はてなキーワード: マサキとは
事前に抜いとけ(セリフ)
おイタしたり 不倫しちゃったり
挟むだけですぅ〜っと変な気なくなる(不思議だね)
一瞬で全てを手放すリスク
その前に10分のURAWAZA
タマノナカヲカラニスルギシキ カゾクノタメニヤルギシキ Fu!
邪念が出る前に抜きゃイイジャン
どいつもこいつも 危機感がない
抜きゃいいじゃん抜きゃいいじゃん(チェックインして)
なぜ抜かない? 抜くべきじゃん(出かける前に)
また邪念が出たら 部屋もどり抜きゃいいじゃん!
抜くって大事だね
(セリフ)
みなさん抜いていきましょう 審査員のみなさん抜いてますか? それが心配で
抜かなくて溜まるから変なこと起こすんですよ
みんないなくなるの嫌だよ
それはみじめなことなの?
イイ女と遊ぶ方がイケてるの?
一度抜くだけで食や街に集中できる(Fu〜Wu〜)
そりゃ羨ましいけど仕事なくなるんだったら
抜きゃいいじゃん!抜きゃいいじゃん!(ツマサキノバシ)
何度でも(Fu!)
ナゼ抜かない? 意地張んな!(モノノジュップン)
けど今夜は僕もハメ外してみようかな・・・(全て終わるぜ?)
やっぱ抜くっしょ
自分で脱いちゃえ〜
(セリフ)
抜け!抜け!抜きゃいいんだよ!
抜けばそんな気起こんないんだよ!
先に出しちゃえよ!
意地張んな!
KENZENでいこうよ抜いてけよ
名曲だ
○ご飯
朝:なし。昼:ハンバーガー。夜:にんじん、しめじ、白菜、大根のスープ。たまごやき。魚肉ソーセージ。間食:なし。
○調子
昨日チャッピーとテリーで種族が被ってるって書いたけど被ってなかった。
うーん? そんなことある?
僕は何を勘違いしてたんだろう?
と思って色々調べてたんだけど、どうもポケモン赤緑の海外版とかFRLGの記憶とかが混ざってこんな思い違いをしていたようだった。
まあ思い違いは仕方ないのでメインROMの赤からニドランメスを送ったりしてた。
ハナダの下の地下通路でニドランオスのチャッピー、クチバでカモネギのおしょう、クチバとシオンのゲートでニドリーナのテリーを交換した。
その後レベル上げをしたり、月の石を使ってメンバーはこんな感じ。
手持ちは、カモネギのおしょうがレベル14、ニドキングのチャッピーがレベル25、ニドクインのテリーがレベル27、ルージュラのまさこがレベル27。
○ご飯
朝:なし。昼:サラダ。夜:にんじん、しめじ、白菜、大根のスープ。たまごやき。魚肉ソーセージ。間食:焼き菓子。柿の種。チョコ。
○調子
これで闇以外は99にした。
これで交換したポケモンも命令できるようになったので先日クリアした赤版からニョロゾを交換して、さらにNPC交換でルージュラのまさこを入手した。
他ROMとの交換で選択肢が無数にあるのがポケモンのいいところなので今回はこういう感じで正規ルート以外の入手もしていこうと思う。
手持ちは、オニスズメがレベル13、ニドリーノがレベル25、ニドランオスがレベル10、ルージュラのまさこがレベル23。
次はマサキのイベントを終わらせて、カモネギのおしょう、ニドランメスのチャッピー、ニドリーナのテリーを入手する予定。
チャッピーとテリーで種族が被ってるので、どちらかは途中で交代かなあ。
途中ってグレンまでだから相当先だけども。
本日はネカフェで何気なく読んだ表題作に情緒を破壊された勢いでこんなものを書いています。
現在「創世のタイガ」「無法島」を連載中の、森恒二先生によるストリートファイト漫画だよ! 2000年から2008年まで「ヤングアニマル」で連載されていたよ!
いじめが原因で引きこもった少年が『居場所を奪われない為』に徹底して自己修練し続けたボクシングのワンツーで絡んできた街の不良を叩きのめしてしまったことから、町中のヤバイ不良たちや格闘の達人などに目をつけられまくるが、親友や訳ありの過去を持つ強くて頼れる先輩やかつての敵であった人たちと絆を育みながら街に居場所を見出していく王道の物語だよ!
主人公だよ! 中性的な容姿が原因で酷いいじめを受け引きこもりになっていたが「強くなればこれ以上居場所を奪われずに済む」という宗教にたどり着いて一心に強さを求めていくよ! 普段は穏やかで腰が低く弱気な少年に見えるけど、スイッチが入ると文字通りバケモンみたいな強さを発揮するよ! 頻繁に曇るけど周囲の人がだいたい聖人で必ず助けてくれるし本人もいい子なので見ていて安心感があるよ!
いじめのせいで人間不信になっていた主人公に人懐こく話しかけて友達になってくれた主人公の心の支えだよ! 喧嘩はてんでダメだけどどんな危険や痛手を受けてもずっと主人公のそばにいてくれて、主人公が落ち込むたびにすかさず距離を詰めてきて「なにがあったってお前の味方だよ!」と叱咤激励してくれるコミュ力お化けな人間の鑑だよ! 推しです!!
街のカリスマと恐れられているめちゃくちゃに強い不良の人だよ! 街と暴力にしか居場所を見出せない主人公に昔の自分の面影を見て、格闘の助言やピンチの時の手助けやストリートファイト時の後方彼氏面をしてくれるよ! めっちゃイケメンで訳ありの過去もあるカップリング最大手って感じの人だよ!
主人公とストリートファイトをきっかけに知り合った空手の達人だよ! 初期は「お、オレはお前らなんかと友達になった覚えねーよ!」と言いながら主人公に空手の手ほどきをしてくれる心強い友人だったけど、強さ第一主義なせいで主人公にガチの勝負を挑み敗れてしまったことに傷ついて悪堕ちしてしまうんだ! でも森恒二先生の漫画なので大丈夫だよ!
主人公とストリートファイトを(略)レスリングの達人で高校の番長をしているよ! レスリングは路上格闘に向かない格闘技なので実力を発揮できることは少ないが、19歳とは思えない人生3周目の貫禄と人間性で皆から一目置かれているよ! 主人公やマサキさんの傷ついた心をお父さんのように受け止めてくれる滅茶苦茶にいい人だよ! 推しです!!
他にも主人公との戦いがきっかけで恩人枠になって戦いの手ほどきをしてくれたり仲間になってくれる人が色々出てくるよ!
と腐女子経験のある読者は思うかもしれない。だがこの漫画の恐ろしいところは自ら格闘技を愛好する作者の丁寧でわかりやすい格闘技解説に挟まれた男同士のクソデカ感情ブロマンスなのである! 最初の1巻を読んで熟練した腐女子ならばその威力を瞬時にして理解するであろう!(森先生節)
筆者も森恒二先生の他の作品は愛読済だったけど「ホーリーランドは不良と喧嘩ばっかりの話みたいだしそういうのは興味ないから合わなさそうだなぁ」なんて思っていたのに読んでみたらとんでもなかったよ!!!!!! とりあえずブロマンス大好きなみんなは1巻だけでも読んで!!!!!!!!!! お願い!!!!!!!!!!!!!!!
