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はてなキーワード: ビジネス社会とは

2023-01-25

anond:20230125110424

戦後復興期、焼け野原になった町のあちこちで植樹してたから、

根回しという概念自体一般庶民の知るところとなった。

ちょうどその時期に幼少期を過ごし、大人になってビジネス社会活躍するようになるのが昭和40年代。

なんて妄想しちゃった。

2021-08-10

anond:20210810185540

経営学部卒って要するにガクモンとか専門分野とか細けーことは言わずビジネス社会文化ビッチリ適合する気満々ですよというシグナリング意味しかないだろうなあ。(そのシグナリング重要仕事は沢山ある)

2021-02-04

なんで女は男が作ったビジネス社会に割り込んでくるの?

ビジネスは男が作って男のルールで動かしてたのに、なんで女が割り込んでくるの?

女も働きたいんだったら女なりのビジネス社会を作ってそこで働けばいいじゃん?

女がやりたいようにルール作って会社作ってそこで頑張ればいいじゃん?

2020-12-30

トップエンジニアとの対談

トップエンジニアコミュニティについて話をした。

結論から言うとコミュニティをやってる奴らはダメ

特に技術ビジネスを結びつける部分においては最悪。

彼らには自分たちを売り込むことはしても

自分達が影響を及ぼすであろう市場には全く興味を持ってない。

ここが日本独特であり

技術ビジネス社会において地位を築けない所である

2019-12-15

女性社会進出女性給料をあげよう、女性管理職になろう、女性起業しよう←全然良いと思う

しろ応援したいとも思う。それ単体で言うならば

なぜこういう言葉を聞くたびにびみょ〜な気分になるかというと、セットで男性への批判が行われているからだ

批判されて、応援したいと思うだろうか?そりゃ綺麗事応援してるふりは出来るけど、素直に応援したいとは思えない

ビジネス社会で日々頑張っている男性は素晴らしい、でもこれからはそんな男性を追い越す勢いで女性経済的社会に貢献したいか理解してほしい協力してほしいと言えば、それで良いのに

何か自身に嫌なことがあって反発的に主張せざるを得ないのかもしれないけど、それは逆効果

男は自尊心が高いので、そこをくすぐったほうがいい

敵にするんじゃなくて味方にするという戦略を取るべき

2018-08-04

anond:20180804104528

バリバリ働くやつには、サポートできる小回りの効いてプライドも高くない配偶者が適切。端的にいうと「優しいお人好し」。頭が悪くても。

ただし、確かにビジネス社会では頭の悪い優しいお人好しというのは生きづらい。ボソボソいいながら売上が上がらないと怒鳴られる営業職みたいなイメージ

けど、なんかただの低収入者では、それこそパチンコガチャゲーにハマって自分を律せないとか、体力に任せて暴力相手を屈服させるようなのとか、

謝ったら負けちゃう病のやつも多い。

なんつーか、「優しいお人好し」と高収入バリバリ女がうまくマッチングできればいいのだがねぇ、、、どうすればいいんだろうね。

2018-06-01

anond:20180531122951

共感してあげられるのが女性長所じゃなかったかい?

旦那を亡くしたシンママには共感できるが、奥さんを亡くしたシンパパはキモいんだね。

いろんな考え方をする女性がいると思うけど、無理して男社会に入ってきてくれなくてもいいんだよ。

女性女性価値観立脚したビジネス社会を男社会とは別に作って繁栄していけばいいと思うよ。

資本がない?

ありがとうポイント仮想通貨にでもしたら結構いけるんじゃね?

