものである

そんなわけで神器としての銃を作るための3Dプリンターデータというのが存在する。これらは当然、儀式的な意味の強度しかない。俺は作ったことも見たこともないし作ろうとも思わないが、破損事例については知っている。確か1発~数発で寿命を迎えるという話だ。銃器信頼性第一からスケール的には構造模型の域だ。で、「数発で寿命を迎える」という話をすると、密造したがりは「では強度を上げるのだな。実際に樹脂活用銃器がある」と謎の反論をしてくる。これには銃器の樹脂化の歴史に関する知識必要になる。

銃器における樹脂活用歴史第二次世界大戦の終了直後くらいから始まる。その頃、夢の軽量新素材「プラスチック」が工業の各分野に登場し、「航空機アルミニウム」と並んで普及し始めたのだ。それまでは機械装置構造部品金属ハンドルや外装は真鍮(きわめて密度が高く重い金属である)金属が嫌なら木か革しか選択肢がなかった。当時の銃は構造部品鋼鉄で作り重い木の覆いを付けていた。1960年代に入るとアーマライトAR-10AR-15、のちのコルトモデル601、米軍呼称M16ライフルが登場し、「鉄砲鋼鉄と木で作るものだ。アルミプラスチックなんて信用ならねえ」と散々な評価を受けた。しかしその後AR-15/M16ライフル権利訴訟回避バージョンAR-18は、改良を経て、現在では米四軍のM4カービン英軍のL85(SA80)小銃ドイツG36小銃日本89式20小銃を含むほぼ全ての西側歩兵銃の基礎となっている。

銃身や主要部品鋼鉄、外装にアルミニウム、銃床に樹脂を使った小銃一般化する一方で、次なる手として主要部品アルミ化や樹脂化が模索された。1960年代末期になると世界初ポリマーフレーム拳銃としてHK VP70が登場してまず爆死、1970年代にはシュタイヤー社(余談だが自動車メーカーマグナ・シュタイアの類縁である)のAUG突撃銃が登場してこちらは採用1980年代に入ると樹脂製スコップ設計者が一念発起して設計し「プラ拳銃」として一世を風靡したグロック17が登場して一大ブームとなる。1990年代にもなればHK G36が登場し、冷間鍛造銃身基部を鋳込んだ樹脂製フレーム採用、その後端にモールドされた樹脂製マウントに樹脂製ハンドルを横から軽くネジ止めするという気の狂った設計のせいでハンドルを掴んで振り回すとそこに統合された大して見やすくもないヘンゾルト製高性能照準器の狙点がハンドルごと滑ってどんどんズレる、という問題を起こし、誰も気づかないままドイツ連邦軍採用され大量購入され2000年代のアフガン戦争で精鋭連邦軍人に戦死者を出してアフガン気候のせいでプラスチックの銃が根元から腐って兵が死んだとドイツ国会で炎上もするようになる。

一見すると、この半世紀で銃器は完全に樹脂化されてしまったように見える。なぜなら実際に外装はどんどん樹脂化され時代が下れば金属部分がほとんど露出することもなくなっているからだ。ここまで読んだ読者が、樹脂というのは3Dプリンターで出力できるのではなかったか? 3Dプリンターで作れるのではないか……と思っても不思議はない。

しかし、実際にはこれらの銃器では主要部品はすべて鋼鉄で作られている。新合金アルミニウムも新素材プラスチックも、鋼鉄を置き換えることはなかったのである。外装は木材からプラスチックに変わった。筐体は鋼鉄からアルミニウムプラスチックに変わった。しかし銃身、ボルト各部のピン、それどころかそれらを操作する把手は良くてアルミニウム、いまだに鋼鉄も珍しくない。VP70グロック17では、銃身とスライド(上半分だ)は鋼鉄で作られ、下半分には鋼鉄パーツを金型にセットしその上から樹脂をかける方法インナーフレームが鋳込まれている。シュタイヤーAUGでは画期的新機軸として内部機構の一部にプラカバーをかけることで潤滑の必要を減らしている。共通しているのは、圧力を支える主要部品摺動部はまず鋼鉄で作られるということだ。アルミニウムプラスチックは確かに使われているが、その役割は形を保つ以上の機能がない比較的柔らかい部品人間向けの外装または潤滑剤なのだ。実際にはプラスチック製の実用銃というのは未だに作られていない。