森恒二先生の作品はテーマがどれもクソ重くてけっこうひどい描写も多いけど主人公がひたむきで仲間がだいたい頼れる気のいい奴らなので読んでいて安心感があるよ!(だいたい最後の方でしゃれにならんレベルの凶悪なラスボスが出てきて「もうだめだぁ…おしまいだぁ…」となるけど森恒二先生の漫画なので大丈夫だよ!) あと先生の実体験を含めた格闘技やサバイバルの解説がわかりやすくて面白いので興味がない人でも抵抗なく読めるよ!
2020年6月29日、ノウェムちゃんの専用装備追加が告知された。
その事に関して軽くバズったツイートがTLに流れてきて、オクトーくんがノウェムちゃんにブローチを渡しているスチルのスクショを見て、ノウェムちゃんがとてもかわいかったから、気になり始めた。
それから数ヶ月して、容量に余裕ができたからインストールして、少しずつプレイすることにした。
経済的余裕が無いから課金はあまりできないし、いっぱいリセマラしてノウェムちゃんを引いて、別衣装のノウェムちゃんの為に天井分の石も溜めた。
ノウェムちゃんの、オクトーくんの事を取り戻そうとする真っ直ぐな姿勢に惹かれた。
ノウェムちゃんはユイちゃんの人となりを知った上で良い子だと思っていて、ユイちゃんに対して「諸悪の根源、〜」などと言うのは違和感があった。(個人的にユイちゃんいじり普通に見てて不快で、推しであるノウェムちゃんがその一因である事は純粋に嫌だったし)
脚本に言わされた感あるなと思って、だけどそれでもノウェムちゃんにとって失った物があまりにも大きくて、だから口を突いて出てしまったのだと思えば激しく解釈違いって程でも無いのかなって、受け入れられない程では無かった。
でも、そうじゃなかった。
ノウェムちゃんはオクトーくんがいなくても結構平気そうだった。
何故か魚を食す事にご執心だし、オクトーくんの記憶を取り戻そうって事に必死でもない。
全部のセリフを確認した訳ではないけど、今までのノウェムちゃんを思うと不自然なくらいにオクトーくんの話題は挙がらない。
ツイッターやスレッドなどで、彼氏持ちとか中古とか言って敬遠されがちだから、逆にオクトーくんの事を喋らせなかったのかな?
というか、それくらい根底的にはオクトーくんの事どうでもいいなら2部でオクトーくんを追っかけるのも不思議だね〜。
初心者だからまだ星3にできてなくて絆ストーリー最後まで読んでないけど、4話が現実における騎士くんとの話らしいじゃん。
通常版のノウェムちゃんの絆ストーリーで現実では面識が無いって言ってなかった?
それともメインストーリーのもーっと後の話で、現実に普通に帰れるようになったから、悩みがなくなって平然と思い出づくりに打ち込めるし、騎士くんと現実で会うこともできるのかな?
オクトーくんに向けるそれが恋愛感情では無くても誰よりも大事な存在なんだと思っていた。
友達より家族より大事って言ってたノウェムちゃんの事が好きだったから。
だから単純に推しがなんかだいぶ信念弱々な感じにされたのも普通に辛いよね。
ネネカさんの、オクトーくんがいないから貴方がノウェムを支えてあげてって、それでオクトーくんがいなくてもノウェムちゃんがなんか普通に楽しそうなことの説明をできた気にでもなってるの?
ネネカさんは、別にノウェムちゃんとオクトーくんへの関係性にそんな詳しくないだろうから、何ならブローチの事も知らないだろうから、本心からノウェムちゃんを心配したが故にそう口にしても仕方ないと思う。
でも事実として違うでしょ、代わりに支えられる人なんていないから、だからノウェムちゃんはどうしてもオクトーくんを取り戻したいんだと思ってた。
オクトーくんがいなければノウェムちゃんは何かしらを楽しんではいけないって訳じゃなくて、ただオクトーくんがいないと何だって心から楽しめないからノウェムちゃんにオクトーくんが必要だったんじゃないのかな。
通常版絆3話だってラジラジやダイゴやマサキに励まされてみんなに支えられていることを実感した上で絶対にオクトーくんを取り戻すぞ!って決意する話だったし。
ところでノウェムちゃん、改変後の世界で多分一番世話になってるラジラジや、何だかんだで仲良いダイゴに対しての方が騎士君に対してより絶対情あるし、ラジラジやダイゴにデレる方がまーだマシだったとすら思う。
なんていうか、ペコリーヌは実装させたいし、本編における重要ポジションだから正月イベントには妥当っていう理由で、なんというか数合わせの為に連れてこられた感じだなって。
多分ライターが変わったらしいことにも原因はあると思うけど、キャラクターの同一性を安定させることもできないし、整合性も取れないならなんで実装したのって言いたくなっちゃう。
本当に、こんなの見せられるくらいならずっと実装されない方がよっぽどよかったと思う。
最近始めたばかりだから1年以上ノウェムちゃんの再登場を待っていた人の気持ちは理解できないからこう言えるのかもしれないし、課金してない人間はコンテンツに偉そうに口出しする権利はないだろうけど。
ノウェムちゃんにかわいいお洋服着て欲しいなって思ってたし、事実衣装も立ち絵も星3絵も口調もかわいいと思う。
だって、それらを含めてノウェムちゃんをかわいいと思ってたから。
でもなんだか、ただノウェムちゃんのガワを被ったノウェムちゃんのようなもののようで気持ち悪さすら感じる。
なんでこんな話になったの?なんでこれがムイミ (ニューイヤー)として実装されてるの?運営はわたしが思っていた以上にノウェムちゃんの事が大事ではなかったんだな。運営にとってノウェムちゃんとオクトーくんをカップリング推ししたり、ノウェムちゃんの中身を直向きに愛している人間なんていないも同然なんだろうな。って。
公式と解釈違いって時、今までだったら自分がこの子の事を知らなかっただけなんだって思ってきたけど、これだけは本当に辛い。
オクトーくんのこと大好きなノウェムちゃんが大好きだと思っていたけどそもそもそんな子はいなかったって事になるから。
ノウェムちゃんの好きなところで、騎士くんのこと好きにならないっていう信頼もあったし。
それはまあノウェムちゃんにだって羞恥心はあるだろうけど、それでも騎士くんに赤面するノウェムちゃんが見たかった訳はない。
なのに、あの世界で騎士くんを好きにならない女の子は大衆的に価値はないからノウェムちゃんも問答無用で騎士くんに赤面する女になる。
drstでLove∞Destinyでまゆちゃんの夢プロデューサーが苦しんでた時はどこまでも対岸の火事だったけど、自分がその立場になってみるとこんなに辛いんだなぁ。
(どっちもcygだ…)
潘さんがノウェムちゃんのこと大事にしてるのは微笑ましいなと思うし、最初は困惑していたように思う人達もある程度は自分なりの解釈を見つけて落ち着いてるように思う。
わたしだってかわいい新しいノウェムちゃんだって喜びたかったな。
星3ホームセリフや絆4話までしっかり読めば少しは変わるかなぁ。
せめて4コマとか、メインの続きとかでこの件に関してなんとか補足になるような事、言ってくれたらいいな…。
もし次の別衣装が出るとしたら、その時はオクトーくんのことが大好きなノウェムちゃんだと嬉しいなぁ。
これ以上解釈違いが続いたら、本当にもー二度とやらんと思う。
よっオラ小児性愛男性。ジェンダー周りの話題は人並み以上に追っていると思ってる。
で、このエントリについて。
https://twitter.com/GimmeAQueerEye/status/1300207684960935938
小児性愛と同様に、異性愛も加害性を問われるべきではないかという意見。
ブコメでは既にツッコミが入っていて「同性愛との比較は被差別についてであって加害性についてではない」「論点をずらすな」と言われている。
その通りだと思う。
その上で。
ここについてはツッコミが少ない。
https://twitter.com/GimmeAQueerEye/status/1300219499145166850
https://twitter.com/GimmeAQueerEye/status/1300219500147609600
ツイート本文が読みにくいので変形すると、
からだ。
という主張だ。よく考えがまとまらないままツイートしたのだと信じたい。
まず前提として、性行為に関する正当な合意とは何かを確認する。
が必要十分だ。
小児性愛の場合、子供には判断力がないため、正当な合意とは言えない。
で、ツイートについて。
ディーラー、役職、レイプの例は、いずれも、「女性の実際の判断力よりも、その社会的な評価が不当に低い」という例だ。
だからといって、どうして、異性愛の合意の正当性に疑問符がつくのだろう?
