はてなキーワード: 不干渉とは
「考えてもらいたい」が内心の自由の侵害、ってそれは無理あるんじゃない…?
相手に反省を促すフレーズは、プラスティックゴミを放置したらこの先地球の未来がどんなことになるか考えてみてください、みたいに、そこかしこにありふれている。そのレベルで個人の心を保護したら、誰しもが四六時中他人の内心を侵害している、って事になってしまう。想定する心がナイーブ過ぎる。
まあ、解釈の違いだけど、考えてもらいたいと言われたので、考えた結果が集まった、ととらえる方が解りやすいように思う。ツイッター利用者がそれほどまでに不干渉主義を自他に強いているとは思えないんだが… 違うかしら?
フェミニストがこういう会社に質問状出して締めてくれたらすごいことになるよ。
そうなったら私だけでなく世間みんながフェミニストを応援するよ。
会社の社長引きずり出して謝罪させたら大喝采、フェミニストは世間のスーパーヒーローになるよ。
世間が強く許せないと感じるものとフェミニズムの思想的に容認できないものが見事に一致してる。
なんでこういうのにぶつかりに行ってくれないんだろう。
もちろん他力本願だけど、ぶつかりに行ってるのを見たら全力で応援するし拡散するしお布施するし喝采するよ。
アウトなのかセーフなのか微妙なラインかつ松戸だの秋葉だのの片隅にあるチンケなオタクポスターやムービーに是非を掛けたって
キモオタが大騒ぎして敵に回る&キモオタ以外の世間は無関心で何の功績とも思わないってなって
言っちゃなんだけどフェミニストという集団に何の手柄も利益も積まれないじゃん。
またフェミニズムの思想から言ってもああいうものを狩るのが絶対に必要なのかかなり微妙だと思う。
・キモオタは変に話が噛み合うので叩くと手ごたえがあり党派意識を刺激してくれる(世間的にはコップの中の嵐)
キモオタと延々戦うのってフェミニストの利益にならないしフェミニズムという思想の実践としてもそこまで有意義ではないんじゃないかなって感じ。
キモオタの色んな表現を制限するのって社会の中で困ってる女性にとって優先度の高いタスクなのかな?
本当の社会の悪と戦ってくれないだろうか。
そうしたら絶対社会から尊敬されるしキモオタの中からすらフェミニストのファンは出てくるよ。
キモオタはみんな電通やサイバーエージェントみたいな文化大嫌いだし男性文化だって嫌ってるよ。
フェミニストが上から目線で説教したりコンテンツ制限かけたりすると牙をむくだけで。
でも作品だってちゃんと見てればジャンプ作品ですらどんどん変わっていってるよ。
呪術廻戦とかチェンソーマンとか鬼滅の刃とか見てもジャンプ漫画は旧態的な女性観にとどまってると思う?
読んだうえでの相手の立場を考慮した批判なら聞く耳持つキモオタだって一定数いるよ。本当に。
元増田の会社みたいな誰から見てもクソな文化の社会のエネミーがまだまだたくさんいて
そうやって実績積み重ねたら現状の反フェミやキモオタですら一目置いた下手の態度になるよ。
本当にビジョンと志と実行次第でフェミニストはヒーローになると思う。
撃ってない・・・
いまの統一教会がどうこうの泥沼もさっさと撤収すればいいのにと思いながら見てます
はっきり言ってこの話も世間的には全然興味持たれない話だと思いますよ
「note記事デマでした!今回は確認不足でした失礼!」って切りあげちゃえば終わりだと思う
もしかしたらヤメて次の話始めようとしてるのかもしれないけど
全然違う話を始めればいいのにって思う
kuzudokuzu 「私のヒーローになって」はわざとネジ曲げると、「私のためにあなたの人生を捧げて」をヒーローという耳触りのいい言葉で洗浄してるだけなので、無意識なら増田は気をつけた方がいいよ。無責任なモブの論理だから。
2021/10/04
もちろん普通の人にこんなこと頼めないけど
フェミニストの人たちは普通の人ではないヒーロー志望者に見える
キモオタと戦うことに凄いリソースと情熱を投下してて全然普通の人じゃない
それならあっちをやった方がwin-win-winではないでしょうかと