同時に、市販の家庭用3Dプリンター金属を出力するように進化するというのもあまり現実的ではない。樹脂は150~300度で溶けるが鉄を溶かすには1500度~が求められ、今の3Dプリンターとは原理的に異なる装置必要となるからだ。更に、銃の銃身は鍛造、切削と熱処理を経て作られるので、その設備必要になる。出力物を鍛造切削熱処理すればよいではないか……要求される設備3Dプリンターのものよりも大規模であり前提が荒唐無稽になる。工業地帯に数億円を投資して製造工場を建てれば機械装置が作れる。そんな主張は議論として価値がない。そんな資源があるなら電気自動車メーカーでも立ち上げる方がまだ理にかなう

3Dプリンターの特色は、複雑な形状を一点だけ製作できることだ。強度や製作速度ではない。容積10cm^3程度のプラスチック製品の射出成型にかかる時間は、概ね1個あたり0.3~1秒程度であろう。3Dプリンター場合は、累積移動距離によって変わるが45分から15時間程度である仏師の方が速い程度だ。

では、なぜプラスチック銃、そして3Dプリンターが度々取り上げられるのだろうか? 一つには、プラスチックアルミニウムは軽量なことが理由だ。鉄の銃は重いのである! もう一つは、最初にも述べたように、「銃を製造し、所持し、使うこと」は米国民の間では建国神話確認再現という神聖意味を持つ行為とされ、そして、その神聖さを信奉している者だけがネット英語記事を書き、日本コピペブログ機械翻訳で垂れ流すからだ。別に3Dプリンターから作れるというわけではないし、適しているわけでもない。全てはここ日本において全く関係ない話なのである

もしこれを読んだ誰かが3Dプリンターで銃を作る話やドラマ脚本をどうしても書きたいなら「3Dプリンターなら見た目は好きにできる。だが銃身が作れないはずだ。銃身をどこで入手したんだ?」という方向にでも捻ってみてはいかがだろうか、と付け加えて筆を置きたい。

2020-06-27

国立新美術館の「古典×現代2020」に行ったんだけど、現代美術ってつまんねえなといまさら

菅木志雄

宣伝動画で「来る人は美術館に石ころがあると考えませんから」なんて言っているけど、感覚が半世紀くらい遅れてんじゃないのこの人。いまどき美術館に石ころがあった程度で、なんも思わんわな。それとも現代美術ファンは、美術館に石ころがあったらびっくりするの? そんなんだったら、徳川美術館で水石「夢の浮橋」見たら、腰抜かしてしまいそうだな。まして国立新美術館美術館ではなくて、美術館詐称する展示場なんだが。

川内倫子

いい写真だと思うよ。インスタで流れてきたら迷わずいいねを押すだろうね。その程度。

棚田康司

円空と並べて展示してつらくなかったのかな? 作品の持つ力の差が歴然と感じたが。まあ、本人やファンが満足ならいいけど。

鴻池朋子

皮緞帳は粗大ごみしか見えんかったというのは置いておくにしても、刀剣とのスケールの差が大きくて「組み合わせた壮大なインスタレーション」と感じ取るのは難しいな。現代美術ファンは器用だ。なお刀剣展示の照明ダメじゃね。刃文見える?

田根剛

中では唯一作品を展示していなかった。仏像展示の演出お仕事。動く照明と録音された声明だけのインスタントでチープな演出。本物の宗教儀式が、さまざまな工夫を凝らして神秘性を演出しようと努力しているのに比べれば、子供だましみたいなものだ。

しりあがり寿

おもしろパロディではある。こっちはツイッター映えか。アニメーションは途中までしか見てないから何とも言えない。

皆川明

印象うすい

横尾忠則

さすがに力のある作品で見応えがある。ただ、「針のない時計は〇〇(忘れた。時間の超越とかそんなんだった気がする)を意味します」みたいな作品解説を読んで、深いなあなんて思わなきゃならないとしたら、俺には現代美術は無理だ。

古典の方は見応えあるよ。念のため。

追記

古典×現代2020」について、古典側も含めて、もう少し詳しく書いてみる。

仙厓×菅木志雄

仙厓の作品は掛軸1つ。円相図といって単なる○が書かれている。○には悟りや真理、仏性宇宙全体などと宗教的歴史的にいろいろな含意があるようだ。添えられた賛がいい。「これくふて御茶まひれ(これ食ってお茶を召し上がれ)」。

洒脱だねえ。かっこいい。この作品初めて見たんだけど、賛を読んで、ふわっと心が軽くなるような感じがして、ああい作品を見たなあと。

それに比べて菅の作品。それっぽい思わせぶり以上の何かだとは思えないな。解説聞いたら納得や感動するの、これ?