可能性は低そうだが、単に「異性愛には実際には女性が合意していない場合があるので、合意の正当性が疑問だ」って言ってるのだろうか…?(一応この場合についても後述)
理解ができなかった。
邪推だが、このマサキチトセという方は、本心では、女性の判断力は、「実際に」低いと考えているのではないか。
であれば、「女性の判断力は子供と同様に低い。」「子供の合意も、女性との合意も、両方が、一方的な加害になる。」という懸念は理解できる。
というか、それ以外に理解できなかった。
だとすれば、これは、現代社会には受け入れられない女性蔑視そのものだと思う。
これはご自身のことではないですか?
ちなみに、合意が不十分なまま行われる性行為が不当なのは、「言うまでもなく当たり前のこと」だ。
対照的に、子供との性行為は、「どれだけ十分な合意があっても、法律上も倫理上も一切アウト」だ。
大人の性行為は、同性愛であれ異性愛であれ、きちんと合意すればやっていい。
雑に論点をずらすと、かえって、小児性愛者の生きづらさが理解されなくなってしまうように思う。
「80歳と児童」を「30歳と30歳」にしたらどうだろう?(30歳でも病気で死ぬことはあるだろう。)
私の意見としては「お互いに同意があるならいいと思うが、同意もないのに物のように"提供"されるのはおかしい」くらいだが、まあそれなりに多くの人から同意を得られるんじゃないかと思う。
「80歳と80歳」でも、「80歳と30歳」でも、まあ大体同じ取り扱いでいいと思う。
しかし、「30歳と児童」とか、「80歳と児童」なら、そこに児童保護の視点が入るのは必然でしょ。
「思考実験」というのは、終わった議論を無意味に蒸し返すための免罪符じゃないですよ。
「児童保護は必要」という前提は、「小児性愛者にも人権はある」のと同様に、「終わった議論」なんですよ。
まあどちらの立場にも、この「終わった議論」を蒸し返したがる人々は大勢いるね。
今後進めていく必要のある議論というのは、マサキチトセさんが指摘するような話だと思うんだけどね。
https://www.twitter.com/GimmeAQueerEye/status/1300207684960935938
なんだかハイローだなんだとオタクが最近EXILEをめっちゃ持て囃すようになってるけど俺はこれから先何があっても絶対にEXILEを許さない。
なんでわざわざそんなことを増田に?と思う人もいるかもしれないけど、俺は声を大にして叫びたいのだ。
だって、人一人の人生がめちゃくちゃにされてんだぞ。街がめちゃくちゃにされても復興できるかもしんないけど人生だぞどうしてくれんの!ねぇ!!
後、増田しかまともに聞いてくれなさそうだしリアルでこの話をすると家庭は崩壊するし弟が社会的に人権を失う。かもしれないし。
簡潔に申し上げますと、俺の自慢の弟がハイローのせいでEXILEにハマって、
EXILEの!最近結婚発表したあの人!!あいつ!武井咲と結婚したあいつ、わかる?ご本名、田崎敬浩さんって言うんだねあの人。弟が言ってた。
その、TAKAHIROのことを。弟(成人済、理系大学生、(祝)就職先内定)が、あろうことか、おねえちゃん、ねえちゃんって。
百歩譲っておにいちゃんならわかるけど、おねえちゃん。思い出しただけでくらくらしてきた。
俺の絶望がわかるか。ちなみに俺のことを弟は別におにいちゃんとは呼ばない。兄貴とさえ呼ばない。年が近いのもあるのかもしれないけど。
俺の弟はもーとにかく本当に自慢の弟で、頭いいし背が高くて顔も悪くないしスポーツもできるし性格いいし中高とカースト上位の人間で、まあモテて、だけどオタクの俺を馬鹿にすることもないしで、ずっと自慢の弟だった。俺は運動できないし顔は普通だと思いたいけど背は低いしでモテたことはなく、カースト底辺で震えてた人種だ。弟との遺伝的繋がりが信じられないレベルだ。それでも俺が弟への劣等感にあんまり長くは苛まれなかったのはひとえに弟があまりに「出来た」奴で、家族で一番俺に優しくて、兄貴とは呼ばなくてもたまにであっても俺をちゃんと兄として扱ってくれたからだ。
それが、こんなことになっちゃって、しかもちょっとは俺のせいとも言えるので、どうしようもないのがまたつらい。弟の彼女に顔向けできない。申し訳ない。
弟は、身内のオタク(俺)のこと無視しないタイプのカースト上位の人間だから、オススメの漫画とか聞いてくる。めっちゃ嬉しかった。たぶんあいつはこの世で五本の指に入るくらい優しい。オタクで、おおきなおともだち兼任の俺を恥扱いしなかった。親にはされたけど。だから俺はまどマギとかブラボとかまあ、ソフトなやつからちょいディープなのまで色々すすめて、あいつも毎回それを見たりプレイして感想聞かせてくれた。
知り合いに何か、その人の好きなものをオススメされるのが好きだって人間、善人すぎて涙出るだろ。マルチにはほんと気を付けてほしい。兄は心配です。まあ、そのせいでこんなことになってるんですけど。
中学のとき、俺は弟にとても軽い気持ちでBLEACHをすすめた。中2心にも師匠の美学みたいのかっこよくて、あとおっぱいサイコーだったから。なんかこういうと最低の兄貴な気がしてきた。でも俺は夜一さんがすっげぇ好き。男なら更木。
そうしたら予想以上に弟はBLEACHにハマって、俺よりハマって、師匠のこと尊敬し出した。今もしてる。BLEACHのおかげで色んなことを知った、BLEACH好きな人とたくさん話してみたいってスマホを持ちはじめてからはTwitterにBLEACH用のアカウントを作ったりもしてた。後なぜかBLEACH全巻セットがうちには2セットあったりもする。だけど、それだけならまだ、ギリギリよかったんだけど。
だからか去年、BLEACHが連載終了するってなったとき、弟はちょっとヤバかった。
脱け殻みたいになって、ぼーっとして、たかと思うとBLEACHの連載が終わるまでの日数を数えてばたばたしたり。
俺は何もできないしまあせめてと思ってBLEACHの話に付き合ったりしていた。そのとき。
弟はどうやらTwitterのフォロワーにハイローをすすめられた、らしい。
「ハイロー?って映画がBLEACHのジェネリックだってすすめられたんだけど、知らん?」「知らん」
それが頭のまともな弟との最後の会話だった。この後起こることを知っていたら絶対止めてた。タイムマシンがほしい。
ハイローの確か2作目を観に行って、帰ってきた弟は俺の知らない人間になっていた。