しかし我々は「豚肉食は悪だ」というイスラム教徒とも「ウロコのない魚を食べてはいけない」というユダヤ教徒とも平穏に共存できている。「本人が属する共同体(宗教共同体でも、信念の共同体でもいい)の外部にいる他者に、自分たちにとって善であることを強要したり、悪であることを禁止しない」という形で相互不干渉のメタ倫理を徹底できていれば、共存することはできる。ヴィーガンも同じ。信念を持つことと、その信念を公言することと、その信念を他者に強要することは別。NGなのは最後のやつ。「酒はコミュニケーションを円滑にする」と言ってもいいが、無理に飲ませたらNG。そういうヴィーガンだけを批判すればいい。
そもそもにさ
レールでも敷いてないとまず目的地に無事に着くなんて無理な話なんだよ
敷いてあるレールを自分でみつけて自分の意思でそれに乗って目的地を目指すか
敷かれてあるレールに強制的に乗せられて考える隙もなく目的地に着くか
どっちかなんだよ
自分で目的地を決めて自分で手段を模索しながら成功した人間の数なんて
というか大成功した人間でもそこが目的地だと最初から決めてた人間なんていないだろ
夢をかなえたみたいなさ
そんな人間いないだろ
どこまでいっても自己決定権なんてものは何歳になっても無駄で無意味
本当なら目指すべきが決まっている所を作ってそれに合わせた手段を練磨しておくべき
人が選ぶ数少ない選択肢としてそれに充てるべき
自由だとかいってるそれは結局不干渉のことで自分の評価を他人に自己満足レベルと同じでないものに批判をさせないってことだろ
自分が自由に目的を決めて、決められてきたそのレールで確度があがっているそれより運と努力で確度が上回る可能性を偶然に産むとか
それには何の価値があるんだ
宝くじかなにかか?
本来ならば交際も結婚も性交も第三者が許可したものにしとけばなんの問題も発生しないだろ
それでなにかがおかしくなるとか狂っていくとかディストピアだとかいうだろうけども
結婚促進、少子化対策、種の繁栄とか本気でいうならどっかの宗教団体みたいに有志をランダムに組み合わせたほうがいい
自由を認めるなら自己責任の自己の意味とか責任の意味ってのを明確に文字にして法令にして遵守してやってけばいい
俺個人は不干渉がいいし自由という自滅でゆっくり死んでいくのがいい
個人が自分で選択をできるようにというなら、しっかりレールが敷かれてあって終点が保証されているべきだろ
今この瞬間の決意が、明日や来年、何年後かに変わっている、変わる理由って目的地が都度かわってる、目的地がかわるのは状況が変わる、それを減らして選択肢としないと
その時だけ最高の気分にして決断まで漕ぎつけて、数日後にはそんなつもりじゃなかったなんてことになるだろ
実際なってるだろ
離婚率の高さはそれだろ
どっちでも好きなほうを主張すればいいけどさ
「科学的判断」という言葉に何とも言えない気持ち悪さを感じる。
調べてみると、論理学における「judgement」の訳語として「判断」という言葉を使うこともあるらしい。まあそう言われると納得もする。
しかしここで言う「判断=judgement」とは、「命題の真偽を判定する」ことを指すのであって、決して「今後の戦略の選定」を指しているのではない。
その意味では、少なくとも「ワクチンの接種を推奨する」ことは「科学的判断」ではない。(念のため、私個人はワクチン接種推奨派である。)
「ワクチン接種は生存率を高める手段として有効である」までが「科学的判断」であり、「だからワクチン接種を推奨する」以降は「政治的判断」である。
「科学的判断」という言葉を好んで用いる人々が、そこを区別できているようには思えない。
このような重箱の隅を突くような議論を持ち出すと、「ワクチン反対派に味方するのか!」と言われそうだが、そうではない。(もう一度言うが、私個人はワクチン接種推奨派である。)
この例に関しては、科学的判断の後にシンプルな「功利主義」を援用すれば「ワクチンの接種を推奨する」という「正しい」結論が導かれるから、たしかに細かいことを気にする必要はないかもしれない。
しかし、そうではない場面は世の中にたくさんあるだろう。
例えば、ある特定人種の犯罪検挙率が有意に高いという動かぬ事実を前にして、あなたはどのように「判断」するだろうか?