花鳥画×川内倫子

川内写真は数が多くて辟易した。いちいちつきあってられんわというのが1番の感想。前回インスタ云々と書いたけど、でかく引き伸ばした写真とかもあり、それはそれででかい会場で展示する意味はあるのかもしれない。ただちゃん選抜してくれ。花鳥画の方は6幅なんだよ。

花鳥画の方で目を引いたのは、森蘭斎筆/梁田象水賛の牡丹図(神戸市博物館蔵)。背景に大きく描かれた太湖石は伝統的な描法。手前の牡丹西洋画の影響をうかがわせる陰影がついている。でありながらうまく調和していると思う。おもしろい。賛は読めんかった。誰か教えて。

円空×棚田康司

棚田作品には全然目が行かなかったんだよなあ。円空いいなと思ってただけだった。荒々しさというか生々しさというか、そういうのがいいよね。というわけで、棚田作については何も言えない。

いちおう言っておくと、もともと円空あんま好きじゃなかったし、今回で好きになったというわけでもない。それでも円空ばっか見てたのだ。

刀剣×鴻池朋子

mitimasu 冷たいドブをさらって原石を見つけるのが楽しくないなら向いてない/刀剣は手に取って角度を変え光の当て方を変え…という見方ができない以上、どこの展示もそんなもんだと思うけど?国立新が特にひどいのか知らんが

刀剣の展示は、1つ1つに小さなスポットライトが当たっていて、それを刃文のところに乗せるように見ると刃文が浮かび上がるようになっているのよ。そして横にスライドしながら刃文を見ていくと。刀剣博物館でも東博でもなんでも、刀剣展示ってのはそういうもの

今回の展示ではそのスポットライトがなかったはず。だから見えない。

ひょっとしたら俺が見落としていただけなのかもしれない。また、刃文の見えない展示もありだよねってことなのかもしれない。いずれにせよ、日本刀にそれほど興味ないからなんでもいいんだけど。

会場内で配られていた「アートのとびら×作品リスト」なるガイドブックに、別の機会での皮緞帳の展示の写真が載っていて、それで見るとこの作品なかなかよさげなんだよなあ。ライティングが異なる。あと中央にぶら下がって振り子のように揺れていた首がないのがいいのかな。

そのガイドブックには、「同じ部屋に展示されているのは、美術品としてケースに入れられている刀剣です。刀剣はかつては武器、または切る道具でもありました」とある。これ書いた人って、刀剣の展示を見て、自分の体が切られるようなぞくぞくする感覚を味わったことがないのか。もうちょっと古典作品としっかり向き合おうよって思う。

仏像×田根剛

前回子供だましだと書いたけど、ツイッターみると評価高いのよね。意外だ。

他の作家と違って、この人は作品制作せず、仏像の展示演出を手掛けている。演出手法は光と音で、具体的に言えば動き変化する照明と録音された声明だ。

立体物の屋内展示で照明が固定されているということに以前から不満がある。屋外ならば太陽位置で影の付き方が変わって見え方が違ってくるからね。たとえば上野国立西洋美術館に行く楽しみの1つが、今日ロダン地獄の門がどんな表情を見せてくれるのだろうかということだったりする。

から今回の田根の試みのうち、照明を変化させる、動かすという点自体評価したい。ただその変化のさせ方や動かし方については、もう少し考えがあってもよかったのかもしれないと感じた。

正面下方から照明を当てる瞬間があるけど、これはいい、というか正しい。お堂に安置された仏像は、下の方に置かれたロウソクの火に下から照らされる。だから仏師もそれで映えるように仏像を作っているはずだからしかし、仏像の周囲にいくつかのピンライトがあって、それが上下に等速度直線運動してるってのはどうなのって思った。

まあ、しかし照明の方はまだいい。音の演出の方はちょっとひどいのではないか。録音された声明スピーカーで流しているんだけど、音響についての工夫がまったくないのね。仏像向かって右手、部屋の奥の方にスピーカーがあってそこから流れているんだなってのがわかる。どこからともなく聞こえてきて展示室内を包み込むような感じに聞こえるとかそういうの全くないの。音響について完全になめてる。

