はてなキーワード: ハエとは
僕は弱者男性プログラマーだ。コードを書いて金をもらっている。
そんな僕が、社会学や政治に興味を持つ人が多いこのような場で物申すというのはちょっと変だと思うかもしれない。
実際、社会学なんて僕の専門じゃない。
僕はコンテンツを収集するクローラを書いたり、それを検索できるようにインデクシングしたり、あるいはコンテンツのクリック履歴に基づいておすすめを表示させたりするプログラムを書いている。
このようなプログラムにも、社会的側面というのは存在する。利用者が何らかの目的によってその検索ツールを利用し、調べたいものにたどり着く。コンテンツプロバイダー、ユーザー、システムという3つのアクターの社会が形成されている。
社会学者がコンピュータについて語ることがあるぐらいだから、プログラマーが社会について語ってもいいだろう。
僕が常々思うのは、人々の目的だ。
つまり「この検索ツールを使う人は、一体なにがしたいんだ」「コンテンツを提供する側は何が目的なのか」ってこと。
もっと状況を限定するために、「ブログ検索」というツールについて考えてみよう。君がクエリを投げてブログを調べようと思うのは一体どういうときなのか。あるいはブログを書こうと思う人たちの動機は?
動機は基本的にneedとwantによって分類されると考えて良い。needの場合、例えば確定申告書の書き方について調べていて、適切な情報を知りたいと言ったケースがそうだ。
wantというのは社会的な本能に結びついている場合もあるし、退屈しのぎということもある。承認欲求は基本的に社会的欲求だし、ハッカーが自分の知見を公開するのはちょっとした挑戦だろう。
リーナスの法則というのを聞いたことがあるだろうか。マズローの欲求解創設と似たようなもので、「生存」「社会」「娯楽」という3つが人の行動原理だとリーナス・トーバルズは言っている。
ブログを書くのが「生存」目的という人はどういう人だろうか。きっとそれ以外に職がなく、必死にアフィリエイトで稼ぎを得ている人だろう。
ブログを書くのが「社会的目的」という人は、すごいことをして認められようとか、専門家とつながりたいと考えているかもしれない。
しかし「娯楽目的」というのはもっと崇高なものに思えてくる。ブログの文章を書くのが単純に「楽しい」といった人たちのことだ。
生存、社会、娯楽という3つの階段によって、コンテンツの質というものが判断できるのではないかと、僕はそういう仮設を持っている。
アフィリエイトで生存的目的の発信をしている人たちのコンテンツは、お世辞にも良いとは言えない。クリックベイトであったり、感情を煽ったり、SEOをクラックしたり、初心者的だったりする。
社会的目的の人たちはもう少しマシで、認められようとして努力をする姿勢がある。でも、「たくさんの人と繋がりたい」という目的の場合はちょっと注意が要る。結局、そういう人は手当たりしだいにアクセスを増やそうとするから、コンテンツの質は下がってしまう。
「文章を書くのが楽しいけど、人に評価されることはどうでもいい」という人たちのコンテンツを探すことは難しいが、こういう人たちのコンテンツは奥深いことが多く、表面をなぞったようなアフィカスブログとは一線を画している。
しかしこれはコンテンツを提供する人の観点である。これらのコンテンツをクロールし、検索できるように整備している「システム」の観点から見ると、どうしても「広告利益」のようなものが重要視されやすい。
Googleであれば、Googleの広告利益に貢献するようなコンテンツを検索結果で優先表示するかもしれない。そしてそれはまさに生存欲求のためのアフィカスを優先しているのと同じことなのだ。
インターネットがつまらなくなったと言う人たちがいる。僕は次の喩えでこれを説明しようと思う。
昔のインターネットというのは、水の上に白いピンポン玉が浮いていた。この白いピンポン玉は良いもので、楽しいものだ。
ところが徐々に黒いピンポン玉を投下する人たちが増えてくる。黒いピンポン玉は悪いものだ。手を使って沈めようとしないと、白いピンポン玉が見つからない。
そして今のインターネットは黒いピンポン玉が一番上に浮かんでいて、白いピンポン玉はその下で見えなくなっている。
白いピンポン玉は純粋な娯楽精神を持ったコンテンツのことで、黒いピンポン玉は「アクセス数を増やしたい」がために鬱陶しいことをしているコンテンツのこと。
つまり、インターネットでは年々白いピンポン玉を見つけるためにエネルギーを使う必要が出てきてしまっていて、疲れているときは必然的に黒いピンポン玉を見るしかなくなっているということだ。