ここでの「科学的判断」とは、「ある特定人種の犯罪検挙率が有意に高い」までである。
そこから安易に「だから特定人種を排除してもよい」と「判断」することは、いわゆる経済的差別と呼ばれるものである。
僕のこと嫌いな人は嫌いだね。嫌いな人が僕のせいで嫌な気分をしてるのは気分がいい。僕が息をしてるだけでストレスを抱えてくれる人たちのお陰で、僕は常に気分がいい。
可哀想な人を可哀想だと慰める行為は、相手を余計に惨めな気持ちにさせるだろう。自分の時間を使って相手の尊厳を貶めるほど僕は悪人ではないから、可哀想な人は努めて無視してあげるのさ。
自分の幸福も不幸も自分にしか分からないものなんだから、それを比較して不公平なんて宣うことは第三者にしか不可能だ。そもそも公平である必要もないんだから、不幸な人は一人で不幸を抱え込めばいいし、幸福な人は幸福を享受すればいい。相互不干渉でいい。
みたいな性根の腐り落ちてそうな理論を皆で考えよう。
女子スポーツや女子トイレにトランス女性も入れるべきかという問題で、シス男性は部外者(それどころかシス・トランス両者への加害者)だから、したり顔で首を突っ込んでくるな、黙ってろって、意見をよく聞くけどさ(主にトランス排除のシス女性から)。
じゃあ勝手に弱者同士で殺し合ってろって放置してて良いのかな?
多数派のシス女性が少数派のトランス女性を虐殺して、今までどおり踏みつけ続ける結果に終わると思うけど。
日本は70年以上前にアジア諸国を侵略したからウイグル族やロヒンギャ族の虐殺を批判する資格はない、外国の国内問題として不干渉でいろ、少数派が殺されるのをただ傍観していろ、とでも言いたいのか?
放置した結果が著しく正義に反するから、エリート白人高齢男性という多数派中の多数派であるバイデン大統領でもトランスに肩入れする政策で介入することを選んだ。
現代の正しさは
・人に迷惑をかけるな
・他人を変えようとするな
「コーヒーいる?」と聞かれたら「ありがとう。要らない。今後も一切聞かなくていいよ」と答えるのが正しさだし、「コーヒーいる?」と聞いて相手から感謝の言葉が出てこなければ、次から二度とコーヒーを入れないことで感謝されない不満を解消するのが正しさだ。間違っても「コーヒーいるか聞いてあげたんだからお礼ぐらい言えよ!」などと言ってはいけない。不満を感じても、他人を変えようとするのではなく自分の行動を変えるのが正しさだ。そして、間違った人間とは「距離を置く」ことで正しい世界に生きる。寛容、不干渉が正義である。
しかし、子育ての場面ではこの現代的正しさは通用しない。「カルピス飲む?」と聞いて、お礼も言えない子供だからといって距離を置くのは正しさではない。子育てにおいては、子供という他人を変えようとしなくてはいけない。何度でも「カルピス飲む?」と聞かなければならないし、その都度お礼を言うように注意しなくてはならない。善意に対して感謝されない不満も、他人を変えようとするという骨が折れる手段で解消しなくてはならない。
周知の通り、他人を変えようとするのは物凄く骨が折れる。三つ子の魂百までというように、子供だからと言って簡単なわけではない。
タイトルで強烈な文言を述べたが、私個人は神様を信仰していない。私は神様ではなく自分に幸福をもたらしてくれる縁や尊敬できる偉人を信仰している。
私の家系は日蓮宗であるが、それを意識することはほとんどない。葬式や父の実家の仏壇を拝むときだけだ。クリスマスも初詣もするし、お守りを持つこともある。
このような態度は無宗教と呼ばれ、日本人の多くはこれに分類される。中にはこれを宗教的態度の欠如であると批判する人もいる。私が小学四年生の時の担任教師はこれをおかしいと非難した。
しかし、私はこのような「無宗教」が日本で起こったことや、無宗教の人が宗教の恩恵にあずかれるのはおかしいことではないと思っている。
