はてなキーワード: ワムシとは
永吉昴と『ビギナーズ☆ストライク』が好きだ。けど語り合える友達がいない。からここに書き散らそうと思う。
わざわざこのためにはてなの垢も作った。えらい。
最初に断っておくがわたしはミリシタ2周年ぐらいからミリオンに触れ始めたにわかPだ。グリー時代は全然知らないし、なんならミリシタ内でも未読のコミュもある。
もしかすると先輩Pからすると「こいつ何言ってんだ?」「解釈おかしすぎワロタ」的なところもあるかもしれない。
でも全部知らなきゃ語っちゃダメか? いやそんなことはない。はずだ。不快なところがあったらごめん。
あとはてな記法とやらもよく知らん。読みにくかったらごめん。
永吉昴と『ビギナーズ☆ストライク』の魅力について語る前に、ここまで何を言ってるのか全然わからんという読者(いるのか?)のために、まず少しく基本的な情報を共有しておく。
有識者の同僚諸賢におかれては★印あたりまでスキップしていただくとよろしいかと思う。
〇永吉昴とは?
バンダイナムコエンターテインメントの展開する『アイドルマスター ミリオンライブ!』に登場するアイドルのひとり。
すぐ「すっげー!」って言う素直でボーイッシュなキャラクター。かわいい。尤もアイドルはみんなそれぞれにかわいい。
永吉昴のソロ曲。野球をモチーフに、全体的に元気な曲調で瑞々しい恋心を歌った曲。
ミリシタ内でしか聞いたことのない方にはぜひフルで聞いてみてほしい。フルを知らないとこのエントリ全然わからんと思う。
〇ミリシタとは?
『ミリオンライブ!』のスマホゲー。詳細はググってほしい。9月末からフェスだから始め時だよ☆
他、わからない単語は適当に検索してほしい。ていうかわかるPしか読まんだろたぶん。
そろそろ本題に移ろう。
★
『ビギナーズ☆ストライク』の魅力は、ズバリ次のフレーズに凝縮されている。
"素直にならなくちゃ なんにも変わらない ホントのライバルは ヨワムシなわたし"
(出典:http://www.utamap.com/viewkasi.php?surl=k-140430-185)
この部分がわたしはもーほんと素晴らしいと思う。この1節のためにこの曲はあるといってよい。
尺の都合があるとはいえ、この部分がミリシタに実装されなかったのは残念至極というほかない。
さあではこのフレーズの一体どこにそれほどの魅力を感じているのか?
先述のように、ミリシタにおいて昴は基本的にボーイッシュなキャラクターとして描かれることが多いが、そればかりではなく、実はかわいらしさ・女性らしさといったものへの憧憬を持っている。
例えば4コマ『あとひと押し』ではかわいい服に惹かれながらも自分からはなかなか一歩を踏み出せない姿が見られるし、オフショット『かわいいに必要なもの』ではまさにド直球で「かわいいってなんだろう…」と思い悩む。
(少し話がそれるが、わたしの思うに『かわいいに必要なもの』は、一見安易に性的なネタに逃げているように見えて実はしっかり昴の心情を表現している見事な一コマだ。おふざけでなく真剣に眉を寄せているのが肝だ。
例えば亜美真美ならおふざけ全開で胸に詰め物をするだろう。この違いは亜美真美が頭空っぽとかそういうことではなく、昴がボーイッシュな自分と風花さんのような女らしさとの間に乖離を感じていることに起因するものだ。
『あとひと押し』は正直なところ4コマ目が若干解釈違いで、わたしが作者なら「そ、そこまで言うならしかたねーなー!」みたいなセリフで喜ばせるところだ。「入ってみたかった」とはっきり言わせるのは違う。『あとひと押し』というタイトルならなおさら)
このボーイッシュさと女らしさのせめぎあいというのが、永吉昴の大きな魅力のひとつだとわたしは思っている。このせめぎあいはすなわち子供らしさと大人らしさの葛藤であり、15歳の彼女の成長痛といってもよい。
アイドルとしてのみならず、一人の人間として女として、子供から大人へ成長しつつあるアイデンティティの揺らぎが描かれるところが、多くのアイドルの中で昴を昴たらしめている大きな特長である。
翻って『ビギナーズ☆ストライク』の歌詞を見ると、全体としては「いま観戦してる試合に出てる”彼”、前から思ってたけど素敵だな~…でも告白する勇気は出ないんだよな~…でも…思い切って告白しようかな…!」みたいな歌詞なわけだが、つまり言いたくても言えず、心の中でつぼみのように大事にしている恋心をいざ伝えんと歌ったもので、要するにいままさに子供から大人へ一歩踏み出そうという歌詞なのだ。