目を真っ赤に腫らして、映画のパンフを大事そうに持って帰ってきた。2部あった。俺の分だった。
いい映画だったから、観てほしいんだけど公開終了近いし、だからパンフだけでも。
俺はその日たぶんはじめて弟に弟の好きなものをオススメされた。めちゃくちゃ嬉しかったのを覚えている。ただ仕事が繁忙期並みに忙しくなってしまったせいで結局映画を観に行くことは出来ずじまいだった。もし、俺も観に行けていたら何か変わったのだろうか。
弟はそれから順調にハイローにハマり、順調に一族にもハマり始めた。
そうこうしてるうちに服の系統が三代目系に傾き、聞く音楽が洋楽から一族のになって。だから俺ははじめあいつは三代目にハマったのだと思っていた。弟の口から「おねえちゃん、ねえちゃん」という単語が出だしたのもこの頃だったと思う。忙しかったせいでよく覚えてないけど。
俺が「おねえちゃん」の正体を知ったのは手のつけようがなくなってからのことだった。
いわく、凛々しくてかっこいいけど、目がくりくりして大きくてかわいい、きりっとした太めの眉毛は意志が強そうでかわいくて、笑うと笑窪が両頬にできて、へにゃっとしてかわいい。足がすらっと長くておっぱいがおっきくて、寂しがりで歌がうまくて動物と子供に好かれて子供好きで、優しくて頑張りやさんの、おねえちゃん。
誰が男の、しかもEXILEのTAKAHIROだと思う???俺は新手の萌えキャラかと思ったし若干萌えた。しにたい。
あんまりにも普通におねえちゃん呼ばわりするので俺の頭がおかしくなったのかもと思ったよ。違うよな、TAKAHIRO、男だよな。なんでこんなことになったんだろう。ハイローにハマったとき、好きなのはホワイトラスカル?と雨宮兄弟で、雨宮マサキが一番好きだって言ってた。その雨宮マサキをやってたのがTAKAHIROらしい。つまりハイローがなかったら弟はTAKAHIROにこんな風な傾倒はしなかったんじゃないか。憎い。ただ憎い。存在が憎い。
弟は、前からアクティブだったけど、最近輪をかけて活動的だ。6月7月は舞台を観に行ったらしい。10月にはファンミがあると言って今からわくわくしている。舞台で見た、生のおねえちゃん()は本当にかっこよくてかわいくて、アカペラで聞けたとか言う歌がうまくて泣いたと言っていた。弟の彼女(交際2年目)はたぶんおねえちゃんの正体を知らない。親戚か誰かだと思ってる。俺は、本当のことを教えるべきなのか否かずっと迷っている。
それで、先日の結婚発表である。俺は、正直、ちょっと期待した。結婚だ。しかも授かり婚。いけると思った。弟が正気を取り戻してくれるんじゃないかと思った。違った。あいつの愛は深かったのだ。
弟は、喜んでいた。それもすごい喜んでた。
ねえちゃん、ひとりじゃなかったんだ、寂しがりの人だからそれだけずっと心配だった、ねえちゃんが幸せだって言うなら俺も幸せ、赤ちゃんほしいって言ってたもんな、ねえちゃん、神様ありがとう武井さんありがとう、ねえちゃんをお願いします、幸せになって、来月のCD待ちきれない来年のライブも楽しみファンミでおめでとうが言いたいチケット当たれ、ねえちゃん、すき。
だいたいこんな感じ。
すごく自然にTAKAHIROをおねえちゃんと呼んでいること以外はただただなんか聖人みたいなコメントだった。俺はよくわかんないけどファンミのチケットもきっと当たるよ。お前の徳の高さには神様もびっくりすると思う。なんでこんな方向性に発揮したのかは置いといて。
弟は、もう取り返しがつかないのかもしれない。少なくとも俺はもう弟になにもしてやれない。俺がBLEACHをすすめなかったら、映画に行くのを止めていたら、こんなことにならなかったのだろうか。そう思うと悔やんでも悔やみきれない。
両親がまだ気づいていないらしいのだけが今は救いだ。おおきなおともだちの俺と縁を切りたがったこともある世間体大好きの両親がこの事を知ったらと思うとぞっとする。
俺の自慢の弟の、たぶん順風満帆そのものだった人生をめちゃくちゃにしたEXILEを、TAKAHIROを、俺はたぶん一生ゆるせない。
結論:場合による
https://togetter.com/li/1113766
https://matome.naver.jp/odai/2149564479015738601
この辺見てると、「そうだよね」というものと「いやいやおかしいでしょ」というものがどちらもある。批判している人の中には文系の慣行に詳しくない人もいるようなので、しがない文系出身者が「文系だとだいたいこんな感じ」というのを提示してみる(「お前の感覚おかしいよ」という指摘があれば教えてください)
「分析に用いている時点でこれは引用ではない」みたいなやつがおかしな意見の代表。いやいや、分析対象として使うのも立派な引用ですから。
たとえば、「私が好きな○○さんの二次創作小説はマジ文学なので文学作品として研究対象にします」だったら、それがマイピク限定とかでなく全体公開されている限り無断で引用して差し支えない(他人の机の中にしまわれている黒歴史ノートを無断で引用するのは当然のことながら違法です)。10年前に20部だけ頒布された同人誌に載っている内容でも引用してよいし、「バナナ」とか「前立腺」とかいう単語も容赦なく引っ張ってきてこの表現の含意はとかここで使われている暗喩法はとか分析していい。
文学研究ってそういうものなんで。たとえばナボコフの研究では、英語版とロシア語版を照らし合わせて登場人物の名前がどんなふうに変更されていてそれにはどういう意味が込められているかとかそういう細かな点を論ずる研究というのも実際あるし、そういう研究対象としての引用というのはまったく問題がない。作者に許可を取る必要もない。
それが本当に研究する価値のある文学作品であり、文学研究としての作法を踏まえているのなら、ラノベだろうが官能小説だろうが二次創作だろうが分析対象にしていい。異世界転生で俺TUEEEEEEであってもそこに文学として研究されるに値する何かがあるならガンガン引用することが許される。文学研究であるなら著者名と出典を明記することは研究倫理上むしろ必要不可欠だし、仮にそれで元の投稿者がマイピク限定にしちゃったりしても、このケースならそこまで研究倫理的に問題はない(と、私は判断する)。
現状、それをやっている人がほぼ絶無なのは、