さらに言うと、仏像の展示位置が低いと思う。立って見ると正対するほどの高さ。一般仏像は高い位置に据えて、仰ぎ見るもの。その下からの角度で見て映えるように造られているはず。この仏像の一番映える角度がどのあたりかは知らない。しかし今回正面から見て違和感を覚えたから、下からの方がいいと推測する。そういった点、たぶんこの人なにも考えてない。

北斎×しりあがり寿

出品しているのが大きく2種類で、うち1つがアニメーション。これは半分くらいしか見てない。なにも惹かれるところがなかった。

もう1つは、冨嶽三十六景のパロディちょっと可笑しなほぼ三十六景」で、いくつかの作品元ネタ北斎作と並べて展示していた。

北斎の冨嶽三十六景は三十六景といいつつ、追加があって全部で46図ある。一方パロディ版が全部でいくつあるのかしらないけれど、きっちり36ではないからなのか「ほぼ」とついている。三十六景といいつつ平気で10枚追加したあげく、三十六景のまますました顔をしているところの江戸っぽさ(前近代っぽさ)と、きっちりでないので気になって「ほぼ」とつけてしま現代っぽさの対比が興味深い。

それはさておき、このパロディけっこういいのだ。うまくて唸らせるし、おもしろくて笑わせる。

でもね、「和紙インクジェットプリンタ」なんだよ。実物見意味なんて全くないからね。前回「ツイッター映え」と書いたのはそういう意味も含んでいる。なんつーか、いろいろ退化してるね。

乾山×皆川明

ツイッターで見かけた感想なんだけど

伝統×現代アートという切り口から伝統的な作品の「もの」性を再発見していく展覧会だと思いました たとえば皆川明×尾形乾山の展示を見て、私は初めて乾山の器の「素材」を認識しました そうか、これは焼き物だったんだ!という新鮮な驚きがありました

ちょっとびっくりしたよね。乾山見て焼き物だとわからないような〇〇〇がありがたがってるのが現代美術ってことなのかな。

このコラボレーションは2種類に分けることができて、1つは独立ケースに乾山作が収められており、その上に大きく平たい円筒状の布(皆川作)がぶら下がっているというもの。6セットあった。これは両作を同時に視野に納めるのが難しく、あまりうまくいっていないように思えた。

もう1つは、小さな様々な端切れが継ぎ接ぎされた数メートルはあるかという布の上に、ところどころ乾山作の陶器陶片が置いてあるというもの。ごちゃごちゃしたものの上だと乾山は映えないなというのが感想だけど、皆川明、というかそのブランド「ミナ ペルホネン」は明らかに自分ターゲットではない(というかそもそも初めて聞いた)ので、これが素敵だという人がいるなら、その感想についてどうこう言うつもりはない。

乾山の作品では「色絵石垣文角皿」(京都国立博物館蔵)がお気に入りモダンな味わいがある。かわいくてすてきだ。

https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=shiryo&mode=detail&list_id=267439&data_id=20219

蕭白×横尾忠則

この展覧会に行った理由蕭白蕭白が4作出てたら行かざるを得ないよね。で、行ってみたら現代美術作品がつまらなくて、ひどい言い方だけど抱き合わせ商法にあったような気分になったわけ。

新出の游鯉図の眼がリアリティあって見事だった。群仙図屏風(東京藝術大学蔵)が、個人的蕭白と言えばこうのって作品で大好き。

宣伝動画のなかで横尾は、人間本質・魂の表現蕭白作品の中にこめられた重要メッセージで、現代人が見失ったものだみたいなことを言っているんだけど、これ賛同する人ってどれだけいるんだろ。まったくピンとこない。

そのほか

kei_ex 増田近代美術館のドイグ展とか行くとどう思うのか気になる(コンテンポラリーだけど、手法比較古典

行ったよ。特に第1部はすてきだなと思う絵が多かった。ただ基本的個展っていまいちよね。いろんな人の作品が見れた方が楽しいな。そのなかに数点ドイグがあったら、より魅力を感じたかもしれない。個人詩集よりアンソロジー読んだ方が楽しいし、好きな詩がより映えるよねみたいな感じ。個展だとその作家をどのように位置づければいいかもわかりづらいし。いまああいった絵を描きつつ評価されているというのは、いったいどういうことなんだろ。

yama_bousi 現代美術自分好きな人は、淺井裕介氏、高松和樹氏、蔡國強氏、ちょっと古いのではキースへリング藤城清治氏、あとドール世界とか凄いなあ、と思う。現代美術とは違うがぴろぴと氏は大好き。