日本人の宗教観は、この世には沢山の神様がいるという宗教観である。この世のあらゆる事物にはそれぞれの神様が宿り、神様達の動きによりこの世界の因果関係が決定されると考えた。それぞれの神様は人間と同じく感情を持つものとして考えられ、祭祀や信仰はその神様のご機嫌をとることに近かった。この宗教的態度は外国から仏教や儒家思想、キリスト教などが入ってきても変わらなかった。
このような宗教的態度が生まれた背景を和辻哲郎のエセー「風土」は日本(および東アジア)の雑多な生態系と災害の多さに求めた。日本人は古来より抗いがたい災害に見舞われ、それに耐える忍耐力を養った。そしてその気象条件は同時に命の恵みも与え、我が国に植物や動物の息吹があまねく見受けられるのである。
こうした環境が日本人の精神を作り、その精神から人格を持つ沢山の神様を生み出したのである。これは自然環境が変わらぬ現在でも同じであり、欧米や中東のような一神教的な絶対神が日本を征服できないのはこのような理由がある。一神教の神は、多神教の神の国の一部として取り込まれるのだから。
遠藤周作の小説「沈黙」では、日本に伝来したキリスト教の教えが日本に根付かず改変されていることを元宣教師のフェレイラが嘆くシーンがあるが、それは上の風土を考えれば当たり前のことなのである。
一方でキリスト教やイスラム教などの一神教が誕生したのは、砂漠の国の中東からである。そこは日本とは全く異なる生命の息吹が皆無の殺意の大地である。そのような状況から砂漠の民のヒューマニズムへの関心はとりわけ高く、それが人間の味方である絶対唯一神への信仰を生み出した。
それがヨーロッパに入り浸透したのは、ヨーロッパの民族は合理的で従順だったからである。ヨーロッパは生態系が単調で、人間からすれば自然は全部「役に立つ」ものだった。そこから古代ギリシャ・ローマに代表される科学的合理的思考がこの地で起こり、それはヒューマニズムに満ちた一神教を受け入れたのだ。
ここで、あらゆる神や宗教を吸収する多神教の国日本と一神教が人々を統べる欧米や中東の差異が分かる。そして、これが日本の無宗教を受容する態度と非難する態度の違いを生み出すのだ。
一神教的宗教観は日本の無宗教を非難するが、それは無宗教が神様を信仰しないからだ。一神教の神は世界の創造者で裁定者で救済者なのである。それを信仰することが彼らの人間として生きることの証なのだ。故に無宗教は非人間的な態度であり、シリアルキラーと同類の存在なのだ。先の私の小学校の先生も無宗教を人間として無節操な態度と考え、非道徳の理由を無宗教に求めたのだ。
その上で私は一神教的宗教家の方々の私の宗教観への批判に反論したい。私が信仰しているのは神を持たない宗教であると。
先ほど私は日本の宗教観ではこの世の事物にはそれぞれ神様がいると述べたが、それはあくまでいるだけであり信仰する神ではない。物事の因果を神の所業と考えているが、それを起こす神が気まぐれでそれが沢山いる以上もうどうしようもないのだ。もしこれが人だったら早々と見限るような神々は沢山いるのだ。神は人を選ぶのだろうが、人間も神を選ぶのである。
私も以前は神は正しいメッセージを授けてくださると思っていたが、いつまでたっても授けてくださらない。それは当たり前のことであり、雑多な風土に宿る神が雑多なメッセージ以上の何かを発信することは出来ないのだ。日本の土地では裁定者たる神はいないのである。「沈黙」でも、主人公の前に裁定者は最後まで表れなかった。裁定者は日本という沼地で溺死したのだ。故に主人公は生きるという決意で生き延びたのだ。
「沈黙」では神を心のなかで生きる存在と最終的に結論付けたが、私はその神の存在意義は最初から否定した方が楽なように思えるし、そちらが神様にとってもありがたいであろうと思う。そうでないと私は神様に対する「たかり」になってしまい申し訳なさで死んでしまいそうだ。
何か危機に陥ったときにかつては祭祀や加持祈祷に頼っていたであろうが、科学の時代においては科学の方が日常生活では「烏合の衆」よりかは帰依出来る。