2017-12-23

はあちゅうは岸と同罪。バズフィードは重罪。

純粋仕事がらみの人間関係だと思っていた上司や部下、同僚や取引先に、とつぜん性的な接触をされたら、男女にかかわらずショックを受けるだろう。仮に性的要素がなく、単に好意を示されただけでも、違和感を感じるのが普通だ。された方が「気持ち悪い」「そういうつもりじゃなかったのに」と思うのも無理はない。

もしもそう感じた人がいるならハラスメント、という原則でいえば、それをセクハラと感じる人すらいるだろう。「被害者」の彼ら彼女らには、本当に同情する。#MeTooで本当に救われるべきは、そういう人たちだ。

まあ「加害者」側だって、単に好意が抑えきれずに溢れてしまっただけなのに(もしかするとそれで相手好意を引き出せるかもしれないのに)、それはやってはいけないのが現代ビジネス社会というものだ。

かに世知辛い・・・

しかしだ。それは「被害」を訴える側が、純粋仕事関係相手だと思っていた場合の話だ。もしも一方、例えば女性が、

「気にいってもらえたら、早く希望場所にいけるかもしれないという思いがありました」

という意図男性に近づき、その反応として性的な接触があった場合には、先述したセクハラ容疑と同様に扱えるだろうか。

同様に扱えるわけがない・・・

警察に行ったって「あんた、それは自業自得じゃないの?」と言われるのがオチだ。それが適切かどうかはともかく、ホンモノの極悪犯罪を数多く見ている人からすれば、そのあたりが「相場」というものだ。そもそも加害者といわれる岸氏による、

「俺に気に入られる絶好のチャンスなのに体も使えないわけ?」

という発言は、

「気にいってもらえたら、早く希望場所にいけるかもしれない」

というはあちゅうの思いに、完全に呼応しているではないか

岸氏は、これが若い独身女性という属性を利用した「色仕掛けである認識していたかもしれないし、認識していなかったかもしれない。

しかし、はあちゅうのやったことは、実質的に「色仕掛け」なのである

岸氏の言葉を取り出し、文脈から切り離してしまえば、読者は冒頭で示したようなショックを受けるのが自然だ。ところが、実際に岸氏がはあちゅうにそう言った「文脈」は、そんな純粋仕事関係ではなかったのではないか

電通女性同僚で声を挙げた人が少ない理由は、「図々しく色仕掛けに勤しんで返り討ちに遭ったあいつと、私は一緒にされたくない」と思っていたからではないだろうか。そして、被害を声高に叫ぶはあちゅうから、『「自分」を仕事にする生き方』とか、“そんな「自分」を無駄なく有効活用して、楽しく生きていくための方法”とか言われても、冷ややかに見る人が多いのではないか

ただ、個人的には、いちばん罪が重いのはバズフィードの2人だと思う。私がデスクなら、この構造を見逃すことはなかっただろう。彼らが功名心薄っぺら正義感(あえてこう言おう)だけで暴走たから、#MeToo冷水を浴びせられてしまった。否定する前に、いちど反省してみるがいい。

なんたる損失・・・

原因は、岸氏とはあちゅう無意識に共有していた、ある「制度」を彼らが見逃していたかである。本当は、その「制度自体にメスを入れなければならなかった。しかし、それをやるためには、岸氏のみならず、告発であるはあちゅうもが抱えていた、どす黒い人間欲望の闇に直面する必要がある。

無邪気な彼らには、無理だったのだろうが・・・

2017-05-29

大学の授業が薄っぺらすぎる

東大とかみたいにレベル高いところに通っているわけではないし、言ってしまうとMERCH以下の偏差値しか無い大学に居るので「お前が馬鹿からそう思うだけ」と言われたら説得力のある返しができないのだけれど、それでも大学の授業が薄っぺらいと主張したい。

今年で大学生活も3年目に入り、順当に行けば後期には単位の取得が完了するペースなのだが、得たものが一切ないといえるほど大学での授業内容が頭に残っていないのだ。

単位取得はしているけれど成績という観点から見ればC評価が多く、ギリギリ赤点を避けている現状なので授業内容が頭に入ってないんだろうとも考えられる。

けれども単位取得の肝を担っている学期末テストの内容が『授業中に再生した動画言及した企業マーケティング戦略は何だったか?』というのはひどすぎるのではないだろうか。

自慢ではないがマーケティングについては当大学内で比較した場合に限るけれど、ある程度の知識を私は持っていると自負しているが、流石に特定企業が行っていたマーケティング戦略なんて動画を見ていなかった私に解けるわけがない。