とはいえ「勇気を出して告白しよう!」という曲ならぶっちゃけいくらでもある。が、『ビギナーズ☆ストライク』の場合、もう一つ注目すべきところがあって、それがさきほど引用したフレーズなのである。
思い出してほしい。昴はボーイッシュなキャラクターで、普段の一人称は「オレ」である。しかし『ビギナーズ☆ストライク』に「オレ」は登場しない。昴が、曲中たった一度だけ心情を吐露する一人称、それが「わたし」なのである。
この「わたし」のおかげで、『ビギナーズ☆ストライク』は、ボーイッシュではあるのだけれども決してそれだけではない、「オレ」ではない、恋する女の子としての昴を見事に表現することに成功しているのである。
「こっそり隠したラブサイン」→「欲張りなオモイが泣き出しそう」→「告白してみよう…かな?」→「ホントのライバルは ヨワムシなわたし」なのである。ここに至るまで「わたし」は登場しない。ぜひフルで聞いてみてほしい。
正直に言うと、ミリシタ内で初めて『ビギナーズ☆ストライク』を聞いた時には、まあありがちな自己紹介曲だな、くらいにしか感じなかった。なんだか歌詞もわかるようなわからんような、まあ野球を恋の歌に落とし込むとなると難しいんだろうな、程度の認識だった。
初めてフルを聞いて『ビギナーズ☆ストライク』の良さに気づけたのは6月のライブ一挙放送でのことで、まあそんなわけで何が言いたいかっていうとその節は運営さん素敵な企画をありがとう。可能ならまた一挙とかやってくれると嬉しいです。あとマスピ実装待ってます。あの大団円感が好きです。歌い分けもお願いします。おわりです。
国民的議論という言葉は、恐ろしく空虚なくせに、どこまでも無神経なハリボテのように私には思える。あるいは、どこにも辿り着かない作りかけのジェットコースターみたいにも感じられる。そして、どこにも辿り着かない原因を、乗っている人間の気持ちや努力が足りないせいだと言っているように、責任を放棄しているようにも聞こえることがある。
いつからだろうか。その国民的議論という非実際的な言葉が、バラの香りつきのダブルロールの糞拭き紙のように大量消費されるようになったのは。それは日々生まれ落ちていく。そして汚水に渦巻き、下水道に落ちていく。溶けていって消えていく。それが私には気に入らない。とても、激しく。
国会議員や大臣から、その反対の立場を取る論客とか文化人きどりのバカな芸能人まで、テレビでラジオで新聞で、ことあるごとに、誰もが言うようになった。国民的議論が必要だと。ガチャガチャ、騒いでいる。なんだおまえらクツワムシか……。しかし、おそらくは、それだけではないんだろう。人前でもって何かを話すような偉い方々は、例えば、禿げ上がった社会科教師や、ぶんぷく茶釜みたいな地方議員なんかも、そのような薄い言葉を(偉そうに)使っているに違いない。
だから、もう止めませんか。
国民的議論という言葉は、それは美しい言葉だ。それは認めます。人の精神の高貴さを讃え、鼓舞する言葉でもある。しかし同時に、それが愚かしいほどの理想論を下敷きにしなければ息ができないような都合の良い言葉だということにも気づいている筈だ。そもそも、国民的議論というものは、どこでどのようにして行われて、何を成す力があるのだろうか。いや、具体的に考えてみれば、それはどのような具象的な力も持っていないことが、誰にとっても、はっきりと分かる。我々は限られた場所で生活を行い、限られた人々とのみ、限られた意見をもって、差し出しあうことしかできないのだ。それは総括しあって、大小様々な結論を生むかもしれない。だが、それだけだ。何にもならない。そして現実には、それすら起こらない。起こっていない。起こったこともない。有権者全体の意識の変革など、できるわけがないのが現実だ。仮に、なんらかの技術革新に基づく発展があれば、いや、その補助があってさえ、不可能かもしれない。それは人間という生物種の、ひとつの社会的限界なのかもしれない。だが、ひとまずそれは置いておこう。
書いていて、大分、怒りが収まってきた。とにかく、私は国民的議論などという言葉を、語りかける言葉として使ってはいけないと考えていることを表現したかったのだ。そんな場当たり的で曖昧な、儀礼的でしかない誤魔化しを使うのは、互いを互いに貶めることに他ならない。そんな体裁第一主義からは、日本人は、もういい加減に卒業しなければならない。