おお、ありがとう積極的に見に行くことはしないだろうけど、いちおう名前は覚えとくわ。

2020-03-08

九円で仏像を彫る仕事を受注する人になったらどうかな。

災害現場にいち早く駆けつけてタダ同然の値段で仏像を彫る。

様々な物資が不足しているところに「救援物資が来たぞ~~」ってなって喜んだら実は九円仏師だったら笑えるじゃん。

2019-12-23

anond:20191223223656

悟りを開き、彫刻刀がブームに。仏師顔負けの「推し彫刻

仏壇に飾るもよし、ねこの遊び相手にするもよし、

床の間、玄関リビング……。民芸風の木の香りロハスエコ

2019-07-21

現代の諸々のエンタメについての記憶 一時的に取り外しできたら

美術館とかも楽しいのかもね

なにこれまるで生きてる人間がそこにいるみたいだ!この絵描いた人天才!!とか

なにこれ筋肉すごすぎ!!まるで生きてるみたいだ!!この像作った仏師人類の宝だわ…!!みたく

感動できると思うのにな〜

2019-01-31

anond:20190130150059

メディアが発達し、たいていの美術品はその写真ネット簡単に見つかる。

ぶっちゃけ写真で見たことあるもの現物美術館で見たところで、たいして感動するわけもないのだ。

そういう時代に観るべき美術品というのは、まだ写真が出回っていないもの、すなわち、新作である

現在活動中の芸術家デザイナーに的を絞って、彼らの新作がみられる展示会、個展に行こう。

仏師山本陽子とか、機会があったら見に行ってみるといいと思うゾ。

2016-05-27

大工親方に釘の打ち方で文句言われて、仏師自称するような

そんな感じよ

おまえが作ってんのは建物なの、おまえと同じような大工大勢で作るチーム作品なの

最初から最後まで一人で彫り上げる仏師芸術作品とは違うものなの

2015-11-10

簿記会計の知識は大事である」ということを学校で教えろや

簿記の基本を学校で教えとけっていう増田http://anond.hatelabo.jp/20151109212125)がいて、ブコメもたくさん集まっていて、

だいたい「その通りだ」という意見とか、「そんなもん、必要になったら学べばよい」みたいな意見とか、

「何を削るんだよ。学校では基礎教養を教えるべき」とかいろいろあるけど、

多分、問題なのは、そこそこ一流という学歴を得るための日本教育カリキュラムをまっとうにこなしても、

簿記とか会計の仕組みや考え方が、世の中においてかなり大事な仕組みであり、しかも、人類知的遺産の一つである、という認識

まれにくいことなんじゃないかと思う。

で、そのまま、管理職になったり政治家になったりジャーナリストになったり評論家になったりして、

なんか、いろいろ混乱させている気がする。

必要になったら自分で身につけられる」って、それは当たり前で、必要になりゃ人は学ぶもんだ。

あと、別に実務的な帳簿のつけ方を、必ずしも全員に教える必要もなくて、

それより学校で教えるべきことは、いろいろあるとは思う。

例えば、政治の分やでは学校民主主義とか基本的人権大事ですよとか、現代につながるそういう思想

市民革命を経て生まれたんですよとか、そういうことを、学んだりする。

それは、必ずしも、いわゆる「公民」の分野だけじゃなくて、世界史とか学んでも、そういう視点がある。

なのに、会計学とか、株式会社とか、そういう概念については、あんまりそういう視点で教えない。

少なくとも、オレ自身が受けてきた教育はそうだった。

簿記起源や諸説あるらしいが、そのうちベネチアジェノバ商人に導入され、ヨーロッパで洗練されていったものらしい。

オレ自身、詳しくはないが(なにせ、学校で習わないし)、その後、株式会社というものが生まれて、

ヨーロッパ文明大航海時代から植民地支配へと、傍若無人な力を発揮するうえで、

大切な役割果たしていったんじゃないかと思う。

で、今の社会だの世界情勢だのを語るうえで、企業というもの無視するわけにはいかんだろう。

日本社会多数派がそこに属しているわけだし、一生かかわらずに生きる人は多分いない。

別に、具体的に仕分けがどうこうとか、細かく必修で教える必要はないだろうし、

そんなことして別の内容を削る必要もないと思うが、

世に複式簿記というものがあり、それがどんな重要役割をはたしているかということだけは

教えておけばいいのではないか?