せめて、商品販売個数を計測する戦略とか書いてくれれば何となく当たりをつけることは出来るが一切とっかかりになる情報がないので授業出席者しか解けないのだ。

授業に出席しないものは、いかなる知識保有していようとも単位は上げませんと言っているようなものである

そもそもの話私が大学に行かないのは、授業時間90分のうち、教授雑談が半分以上を超えていてどのタイミングで本旨に触れるかわからいかである

教授ゼミ生と一緒に福岡に行った時に食べた食事がとても美味しかった話など、至極どうでもいいのでとっとと必要な話をして終わらせてほしいというのはおそらく講堂にいる生徒全員が等しく思っていることだろう。

適当面白みのない授業を展開する教授ばかりではないのはだが、どちらが多いかと言われれば上記のようなゴミ教授ばかりである

こうやって教授批判するかの言葉を連ねると「彼らは有名大学を出ていて高知能、その話を楽しめないキミは低知能」とマウントを取られる。

しか東大を出ているとか、有名大学の院を出ているとか私からすればどうでもよいことなのだ。授業がつまらないという事実は私の中で変わることはないのだから

やっていることは市販されている本(自著であることが多い)を朗読しているだけで、自宅で必要な部分は覚えられる。そんな「教授いる?」と感じるような講義内容でどこに「教授は頭いいなぁ」と感じる要素があるのか。私が異端なだけで世の中の人資格肩書だけで知能を判断する、判断基準が外部にしかない人ばかりなのだろうか。

つまるところ大学というのは教育ビジネスであり、肩書を得られるのを対価に金を払って、脳死しながら授業を消化し続ける場所なのだ

私が声を大にして言いたいのは「大多数の人間にとって大学は一切必要ない」ということ。

企業大卒要求していて、大卒給料が高いかしょうがないので大学に行って卒業しようと考えているだけで、そこで何を学べるかはどうでもいいのだ。

しかし私はそこまで割り切ることができず、大学を学ぶ場所と考えてしまったいたからこうして不満が爆発しているのだと思う。

私は運がいいことに文系大学に進学しているが、小さい頃にパソコン祖父から貰い、そして2つ上のいとこがネット関係に非常に強かったため影響を受けIT関係に強くなった。

そして大学ではこれまた運がいいことにビジネス精通した人間たちと仲が良くなり、今後の希望を得た。

情報量を多くする気はないのでこれを読んだ奇特な人は「騙された人間」と私を罵るかもしれないが、それはどうでもいいことだろう。

私の周りは大学に通うことを強く勧めたが、結局それは私に合わず、彼らに合わなければ日々鬱屈とした思いを抱えながら、ただ授業を消化する人生を歩んでいた。

アドバイスに従った結果、得られたのは大学と私が合っていなかったという知見だけである

このことからアドバイスと称して意見をぶつける人間は、個人を見ていない」というのが判明する。

彼ら助言をする人間最大公約数的な、大体の人間にとってベストではないがベター程度にはなるはずという意見をぶつけることで自身人生正当化をしつつ、悦に入ってるだけなのだ

