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“朝鮮人扱った映像作品” 東京都が上映認めず 制作者らが批判
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221122/k10013900691000.html
こいつが検閲になるんじゃないかということでニュースになっていたわけだけど、
最初は自分も検閲になるんじゃ、とは思っていたが考え直して検閲には当てはまらんような気がしてきた。
ただ自分の記憶もあいまいなので、識者の意見を聞きたいと思ってここにメモを残しておく。
「検閲」とは「行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的とし、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを特質として備えるもの」
を意味し、今回は東京都という行政権が主体となって、発表前に内容を審査したうえで、不適当と認めるものの発表を禁止したといえるので、検閲なんじゃないかと思ったわけだ。
ただ、そこでない記憶を振り絞って思い出したのが家永訴訟で、探し出してみたら
「本件検定は、前記のとおり、一般図書としての発行を何ら妨げるものではなく、発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないから、検閲に当たらず、憲法二一条二項前段の規定に違反するものではない。」
となっていて、検閲でいう発表の禁止は今後一切の発表ができなくなるような性質に思えるな、というわけで
22日、都議会の議会棟で、昭和初期に精神科の病院に入院していた朝鮮人を扱った映像作品の上映会が開かれ、制作したアーティストの飯山由貴さんらのグループと都議会議員7人らが参加しました。
飯山さんは、東京 港区の「東京都人権プラザ」で開かれている精神障害者の理解促進を図る企画展で都に展示内容の委託を受け、イベントの1つとしてこの作品を上映しようとしましたが、認められませんでした。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221122/k10013900691000.html
すでに対象作品は上映で来ていて、今後も別の機会でも上映できるだろうから検閲ではないんじゃないかと思うんだが、どうだろう。
ついでに言えば、東京都が作品内容について判断をして拒否をできるかについては、拒否ができる場合もあるとは思う。
例えば、ジェンダーについての作品を依頼してTERFバリバリの作品が出てきたら困るだろうし、
女性支援の作品でHPVワクチンは薬害をもたらした、なんてやられたら問題としか言えないし。
https://news.yahoo.co.jp/articles/02b7817b866ffd531d0fd4c1125f2ec3413b6055
ただし、そういった上映の拒否権も完全に自由とはならず、ある程度の裁量権の範囲にはなるかと思う。
教科書訴訟でも検定の正当性は認めつつも、裁量権を逸脱した部分については違法性を認定しているわけで。
「生体実験をして多数の中国人等を殺害したとの大筋は、既に本件検定当時の学界において否定するものはないほどに定説化していたものというべきであり……文部大臣が、七三一部隊に関する事柄を教科書に記述することは時期尚早として、原稿記述を全部削除する必要がある旨の修正意見を付したことには、その判断の過程に、検定当時の学説状況の認識及び旧検定基準に違反するとの評価に看過し難い過誤があり、裁量権の範囲を逸脱した違法がある」
「行政庁に大幅な裁量権を認めたものではなく、裁判所は行政庁の判断が相当の根拠資料に基づいてなされた合理的なものであるか否かを審査すべき」
そういった意味で
毎年行われる関東大震災の朝鮮人犠牲者への追悼式典に小池知事が追悼文を送っていないことを挙げたうえで、「都知事がこうした立場を取っているにもかかわらず、朝鮮人大虐殺を『事実』と発言する動画を使用する事に懸念があります」と指摘しています。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221122/k10013900691000.html