という理由であって、やっちゃいけないなんてことはない。二次創作書きから直木賞作家とかに登り詰めて死後に全集が作られるような身分になったら生前に書いたピコ手の二次創作小説が掘り起こされて「若き日の習作」として分析対象になってしまうのも甘んじて受けよう。
しかし、問題は、これ文学研究じゃないですよね、という話で、テキストにあらわれる語の頻度を分析してフィルタリング機能に活かそうとかそういう研究だとまた違う話になる。たとえば「夏目漱石の作品中における接続詞の使用頻度」みたいな研究なら著者を明かすことに意味はあるけれど、この場合はそうじゃない。まあ一般的な語の用法の分析じゃないからコーパス使えないことはわかるけど、「有害な表現のフィルタリングのため」という目的で用法を研究するなら研究対象の具体的なURLと作者名は伏せた方がいいだろうし(これがまだせめて「“尊い”という語の用法」みたいに価値判断を加えていなければよかったかもしれないけど)、そもそも個々の作品のURLを列挙できる段階でちゃんとした研究とはいえないんじゃないんですかね。ふつうそういう研究なら、「○○新聞のデータベースで××年分の記事を検索して調べました」とか「pixivのデイリーランキング上位20作品を平成××年△月から△月まで○ヶ月にわたって調査しました」みたいなデータになるはずで、分析対象が10作品だけって段階でサンプル少なすぎるでしょ。いやもちろんサンプルが少ないから悪いというわけではないけど(談話分析とかならたった30分程度のTV番組を分析するだけで論文1本書けるだろうし)、フィルタリングを情報工学的に考えるならまずサンプルたくさん集めないと話にならないというか……
「pixivの規約に引用禁止と書かれている!」という主張はなんとも微妙だ。「は? それpixivの内輪ルールだろ? 著作権法上は自由なんだよ!」というカウンターも見られるが、そう簡単な話でもないと思う。
一般論として、引用は著作権法で保護されているので、それが適正な引用である限り(主従関係とか出典の明示とかそういうことね)自由に引用してよい。なので「無断引用禁止」と書かれている痛いサイトも自由に引用して叩いてよい、ことになっている。そういう意味では、「支部の規約より著作権法の方が偉いに決まってんだろボケ」派の言うことは正しい(実際、著作権的にはこれ問題ないとみなされる可能性が高いのではと思うが、法学クラスタの皆さんその辺どうなんでしょうか)。
しかし、ここで問題になってくるのは
ということだ。
それを読んでいるということは、検索で行き当たった作品を引用しているのではなくpixivのアカウントを取得してログインしそれらを読んでいるということだ。ということは、利用者としてpixiv規約を守る必要があるのではないか。少なくとも、利用しているサービスの規約に反して収集した情報を引用するのは、研究倫理に反するのではないか。
※追記:pixivの規約見たら「本サイト及び関連サイトにアップロードされている投稿作品の情報を、当該著作者(創作者)の同意なくして転載する行為」が禁止なのね。じゃあ、別に引用はしてもいいんじゃん。少なくともこの点で研究倫理がどうこう言うのは不当な非難だと思うので謝罪の上撤回します。
たとえそれが個人的な談話であっても、社会学や文化人類学では引用してよい。「○○村の女性Aさん(45)が私に語って聞かせた結婚生活の愚痴」なんてのも、これらの分野では立派な研究対象だろう。ただしその場合、事前に「私はこの村に社会学や文化人類学の調査で来ているので、皆さんの発言を研究に使います」と断る必要がある(増田にはフィールドワークの経験はないので、実際にどんなふうに許可を取るのかは知らない)。たとえそのような許可を取って滞在している村の住人の発言であっても、「これは絶対に論文に載せないでね」と言われたのに論文で引用したら、そらアウトだろうと思う。
だいいち仮に許可を取ってのことだとしても、社会学や文化人類学の研究なら普通は発言者をボカす。社会運動の指導者とかでもない限り、現代社会に生きる無名人の名前をそのまま載せるなんてありえない。ふつうは、AさんBさんとか、長門さん(仮名)と陸奥さん(仮名)みたいに処理した上で引用するの。
仮にそれが著名人であったとしても、使っちゃいけない、使うべきでない類の資料というのもある。たとえばちょっと前に、毎年ノーベル賞獲れなかったと騒ぎになる某作家さんの高校時代の図書館での貸し出し記録を調べてドヤ顔で記事にしてた新聞があったけど、と、図書館の自由に関する宣言~~~~~ってなりますよね(実際日本図書館協会は激おこだった)。
これが歴史学だとまた話が違ってくるというか、たとえば、百年前の新聞の投書欄を分析して当時の世情を研究するみたいな研究は割とある。その投書欄に書いているのは農民だとか小役人だとか、まあ市井の人々なわけだけど、投書欄に実名を載せているなら実名ごと引用され分析される(ていうかふつう実名をそのまま引用することはないけど、「○○という人物は次のように言っている」と地の文で書かれるとか、注釈で書誌情報の一部として実名が記されるとかはよくあること)。
ただし、これは「百年前の」「新聞への投書」だから許される話だ。書いた本人はたいてい死んでるし、遺族がいたとしてもたいして不利益はない。これがたとえば、公開を意図せずに書かれたお役所の文書だったらどうだろう(近代史でメインに使う史料というのはたいていこれだ)。もちろん、単に「○○という市民が食糧配給が少なすぎると文句を言ってきた」程度の内容なら実名を出してもいいだろうと思う。でも、それが故人の名誉を傷つける内容だったら? 徴兵された普通の人々がどのようにして戦争犯罪に加担していくか、という研究で、某中二病患者に人気の国の国防軍関係の史料が引用された時には、登場人物の多くがイニシャルだった。
インターネットにおけるレイシズム、みたいな研究で、twitterの膨大な投稿を分析し発言者を特定しない形で差別発言の例を挙げることは許されているけど、それが実際のアカウントと紐付けられる形で提示されたら、やっぱまずいんじゃないの。研究対象が著名人であるとかなら別だけど(twitterで右寄りの発言ばっかりしてるラノベ作家がいたとしたら、その人の思想を研究する上でそういうツイートを参考資料として引っ張ってくるのはまあアリだとは思う)、研究というのは告発のためのルポルタージュでも責任追及のための裁判でもないのだから(レイシズムに無批判であるべきだ、という意味ではないので念のため)。