確かに最終的に選択をしたのは私であるが、どれだけの人間が周りの人全てが自分と反対の意見を述べている中、自分の考えを押し通すことが出来るのか。

私は大学生になり人に恵まれたおかげで、本当の考えを通せたのであって、高校生の頃であれば貫くことはできないだろう。

結局、大学の授業が薄っぺらいというのはこの「多様性を認めず一般論を勧める人間」が大学への進学を勧めているかなのだ

から教育という存在はまるで利権を貪る団体のように怠惰でありながら肥大してしまった。

大学というのはそもそも専門性の高い話を学び、その専門的技術社会のために使うのを目的とした教育機関だ。

特に能のない私のような人間大学に行ったところで卒業したという事実を抱えて企業に入り、一切学んだことを使わないで終わるのが関の山である

学歴社会は確かにフィルターとして有効な部分もあるが、その企業学歴フィルターをかけているのが世間にバレればまるで現在検索エンジンがハックされるようにそこに向けて最適化されてしまう。

まり大学進学するものは優秀で専門性の高い人間から採用するというのが前提にあって学歴フィルター機能していたのに、そこがハックされてしまったがためにバツグンな効果を発揮するとはならなくなった。

ハックされていない採用基準意図した人材を取得できるため優秀であるが、認知されてしまえばそこに注力できる人間採用する弱い基準となってしまう。意図しない人材を確保することになる。

起業家の話を聞いてみると「東大生のほうが統計的に話がわかる」と語る。

まり学歴フィルター大卒区別するのでなく、東大生などの超難関校とそれ以外で区別するようにしたほうが建設的だ。(給料も含め)

そうすれば無駄大学に通う人間も減るし、ビジネス大学も少なくなる。大卒枠を争って貧困に悩む人間も減る。

私が問題提起したいのは以下の2点。

・何も考えずに一般論で「大学はいったほうが良いよ」と個人を見ずに語るやつは口を閉じよう

企業大卒学歴フィルタリングしても効果が薄いので、給料から難関大学基準はMERCHかそれ以上?ここはわからない)とそれ以外で分けるべき。もしくは意図した人材採用できてかつハックされていない新しい採用基準を見つける。

こうして大学が少数精鋭になれば教育者も生き残りをかけて力を尽くし、怠惰で肥えた教授も減ることだろう。

私はとにかく薄っぺらくて意味のない授業が大学から消滅してほしいので、教育機関こそ激戦のビジネス社会のように苦しみながら競争して欲しいと思っている。

確かに科学の力というのは重要だとは思うが、現在私の身の回り生活に欠かせないと思うものを作っているのは企業であり大学で教鞭をとる人ではない。私が知らないだけで企業にその教授も協力しているのかもしれないが、それなら大学ではなく企業研究させてもらえばいい。

まり「安定してるー」とアホ面下げて年に数回、偉そうにゴミみたいな本を書きながら教壇に立つ輩は荒波にも稀ながら淀んだ精神を磨き上げるべきだということ。

そもそも大学はいま腐るほどあるわけだけれど、その全てが科学において必要ではないだろう。それならばなおのこと競争化させて精鋭化させなければいけない、なぜ「研究」という話になった途端嫌儲精神が発作的にでてくるのか。

何度も書いている気がするけれど、その大学競争化をする上で最も邪魔なのは一般論を振りかざして大学に行かせようとする無能な働き者と大卒フィルタリングする企業だ。

個人を見ないで、自分人生訓を元にとりあえず精神アドバイスするやつは総じて糞だし、対してその人を案じているわけではない。

こうした一般論で武装した人間に対して、正論に感じようが自分感性と考えを元に対抗できるように成長することが、幸福につながるだろうしひいてはこの薄っぺら大学の授業の減少につながる。