知事の歴史認識と異なるから拒否をするというのは裁量権の範囲とは認められにくい、とは思うがいかがなものだろう。
そんなわけで、検閲ではないが違法性が認められる余地はある、という感想を抱いているんだが、どんなもんだろう。
あと東京都側の主張についてだけど
「メールは、殺傷事件があったかどうかというより、殺害された人数など、内容にさまざまな見解があり、その部分を確認したかった。展示しないように求めたのは、事件が事実と描かれているからではなく、障害者と人権というテーマから作品がずれているからだ
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221122/k10013900691000.html
松井稔監督の『日本鬼子(リーベンクイズ)』を観る。東京ではユーロスペースで大ヒットした作品だ。これまで観る機会がまったくなかったわけじゃないけど、往年の日本兵士たち(つまり老人たち)のインタビューだけで構成された三時間近くの作品と聞いて、正直に告白すれば、これまでどうしても食指が動かなかった作品だった。でもせっかくの機会だから観た。退屈だったら途中で退席すればいいと思っていた。会場のシティホールはほぼ満席。結論から書けば、僕は最後まで座席に釘付けだった。まさしく一歩も動けなかった。
戦争時、虐殺行為を働いた兵士たちの証言はこれまでも何度か聞いたことがある。でもそのほとんどは、同じ舞台の兵士がやったという目撃談か、上官に命令されて仕方なく……式の証言がほとんどだった。つまりは傍観者であった(制止できなかった)自分を悔いるか、加害者でありながら戦争という構造的な狂気の被害者でもあるというエクスキューズは残されているのが常だった。しかし『日本鬼子』に登場する元日本兵たちのほとんどは、まさしく虐殺の命令を自らの意思で下した上官か、そうでなければ実際に手を血で染めた兵士たちだ。まずはその身も蓋もないほどの事実に圧倒された。
中国の村を襲い、略奪と村民全員の虐殺をはかった兵士の証言が出てくる。家の中で幼児と共に震えていた若い妊婦を見つけ、レイプしようとしたが抵抗されてかっとなり、妊婦の髪を摑んで家から引きずり出して、井戸の中へ叩き込んだという。泣き叫びながら井戸の周りを走り回っていた幼児が、家の中から椅子を持ってきて井戸の脇に置いてよじ登り、母親の名を呼びながら中を覗き込もうとしてつるりと滑り落ちた。その一部始終を眺めていた彼は、部下に命じて井戸の中に手榴弾を投げ込ませた。
目撃談ではない。命令されて仕方なくの行為でもない。証言する彼が、まさしく自分の意思でやったのだと断言した。
「中国人を同じ人間とはどうしても思えなかった。何故かは分からない。でもとにかく、人間を殺しているという感覚は全然なかった」
登場するかつての皇軍兵士たちのほとんどは、そうつぶやいた。七三一部隊で中国人捕虜たちを材料に様々な生体実験を率先してやったお爺さん。南京で何十人も虐殺して河が紅く染まったと証言するお爺さん、捕獲した民間人を中国軍のスパイだと決めつけて拷問の末に片っ端から銃刀で突き刺して殺したお爺さん、中国娘をレイプした後に虐殺してその肉を部隊全員で食べたお爺さん。たくさんのお爺さんたちが、縁側で、茶の間で、ホテルのロビーで、診療所で、午後の柔らかい日差しに包まれながら、蝉の声を聞きながら、訥々とそう告白する。
慟哭はない。嘆息や逡巡や絶句すらほとんどない。松井監督はそんな要素をすべて削ぎ落としている。作品としての評価は分かれる部分だと思う。僕がもしこの作品の編集を担当したとしたら、インタビューの内容よりもむしろ、お爺さんたちの話の合間に生じるそんな余白に興味を持つだろうし、カットとしても最優先するだろう。そもそも彼らへのインタビューの交渉そのものを素材にしていたかもしれない。
しかし結果として、そんなニュアンスを徹底的に削ぎ落としたインタビューは、これ以上ないほどにグロテスクなものになる。「内臓がドバーッと出てきましてね」と苦笑混じりに語るお爺さんを眺めながら、彼らは殺人鬼でもないし血に飢えた狼でもないと客席の隅で僕は歯を食いしばりつづける。親を敬い初恋に胸を焦がし子供を愛し、笑ったり泣いたり、憎んだり赦したりしながら、戦後の半世紀以上を市井の片隅で生き抜いてきた人たちなのだ。だからこそ考えなければならない。優しく穏やかな僕たちが、そんな残虐さを何の躊躇いもなく発露することがあることを、僕らは自分たちを主語として考えねばならない。