今のコロナ禍でも、精神的基盤を補強する役割以外では、神頼みよりも衛生的処置や医療措置の方が遥かに大事なことはすぐに分かる。
では私は何を宗教に求めているかというと、私の心と世界とのコミュニケーションである。世の中には理不尽なことは沢山ある。そんなときに世界が沈黙し私を嘲笑しているように錯覚することがある。
だが、それは私が世界とのコンタクトを放棄しているからである。世界は私を嘲笑していない、語りかける励ましの言葉はある。私がそれに気付くとき、私は心を開き癒されるのだ。その回路を開くことが私の宗教的態度である。私が信仰しているのはそうしたものである。
私は長々とここまで語ったが、私は他人の宗教的態度を否定するつもりは毛頭ない。私には私の納得する宗教的態度があり、それを大切にしている。故に他人にはここで語ったことに対抗しうるだけの宗教的態度があると考えられる。私はそれを侵すつもりはないし、相互不干渉を守りたいと思う。自分の守りたいものと同じように他人の守りたいものは守りたいのだ。
私の記事は以上だ。
https://peing.net/ja/q/0820a2ba-5264-45d9-a90a-7fa1db200664
と〇婚のpeing公開説教、確かにぐうの音も出ないレベルでド正論だから仰る通りです。。。と
わが身に置き換えて反省したい所なんだけどさ
何がムカつくって、それをRTしたりLINEのグループに投稿してくる既婚者がほんっとに癪に障る
それ絶対わざとやってるでしょ
これ言ってることはキツイけど正論だよね~wみたいなコメント付けて、既婚も孤独死待ったなしも混ざってるグループに投稿すんの
もちろん私は孤独死の方ね
普通に酷くない?何それ オタクやっててもいいけど現実見なさいねw教えてあげるやさしい私、って事?
ちょっと前に結婚したい理由がわかんない増田いて、私も結婚したいとは思ってないし結婚した理由聞こうとも思わない
既婚・未婚なんて考えずにお互い不干渉でいればいいじゃん と思ってるんだけど
既婚者側がそういうデリケートな、それでいて彼らは全く当事者じゃない対岸の火事でしかないコンテンツを
わざわざ目の前に叩き付けてくるの
こっちはもう取り返しが付かないことが分かってるから、見て見ぬふりをして終わりを待ってるのに
オタクが恋愛して結婚して変わっちゃうのは、もう仕方ないと思う
推しと添い遂げると言ってた子が相方最高と言ってるのも全然許せるよ、幸せなのはいいもん
でも孤独死組がイジられるのは訳わかんないよ
そして私みたいなのがこうして発狂すると、ああやっぱり本音は耳に痛いよね~って笑うんでしょ
もうやめてよ
悩んでる。
彼のふとした仕草から、封印したはずの自分を見つけてしまっているからかもしれない。
もしくはただ単に相性が悪いだけかもしれない。
原因は分からないが時々無性に我が子が嫌いで気持ち悪くて嫌悪感でいっぱいになる。
歩き方、声の出し方、話し方、話す内容、クセ、趣味、着てる服、顔、身体つき、全てが本当に無理になる。
そのことに気づいて気持ちを隠そうとすればするほど焦れば焦るほど抜け出せなくなり、態度に表れてしまう。
と言っても30分もしない内に落ち着くし、できるだけ同じ空間から離れようとするので、少しイライラしてるように見える程度みたいだが。それでも常にそっけない態度ではあるかもしれない。こわい。
他の大人が一緒だと発動しにくい。恐らく会話や注意をその大人に任せて、私はできるだけ関わらないことができるから。集団の中ではそれなりの親になれる。だけど2人きりはしんどい。無言を許してくれれば、向こうからもしつこく話かけてこなければ、あったとしても当たり障りのない会話であれば、無難な関係はできる。
良い親子関係は諦めている。ただ、親から嫌われていたとは思ってほしくない。無難な、不干渉なドライな親、くらいで留めたい。なんとかして距離を空けて、隠すしかない。