以上が大学の授業が薄っぺらいと感じたことから私が考えたことでした。

2016-03-08

子育て自己責任について

とある雨の夜、保育園からの帰り道。

1歳の娘をバギーに乗せ、3歳の娘の手をとりながら、私は横断歩道の前で待っていた。

住宅地にあるバス通り、それなりに交通量は多いが、信号機はない。

朝の通学時間帯には、地域の父母が旗を持って立ち、子どもたちの通学の安全を守っている。

結局、スピードを落とすことなく走り去る自家用車タクシーを十数台ほど見送った後、やってきたバス横断歩道の手前に停車してくれた。

3歳の娘は危なっかしく傘を肩に預けながらも笑顔バス運転手に手を振り、私は軽く会釈をしながら横断歩道をようやく渡り終えた。

自宅への道を急ぎながら、娘は「みんな、なかなか止まってくれないよね」と、ぽつりと呟いた。

つくづく、この国で子どもを産み育てていくのは大変なことだと思う。

まず、十分な金銭的体力が必要だ。

出産費用にはじまり医療費教育費はもちろん重くのしかかる。

家族が増えれば住居の広さも必要になり、自炊するにも食材が増えた分だけ、食費の増加は避けられない。

年に一度くらいは遠方の祖父母に子どもと会う機会をつくろうと思えば、交通費もかなりのものだ。

子どもを育てるコスト負担しつつ、自分たちの老後に備える必要もある。

私たち夫婦は貯蓄も保険も、ずいぶんと積立額を増やした。

問題は、その原資となる収入だが、今や雇用の安定など私たち20代や30代には望むべくもない。

成熟し、縮小していく社会において、高度成長期のような右肩あがりの成長に伴う給与上昇は考えられない。

となれば、椅子取りゲーム競争に勝ち、立場給与を力づくで手に入れるしかない。

勝利しなければ、生き残らなければ給与の上昇を見込めないどころか、今の仕事すら失うかもしれない。

それも競争社会における自己責任なのだから仕方がない。

そしてその競争に参加するには、子ども存在は重たい足かせになる。

家に帰って子どもの世話をするために、そして週末には子ども時間を使うために、働く親たちは必死の思いで自らの仕事効率化する。

だがそれでも、突発的なトラブルがあり、夜遅い時間に設定される会議があり、そして就業時間後のコミュニケーションが命運を握る社内政治がある。

子どもを持つ親は、子どものいない同僚たちと対等に競争に参加することは難しい。

この国のビジネス社会は、仕事にすべてを捧げ、集中する覚悟実践要求する。

この競争は、ブラック企業だろうと、優良企業だろうと、実はさほどの違いはない。

では、夫婦の内の片方が仕事に全力を注ぎ、もう片方が子育てを一手に引き受ける分担をすればいいのだろうか。

私たちの親世代一般的だったように、企業戦士専業主婦という分業により、家庭を経営していけばいいだろうか。

答えはノーだ。

なぜなら、私たちの親世代私たちでは直面しているリスクの大きさが違いすぎるからだ。

かつて、日本企業滅私奉公要求するかわりに、少なくとも正社員として働く男性たちの雇用を守ってきた。

のしわ寄せは、結婚によって退職する若い女性社員や、パートタイム労働者が負っていたが、彼らは主たる生計者ではなかったから、それでも「雇用の安定」というお題目は守られていた。

今は違う。

主たる生計者が期間限定雇用に甘んじている状況は珍しくない。

正社員ですら、いつ競争に敗れ、仕事を失うかわからない危機感に常にさらされている。

から私たち共働きを選んだ。

どちらかが仕事を失っても、次の仕事を見つけるまで、家計を支えるためだ。

競争に勝たなければ所得の上昇が望めない社会で、成長し、お金必要とする子どもたちに応えるためだ。

そのためには、母親である私は急いで仕事復帰しなければならなかった。

数が足りない認可園に入れないリスク対処するために、先着順の無認可園を徹底的にあたって予約金も支払った。

秋生まれになるように調整したのは、産休明けにシッターを利用して急いで仕事復帰し、認可保育所選考ポイントを加算するためだ。

11月まれ1月後半からシッター利用で復職、生後半年を待たず0歳で認可保育所入園できれば、私たち夫婦収入でも対処できる。

本当は4月5月頃生まれの方が、0歳入園でもほぼ1歳に近く、子どもとの時間を持つことができるが、それでは約一年仕事を離れることになり、復職ハードルが高すぎる。夏から4月までをシッターで乗り切るのはあまり経済的負担が大きかったので、断念せざるを得なかった。