それを考えると、やっぱりあそこで個々の作者さんの名前を出す正当性は全然ない。出典の明示にしても、「○○というサイトで××年~××年にかけて上位20位に入った計△△作品を分析しました」でじゅうぶん。その上で個々の発言者が特定されない形で「バナナ」という語の使われ方を存分に研究すればよかった。
=何が言いたいかというと、確かにあの論文は研究倫理に反するけど、それは同人小説を研究対象として引用することがいけないからではないので、批判する側も適切な論拠を選んだ方がいいですよ、というお話でした。
何でこんなもんを載せたんだ、査読してないのか、という意見もあるけど、してないか名前だけのザル査読なんじゃないかなあ。これ、フルペーパーではなくて学会発表のプロシーディングでしょ? 情報系は知らんけど、人文系だと学会発表で査読しないところもまだまだ多いですよ(内容が酷ければ質疑応答でボコボコにするか論文投稿時に査読で落とせばいい話なので口頭発表時点で査読が無いことは別に悪いとは思わない)。まあ、PDFとして載せちゃった以上は責任問われるのも仕方ないと思うけどね。最低限そこは査読なかったとしても編集委員会の判断とかで弾こうぜ。
あとこれ多分M1の学生の研究に助教と准教授が名を連ねてるだけだとは思うのだが、まあ共著者として名前連ねてる以上は責任を負うってことなんだろうし、実際M1の学生が袋叩きになるよりも准教授が叩かれる方がマトモだとは思うので、うん。
社会調査するならこれ読んどけ! 的なものとしてマサキチトセさんの翻訳が拡散されてる。
http://ja.gimmeaqueereye.org/entry/1758
マサキチトセさんの訳は丁寧だし、社会調査しようと思うなら必要だと思うけど、これこの件に関係ないよね? ごっちゃにしてない?
いちおう言っておくと、
ってこれ全部別の話だからね。
正直、腐女子が研究者や研究者コミュニティに不信を持つのは当然だと思うし、それは腐女子を面白いオモチャとしか見てこなかった研究者サイドの自業自得なので、「法的に問題がないことはわかったけど、あいつらのやっていることは信用できない」と思うのは無理ないです。その感情を否定したいわけじゃない。ただその感情の根拠としてぼくのかんがえたちょさくけんほうとかわたしのかんがえたけんきゅうりんりとかを振りかざさないでほしいだけ。正しい認識の上に立ったところで研究者に対する信頼が急に生まれるなんてことあるわけないんだし。
研究で「引用」というと文献リストに載せるやつなので,今回の件では研究用語的には「引用」では無いんじゃないかなあ。法的には分からない。pdfは全発表のを出してるんだから,いちいち弾いてらんないでしょ。
文系では文献リストは必ずしも必須ではないのよね(この辺、理系からすると何それかもしれないけど)。たとえば文献情報を全部脚注で書いちゃうやつだと文献リストはなくてもいい(だって書誌情報、つまり引用元の出典は脚注で示しているんだから論文の最後にリストとして挙げる必要はないでしょう? もちろん脚注にきちんと文献情報載せない場合は文献リストが必要ですよ)。あと、参考文献リストにない文献を引用するときに注で補ってもいい。
これ日本だけのローカルルールじゃなくて英語圏でもあるからね。たとえばNationalism and Ethnic Politicsなんかはこの方式のはず。
いちいち弾いてらんない、ってのは、せやな。こんな発表が許されるなんて学会の研究倫理はおかしい! とか騒いでる人もいて頭が痛いよね。アホか。
こうして燃えてる時点で侵襲性があるということになるのでは。「衆目に晒された→恥ずかしい→公開をやめる」が「過剰反応」だとしてもそのせいで研究対象は消えてしまったわけで。
ここで言ってる「侵襲性」ってのは、研究発表以降の話じゃなくて研究をする段階の話です。つまりデータを採る段階。
お医者さんだったら、患者さんを診察室に呼びつけて、服を脱がせて、相手が医者じゃなければ屈辱的な姿勢(ケツの穴を見せるとかね)をとらせたりして病気を診察して、それで病気や怪我のデータを採るわけですよね。社会学だったら、時間を割いてアンケートに答えてもらったり、面談してもらったりする。文化人類学なら、調査地に住み込んで、同じメシを食って家族の会話に割り込みながら相手の文化を学んでいく。そういう研究手法が、侵襲性のある、侵襲性の高い研究だってことです。
こういう研究をするときには調査される側の同意が必要だし、データをどこまで公開していいか決める権限は調査される側が持っている、というのが、あちこちで訳知り顔で語られている社会調査の鉄則です。
でも、文献調査はそうじゃない。いったん公開してしまった情報であれば、それを調べる段階では調査される側=文章を書いた人にとっては基本的に関係のない話。だってそうでしょう? いったん公開された情報については、研究者は、本屋さんで本を買ったり、図書館で雑誌のバックナンバーをあさったり、パソコンの前でマウスをポチポチするだけなんですよ? これにいちいち事前の同意が要るという主張はどう考えてもおかしいわけで。
医学論文でもカルテ調査するなら患者本人には(直接的には)迷惑かからず、それを氏名つけて公表したあとに患者本人に影響出る可能性が出てくるわけで"根本的に違う"というのがよくわからん。
カルテって、出版されたり、数万人の会員がいるSNSにアップロードされたりしてるんですか? 根本的に違うってのはそういうことです。当たり前ですけど、二次創作小説でも「作者が誰にも見せずにしまっているもの」「数人の親しい友人以外には見せていないもの」を引用するには許可が必要だし、無断で引用したら大問題ですよ。
会員制で見たい人だけが見られるようにしてある物を引っ張り出してきても許される、引用や研究ってそんなに万能なんです…?
少なくとも引用は万能です。数人の仲間だけにパスワード教えて見せてたならともかく、捨てアドがあれば誰でも会員になれて、数万人規模の会員がいるところに、会員なら誰でも見られる状態で置いてあるものは、著作権法上公開されたものと考えていいと思います。なのでそれが適正な引用方式に従っていれば引用はオッケー、お国の法律が認めてくれてます。やったね!
(ていうかその理屈だと、お金払わないと読めない学術雑誌に掲載された論文は無断で引用しちゃいけないことになりますけど、それでいいんですかね……? NatureとかCellもウカツに引用できない世の中、やばくね?)