その程度だったら、既存社会科の内容をちょっと手直しすりゃ、できると思う。

少なくとも、日本史で、仏像写真みて仏師名前をこたえられるようになったりするより、大事な気がするし

社会科といえば「いいくにつくろう鎌倉幕府」(最近は、年号違うらしいけど)とかを思い浮かべるばっかりとかいうより、

ましな結果になると思う。

興味が湧いたやつは、そこから深堀したり、進学先を経営学部商学部にしたりするだろう。

今のカリキュラム普通科高校に進学したやつは、

そもそも、学校で学ぶ範囲の中で「興味を持つ」ことすら難しいんじゃないか?

いや、実際の今の学校カリキュラムを、詳しく知らないが。


オレは学校で周期律というのを習ったが、社会に出て実際に役に立ったことは、ほぼ無い。

それでも、過去にああいものが作られて、それで世の中の物質がすべて説明できて、

そういう知識が積み重なって化学が発展してったことを

学校で学んだことはムダだったとは思わない。

実際に帳簿を付けたり仕分けをしたりはしない人たちにとっても、

そういう感じで、「複式簿記というものがあり、それは大事ものなんだなあ」と知っておくべきだと思う。

社会に出て、実際に具体的な知識を身につける必要に迫られた人は、多分

「ああ、社会科時間になんかいってたのは、こういうことなんだなあ。もっと学生時代勉強しとけばよかった」

と思うはずだ。

「実務的な簿記の知識」は教養ではないだろうが、

ヨーロッパ文明が「複式簿記」という仕組みを洗練させ、それが、現代まで続く、企業会計の基礎になってきたという

そのことを知るのは「教養」だと思う。

で、「教養」を身に着けさせるのは、学校の大切な仕事だろう、と、思うのだ。

2013-12-03

http://anond.hatelabo.jp/20131203210011

傀儡何が悪い仏像仏師が彫ったものだが、だからといって仏像への崇拝が毀損されるものではない。

仏像の崇拝と仏教の崇拝は似てるけど別物だと思うんだが

一緒だ、一緒。 崇拝している本人にその区別はつかない。

この流れに対する反論があれだろ?その前のアイドルおいておくとして。

相手の方は、何であろうと崇拝するなら同じことだろ?って言ってるのに対し、お前は違う、とはっきり言ってる。

お前の理解力が弱いだけだったんならそう言って欲しいが、

その相手は、別に仏像を崇拝する宗教心と仏教を崇拝する宗教心が全く同じロジックで、全く同じものを信じている、

なんて言ってないぞ?

要は、何かを信じてそれを崇拝する、と言う意味では同じことだろ?ということ。

理解できない?説明したのに?

お前が根本的に論点を間違えてるんだよ。

ごく近々の話では、他力本願宗教と、自力本願の宗教を一緒にするなという話と

一緒にするな、と言うのはどういうことだ?

ここでは、そもそも「崇拝」し、信じること、が同じだ、と言ってるんだ。

お前がもし、この「一緒にするな」というのを、宗教それぞれ細かく種類を分けろ、キリスト教徒仏教はちがうんだーー、っていいたかったのか?

から、それは論点が違う、といっただろ?

そうでなければ、お前は「崇拝する」というものの中にも区別が付けられるものがあり、だからこそ、他力本願と自力本願は区別しなきゃ言えない、と言ってるのか?

鰯の頭だって立派な宗教だと言っているにもかかわらず、自力本願が崇高で他力本願が劣るとするのは曲解にも程がある。

バカだな、だから書いただろ、お前の言ってることは矛盾してるんだ、って。

お前はすべて、それぞれを尊重しろ、とこの点で書いてる。

だが一方で、

仏像の崇拝と仏教の崇拝は似てるけど別物だと思うんだが

ごく近々の話では、他力本願宗教と、自力本願の宗教を一緒にするなという話と

どうみても、他力本願仏教と混同してるよ。

と言っている。

バカだろ。それとも何か、まだ「同じだ」と言ってる意味が判らないのか?

宗教心」をきちんと理解してればしてるほど、それらの根本にある何かを「信じる」ってのは同じことだ、って話だろうが。

別に信仰の対象やそのプロセスが同じだ、なんて言ってねーだろ。

都合のいいところだけ取り上げて創作作文をするのは辞めろ。

全部取り上げてるだろうが。その上で矛盾しまくり、理解力が低いバカだな、って言ってるんだろうが。いい加減理解しろよ。

そういう頭の弱い奴が中途半端な知識つけて宗教とかやるのが一番危険で一番迷惑なんだよ。

 
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