結局私は2人の娘を産んだが、仕事を離れていた期間は通算で一年に満たない。

そこまでして復職しても、いわゆるマミトラックからは逃れられないが、それも甘受するしかない。

保育園落ちた日本死ね!!!」というブログ話題になったが、ネットで何を叫ぼうと誰も助けてはくれない。

同情の言葉くらいはもらえるかもしれない。数年先には状況が変わるかもしれない。

それでは目の前の子ども、不運にもレールに乗れなかった家庭には手遅れだ。

誰もが自分の生きる場所を守り、しがみつくことに精一杯の世の中で、他者に手を差し伸べる余裕がある者などほとんどいない。

保育園に入れないのも自己責任だと切って捨てられる、それが現実だ。

ちなみに、そこまでして入った保育園も、子どもが体調を崩せば利用できない。

行政提供する病児保育のサービスはあまりに貧弱で、フルタイムで働く私たちには使いこなせる余地がなかったから、いざという時には高額な病児ベビーシッターサービス活用している。

そこまでしてでも、母親正社員という立場を守って働き続けなければ、子どものいる家庭を守ることはできない。

少なくとも私はそう考えている。

母親は一度仕事をやめ、子どもが手を離れる年にまで育ったら、再び仕事を探して働けばいいという識者がいる。

そういう人は、十分な学歴と意欲があり、健康な体を持ち、自分自身以外に面倒を見るべき存在がいない若者ですら、安定した仕事を得ることが難しい社会の現状を知っていて、そんなことを言っているのだろうか。

誰もがいつ仕事を失うかわからない、そして失業した際のセーフティネットがあまりに貧弱なこの国の仕組みを理解していて、言っているのだろうか。

自己責任」という言葉のなんと暴力的なことか。

ひとり、あるいは複数人間新生児から社会人まで育て上げる責任の重さを、親になったからには背負わなければならない。

それも親になるという選択をしたのは自分たちなのだから自己責任範疇である

費用も、機会も、制度をいかに利用して乗り切るかも、すべて親の才覚にかかっている。

それでも、私は自分たち家族が驚くほど細い綱渡りをしていることを自覚している。

もし娘たちや私たち夫婦の誰か1人にでも何か不慮の事故病気があれば、この綱渡りを続けられる保証はない。

ここまでは、物質的な話だ。

子どもを育てるには、物理金銭的に大変な努力必要なのはもはや否定できない。

次に、親になる者が直面するのは、精神的な困難だ。

公共交通機関子どもを乗せるなという論争が、日々至る所で巻き起こっている。

冒頭、娘が呟いたように、横断歩道ゆっくりしか渡れない幼い子どもを連れた親は、道を渡ることすら容易ではない。

私は別に子どもいるか配慮してほしいとは思わない。

必要なしつけはしているつもりだし、公共の場でのふるまい方を教育するのは当然親の務めだと考えている。

それでも、子ども連れでいることで向けられる世間まなざしに、どうしようもなく辛い思いをすることはある。

一人だったらとくに気にすることもなく車の間をぬって渡ってしまえる道も、子どもが一緒だから安全確認するまで辛抱強く待つ。

走り去る車をじっと見つめる娘の澄んだ瞳と、だんだん冷たくなっていく小さな手のひらに、どうしようもない心の痛みを感じながら、私は待つ。

帰省の時期、私たち家族はよく新幹線を利用する。

もちろん、指定席子どもも含めて人数分取っているが、たまたま私たちの近くに乗り合わせたビジネスマン風の男性は、あからさまなため息をつき、はしゃぐ娘たちを見て舌打ちする。