研究はこれから議論されていくところなんじゃないかな。少なくとも昔は、書かれたものというのは「書店や図書館に流通し誰でも読める状態に置かれる」か「私家版としてごく少数の人のあいだで流通するか机の引き出しで死蔵される」の二択だったわけですよ。「数万人の会員がいるサイトで公開されてるけど一般公開はしてません」なんて状況、想像もしてなかったでしょ。この辺は今後頭を悩ますしかない。そういうめんどくさいのが嫌な人は歴史学とか古典文学とか考古学とか関係者が軒並み死んでる学問をやりましょう。
二次創作が研究対象になるなんて前例がなく誰もそんな想定をして書いてない。これは前例がないことだということを頭に入れていきなり研究の場に引き釣り出されて心の準備が追い付かない人の気持ちも憂慮してほしい。
前例はあります。
今手元にないんで間違ってたら申し訳ないんですが、2004年に男性向け作品での美少女表象を研究した本が二見書房から出ていて、バッチリ同人誌も引用されてたような。手元に確実にあるやつで確認すると、2009年に創刊されたコンテンツ研究系の学術誌に載ってる尾道の聖地巡礼史を論じた研究では、聖地巡礼同人誌が引用されてます。探せば同人誌を引用した研究はもっと出てくるんじゃないかな。コンテンツ研究だと痛絵馬の分析とかもやってるし、そこまでおかしな事態じゃないです。この辺の学術動向知ってれば「前例がない」なんて発想こそ出てこないですよ。何を今更。
まあ、素人さんがそういう学術動向知っとけ、って無茶ですよね。でも、これでわかったと思うけど、学術って開かれているけれど閉じられた世界なんです。興味のないことには誰も目を向けない。同人誌も同じです。女性向けの島中に置かれてるマイナーCPの薄い本なんて、理屈の上ではコミケ来場者全員に買う機会があるけど実際に買うのはごくごく一握りでしょ? はっきり言って今回の論文だって似たような位置づけなわけですよ。知らない場に引きずり出されて不愉快に思うのはよくわかるし、同情もしますけど。
あとこれ言うと揚げ足取りになっちゃうんであまり言いたくないんですけど、『アララギ』とか『白樺』だって同人誌だし(ていうかあっちが元祖)、そういう意味での同人誌ってたくさん研究で参照されてるし、CiNiiで「同人誌」で検索かけたら戦時中の誰も読んでないようなマイナー文芸同人誌を詳しく紹介するみたいな論文がヒットするわけですよ。同人作品だから引用しちゃいけないとか研究の場に引きずり出してはいけないって言われても、それどこの星のルール? っていう感じがします。明治文学研究とかルール違反の百貨店や~。
これ発表してから2ヶ月近く経って、いろいろ考えましたが、やっぱり私は研究倫理には反してないと思いますね。人に不愉快な思いをさせることがすべての局面において研究倫理に反するわけではないし、やっぱり引用の権利は厳然としてあるので、そこを突っぱねるのは筋悪かな、と。
『ズートピア』はオーウェルの小説『動物農場』のディズニー流のアップデートである。舞台こそ農場という本来動物がいるであろう場所から都市、街に移されて、動物たちの文明化もはるかに進んでいる。また、田舎と都会という多層的な背景を採用し、人間社会の複雑さがさらに反映され、戯画化されている。戯画化で思い出したが、古くから動物を擬人化させて描かれた物語は数多くあり、日本でも代表的なのはその名の通り、『鳥獣戯画』であろう。その中でも『動物農場』がモチーフとされていると断定できるのは、こと権力の逆転が物語の節目として描かれているところだ。さらに、『動物農場』の結末が、「動物主義」という思想を掲げながら搾取的な社会構造が生み出されたのは、人間とほとんど見分けがつかない"2本足で立って歩く豚"であることを考えると、もはや『ズートピア』は『動物農場』の続編的な作品ではないのかと思えるほどだ。
しかし、私が主に取り上げたいのは『ズートピア』と『動物農場』の相違そのものではない。『動物農場』のアップデートであるなら、そもそも『動物農場』という作品が生み出された背景がそうであったように、『ズートピア』もまた同様に"子供向け"に戯画化されたものではない、ということだ。つまり、ある一定のディズニー並びにハリウッド作品を観る際にどうしても想起してしまう"勧善懲悪"とも呼ばれる単純な力関係に留まる作品として論じてしまうのは、この作品が描いている(我々が住む"先進国"社会に酷似した)社会形態のを、グロテスクなものとして描いているという事実を見落としてしまう、ということだ。
「グロテスク」が具体的にどういう性質を指してるかは後に詳しく取り上げるとして、まずは『動物農場』との相似を洗い出そう。『動物農場』では既存の権力の持ち主である人間を打倒しようと農場内の長老である豚が呼びかけた後、その長老と同じ種である豚が主導となり人間の打倒と、権力の奪取を果たす。権力の逆転が描かれた後、そこからさらにその権力が腐敗し、かつての権力の持ち主と酷似していく様を描いている。『ズートピア』でも同様に、権力の持ち主である肉食獣を追放し、草食獣が権力を得る。しかし、その後の社会様相の腐敗として描かれるのは、『動物農場』のそれとは違うものである。この肉食獣が追放される背景は、砂川秀樹が「男色は近代社会化以前には受容されていた」という言説に対する反論として、近代社会以前から否定的に捉える見方があったことを挙げ、それが近代化社会以降にゲイに対する「病理フレーム」が形成されたことの背景にあるという指摘していたケースと酷似している。すなわち、ズートピアという街にあてはめるなら、冒頭の子ども劇において近代化・文明化というものを"進んだもの"とする言説が背景にあるからこそ、その言説が暗に導き出す"野生"というスティグマが、肉食獣という属性に表象として充てられた、というわけだ。草食獣であり小動物であるジュデイが警察官を、肉食獣の子どもが税の査察官を目指すということを、それぞれの属性と"相反するもの"への志向(だからこそ"自由"や"可能性"の提示となる)として挙げられていること自体に、すでにこの世界を形成する言説の中に、後に肉食獣が「病理フレーム」の中に収められることを暗示している。
『ズートピア』と『動物農場』でそれぞれ権力の腐敗の在り方が違うのは、『ズートピア』が主題として据えているのは、差別が未だ存在する社会においての振る舞いであり、また、そうした社会と対峙することの難しさであるからだ。だが一方で『動物農場』と共通しているのは、たとえ既存の社会構造の不当な点を糾弾したものであったとしても、新たに権力に座する者が、特定の属性を以てして社会的地位を不当に貶めたり、あるいはその逆に持ちあげたりすること。つまり、権力の立場にあるものが、いち個体が否応なしに複合的にまとうあらゆる属性の中から任意の属性を持ち出したり、あるいは見出したりして、それを根拠に権力側の良いように用いることそのものが社会の腐敗を招く、と指摘している点にある。こうしたケースは今日の"先進国"社会においても行われている。そのあらゆるケースの中でも、創業者であるウォルト・ディズニーが、かつて「赤狩り」と呼ばれたハリウッドにおける排除運動に加担していたという記憶を持つディズニーにとっては、なおのこと無縁ではないだろう。なぜなら、その赤狩りこそ、『動物農場』が受容されたのと同じ背景の中で起きた現象なのだから。つまり、『動物農場』が、"反スターリニズム、反ソ連"として受容された時代のイデオロギーの中に回収された結果招いた、「赤狩り」という別の形での全体主義化を経た後の問題提起をする為、違った様相の社会の変化を描く必要があったのだ。では、その必要とはいったいどういう形のものなのか。