大きな声はださせない、椅子にはきちんと座らせる、そして食べ散らかすような菓子類は与えない。

飲み物はこぼさないようにストローやマグを準備し、それでも万が一に備えてタオルや着替えは常備する。

万全の準備をしているつもりでも、子どもの機嫌が悪くなることがある。

少しでもぐずれば即座に席を立ち、デッキであやす

だが、帰省シーズンともなれば、指定席車両デッキ自由席券の乗客で溢れ返り、苛立つ彼らは泣きじゃくる子どもを抱えて現れた親を睨み付け、ため息をつく。

一体、子を持つ親はどうふるまえばいいのか。

子が公共の場所で泣かず、疲れたわがままを言わないようになるまでは、外になど出るべきではないのか。

この国で、親子で公共の場にでかけることはあまりにも苦しい。

容赦なく投げつけられる批判まなざしを、せめて子どもが直接こうむることがないよう、親は細心の注意を持って配慮し、矢面に立つ。

人の親なのだから、当然のことだ。

だが、そう理解していても、親だって傷つく。

育児仕事を両立し、世間には頭を下げて生きていく。

自分で選んだ生き方なのだから仕方がない、これも自己責任だと言い聞かせ、今日もぐっと奥歯をかみしめる。

仕事を持ち、愛するひとと結ばれ、子どもをもうけて家庭を築き、社会に参加する。

今のところ、私たち家族はそれを実現できている。

本当に幸せなことだ。

川の字に並んで眠る夫と娘たちの寝顔を見る時、私は自分の歩んできた道が間違ってはいなかったことを自覚し、そしてたとえようもないほどの幸福感に満たされるのを感じる。

だが同時に、ひどく不安にもなる。

私はこの先も、この幸せを守り続けていけるのだろうか?

家族健康を守り、仕事を守り、娘たちの未来保障し、自己責任をまっとうできるだろうか?

身の丈に合わない幸せを追い求め、手にしてしまったのではないかと悩むことがある。

本当は、私のようなごくありふれた個人がまっとうできる責任など、自分ひとりが生き抜くくらいのことなのかもしれない。

仕事に集中し、結婚出産もしなければ、私がとるべき自己責任対象は私1人分でよかったはずだ。

(もちろん、親の介護は忘れるわけにはいかないが)

幸せを求めて、家族を築いたのは私のエゴなのかもしれない。

そのエゴの対価を、私ごときに支払い切れるのだろうか。

長くなってしまったし、いささか愚痴っぽくもなってしまった。

ただ、保育園子どもをいれられなかった親が怒り、子ども障害とともに生きる親が絶望してしまうこの世の中で、ありふれているはずの家庭を持つ親が何を考えているのかを伝えたかった。

そして私はこれから子どもを持つかもしれないひとに伝えたい。

今、この国で子どもを持つということは「自己責任」の範囲子ども全員にまで広げるということだ。

そこに伴う困難は、おそらく想像を絶するものがある。

それでも子どもが欲しいなら、産み育てる責任をまっとうしてほしい。

…ありふれた幸せに憧れているだけなら、残念ながらお勧めできない。

この国は総論としては少子化を憂い、子どもを求めている。

だが、各論では真逆であり、子どもを持つことはリスクであり、ペナルティしかない。

私たちは誰もが自分幸せ自由に追求する権利があるが、子どものいる幸せは非常に高価だ。

子どもを持っても、誰も褒めてはくれないし、助けてもくれない。まして見返りなどないし、批判さらされることが増えると覚悟してほしい。

それでも子どもを持つのは、子どものいる幸せがそのリスクペナルティ度外視させ、高価さに見合う以上の精神的な充足をもたらしてくれるからだ。

どうか、人生の大きな決断は慎重にしてほしい。

私は正直、覚悟が甘かったから、今でも時々こんな風に心を痛めたり、迷ってしまう。

まだまだだな、と思うばかりである

2016-02-29

http://anond.hatelabo.jp/20160229073746

港区なんつービジネス社会に過剰適応した人間巣窟みたいなところにいるから悪いのでは。

アメリカに来るといいよ。

 
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