まず、そもそもの『ズートピア』(原題も"Zootopia")というタイトルから振り返ってみたい。誰もがその語感から、動物園("Zoo")とユートピア("Utopia")を連想するこのタイトルと、それが充てられた都市の姿や本編内で取り上げられている問題とを照らし合わせると、この名前が一種のミスリードを引き起こそうとしていることは誰の目にも明らかだろう。しかし、このユートピアに対するミスリードを行おう、という意図が製作者側にあることを考えると、一方でユートピア思想そのものを全く信じていないであろう、という可能性が高いものとして浮かび上がってくる。つまり、この作品世界はそもそも、主人公にとっての、あるいはそれに感情移入するであろう観客が考える様なユートピアを描こうという意図の下では成り立っていない、と考えることも決してできなくはない。では、それなら反対にディストピアを描こうとしていた、とするのもまた違うだろう。それこそオーウェルが『動物農場』の後に出したディストピア小説『1984年』で問題としているような、監視カメラシステムを駆使した管理社会は決してネガティヴなものとしては描かれていないし、作中で市長と並び権力の象徴として現れる警察だって、最後にはジュディに味方する。ズートピアに張り巡らされている権力構造が、一様に悪しきものに還元されるものとして描かれていないところを見ると、『映画クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲』において大人たちが夢中になる昭和の街並みのように、ユートピアを模したディストピアを描いている、とするのものまた違う。では何を志向していたかといえば、ただひたすら身も蓋も無く、我々"先進国"における社会の現在の姿を炙り出すことにこそ本作の力点がおかれていたのではないだろうか。
オーウェルが『動物農場』で描いたようにユートピアへの志向がある種のディストピアを生み出し、また『1984年』でディストピアは一方で誰かにとってのユートピアであることを描いてきたこと、さらに言えば今までのディズニー作品やハリウッド作品が数多く生み出してきた作品へ寄せられた批判を鑑みれば、主人公ないし観客のユートピアを描くことで何かの可能性を見出そうとする、虚構の作家なら誰もが夢見る境地との決別こそが、今のディズニーが走っている地点ではないか、とすら思える。だとするなら、管理化・全体化社会の兆しとして表象される監視カメラとの関係、後半で肉食獣と草食獣とが分断されてしまったと言われる前から存在する、小動物と大型動物との"棲み分け"をあからさまに感じる都市デザイン(マジョリティとマイノリティの形成はマクロでいうところの都市デザイン、ミクロでいうところの建築様式という、物理的な段階からすでに反映されている)、朝礼時には着席を強要しながら、大型動物に合わせて設計されてるが為に、ジュディが座ると署長の顔すら見えないサイズ感の机とイスが、ジュディが"認められた"後も変更は行われず、それどころかジュディとニックに同じイスを共有させること(1人分の席に2人が座らされているのである)や、かつてジュディに偏見としかいいようがない対応をしてきたことに対して何も悪びれもしなければ、むしろジュディに対して冗談を飛ばすほどの親密さを示してみせる警察署長の態度、そして何より権力に対して何も批判的な態度を持てそうにない警察という組織が持つホモソーシャルな性格をあけすけもなく描いているのは、それらに対して作品内で明確な批判が行われないということの薄気味悪さも含めて呈示しているのではないか。
だとするなら、本作が「子供向け」であるが為に、権力に対して批判的な態度を伴っていない、とするのは、少々早計ではないだろうか。確かに、ディズニーは子どもを含めた幅広い年齢層の支持によって成り立っている。しかし、その中には子供と呼ばれる低い年齢層の観客もいれば、それこそ子供の頃からディズニーに触れ続けた高齢の観客だっている。そうした状況の中で、こと任意の年齢層の観客だけ取り出し、それにのみフォーカスをあてようとするのは、作品がもつ性質を見誤ることに繋がるおそれがある。「子ども向け作品だからしょうがない」とするのは、すでに子供の在り方を規定づけるものでしかないのみでなく、未だ巨大資本によって子供たちが社会へ"馴致"されるべきだとすることへの別の形での肯定にも繋がる。しかし一方で、ディズニーが「子供向け作品」の地位に就いていることも、決して無視していいものではない。ならば、なぜディズニーはずっと「子供向け作品」であり続けたかを問わねばなるまい。結論から述べれば、それは「グロテスク」だからである。
これまで述べた「グロテスク」の定義は、マサキチトセが自身の論考のタイトルに用いた『排除と忘却に支えられたグロテスクな世間体政治としての米国主流「LGBT運動」と同性婚推進運動の欺瞞』 http://ja.gimmeaqueereye.org/entry/23399 に依っているところが少なからずある。しかし、ここで取り上げたい「グロテスク」については、美術的観点からのものである。どういうことかというと、ディズニーがアニメ製作者としての名前を不動のものにしてからずっと追及してきたのは、デザインと動きの"かわいさ"である。"かわいい"とされるものは、その多くが直線的なイメージではなく、曲線的なイメージによって、硬質なものではなく、柔軟なイメージによって構成される。これらの美学の根本を辿れば、動物や植物をあしらった、古代ローマの美術様式の一つである、グロテスク様式に辿り着く。ツイッター上で「モフモフ」と公式アカウントで形容された『ズートピア』を形成する美的様式は、根本からして「グロテスク」なものなのだ。この2つの「グロテスク」がピタリと重なり合うのは言うまでもなく、主人公ジュディの造形や仕草であり、冒頭に警察を夢見る彼女に暴行を働いたキツネ、ギデオンがウサギが(警察官を目指すに値しない)弱者たる徴として挙げた「鼻をヒクヒク」させる動きが、権力関係が決定的に転覆される場面の直前に配置されていることからもわかる。
「かわいい」は弱者の徴である。それ故に、その「かわいい」を極めたディズニーは、今日のアメリカを象徴し、公的な権力からも寵愛を受ける地位を築き上げた。つまり、『ズートピア』は、その地位を利用しつつ、現在のアメリカをはじめとする先進諸国の社会形態の描く"多様性"の脆さと「グロテスク」さを描くことと、またそのヒントや問題は、明白に誰かに取り上げられているわけでなくとも、世界のいたるところにある、この2つを描くことを目論んでいたのではないだろうか。その一例として、コロンビアの女性シンガーであるシャキーラ演じるポップスター・ガゼルのモデルとなっている動物であるブラックバックは、オスにしか角が生えていないこと。つまり、ガゼルはトランスジェンダーのポップスターであるということが、作品内で明確に言及こそほとんどされていないが造形として現れていることから見ても、決して拭い去れるものではないと私は思う。