リーナスは「文明は、生存、社会、娯楽という段階に進んでいく」と言っていたが、インターネットは「娯楽、社会、生存」という逆の階段を降りている形になっているように思える。
現段階では、アテンションの総和が一定であるために、ネット人口が飽和し、広告企業の利益は落ち込んでいる。純粋な娯楽ではなく、企業の生き残りをかけた戦争に突入してしまっているのだ。
僕は今のインターネット社会では、意識的に面白いコンテンツを見つけるためにエネルギーをかけることがかなり重要だと思っている。ダラダラとやっていたらアフィカスとバズ目的しか目につかない。
例えば人間が一日に読める文章量なんて限られているから、本当に面白い人を見つけたらRSS購読しておいたほうがいいと思う。
うるさいハエがクソに群がっている。「クソを美味しくないと思うなら、お前がつまらない奴だからだ」と左翼思想家が指摘するかもしれない。
私が別荘で叔母の木植えを手伝っている時、喧嘩をしてしまった。
それで「帰る」といって、帰ろうとした。
「犬はおばさんがうちに届けてね」と伝えた。
歩き始めると、黒い虫がたくさん私の周りを飛んでいることに気がつく。ハエではないが、奇妙な虫だ。
バス停まで歩いたが、その黒い虫たちはずっと私の周りに飛び続けていた。
「バスで帰るのが不吉なのかな?」などと思ったので、遠い道を歩いて帰ることにした。
バス停を過ぎると黒い虫は散っていった。
そして私は「近道」をしようとして、右の道を歩いて行こうとしたが、様子がおかしい。
右の道は何度か通ったことがあるが、全く見たことのない風景になっていた。
そのまま歩くと、途中で遭遇したおばあさんが私に対して「うちの息子みたいに賢い子だこと」と言った。
私は空耳か確かめるために、おばあさんに「どういうことですか?」と聞いたら「いやぁ賢い子だねぇ」と言っていた。
猫飼いの人には是非読んで欲しい。特に、猫とのお別れを経験した人や、ペットロスになった人には響く内容になってるので。
まずはDavidという曲がどんなものなのか、先入観を持たずに聴いて欲しい。
この曲は1986年「やっぱり猫が好き」という深夜のドラマ(?)のオープニング曲だった。
やっぱり猫が好き(やぱ猫)は、恩田三姉妹(長女かや乃:もたいまさこ、次女レイ子:室井滋、三女きみ恵:小林聡美)が繰り広げる、ドラマのようなアドリブトークのような、時にはドタバタを含む深夜番組。
日本を代表するコメディエンヌが3人だけで毎週様々に起こる日常の小さな事件(主にレイ子が事件を持ってくる)をゆるゆると乗りこなす、そんな「日常系」の深夜ドラマ。事件と言っても些細なことで、寝苦しい夜に一緒に寝ようとか、すき焼き食べてたらハエが出たから外に追い出してたら、ベランダのロックがかかって閉め出されたとか、ドタバタとユルユルが融合した、本当に面白い番組だった。三谷幸喜脚本も多々あり、三谷幸喜の出世作とも言われている。この番組きっかけで小林聡美と結婚した、という伝説の深夜番組なのである。
まぁ、それはおいといて。猫が好き、というタイトルのわりに「サチコ」という猫が、たまーに出てくるだけのドラマなんだけど、このタイトルとDavidの結びつきが、試聴してた頃はなんとも思わなかったんだが、最近になって、この歌詞の意味がスーッと理解でき、このDavidの歌詞を深く理解するに至り、この曲を思い出すだけで泣いてしまう状態になってしまった(ノ∀`)
これは、解釈としての一部であり、本当のところはどういう意味で矢野顕子が歌詞を書いたのかはわからない。
でも、この曲は「やっぱり猫が好き」な人でない限り書けない曲だと思ってる。
矢野顕子いわく「Davidって誰?」と聞かれるけど、誰でもない。と答えている。ダビデだ、という説もある。
しかし、この「誰でもない」はこの歌詞を読み解くひとつのヒントとなる。
果てしなく広がる街から ひとり離れて
ここへ置いていって
静かな微笑みを 遠い日々の歌を
どんなにか つらかった日々を
あなたは 見つめた
よく笑い よく泣くあなたの 話を聞かせて
こんなに近い 同じ思いで
ここで待っているよ
聴こえるでしょメロディ みんなで待ってるよ
私のともだち Oh David
歌詞を書いただけで、もう涙が止まらなくなってるんだけど、頑張ってひとつずつ解説したい。
この曲は、亡くなった猫が飼い主を思って歌ってる歌なんだ、と。
つまり、Davidは飼い主であり、私は天国にいる猫だ、と解釈すると、この曲の意味がわかってくる。
果てしなく広がる街、というのは、猫の視点からすれば、ただの街ではなく、そこは果てのない大きな大きな街に見える。
ひとり離れて、というのは、亡くなって離れていった。
あなたの手紙、というのは、たぶん火葬する時にDavidは手紙を書いて、その猫とともに天国に持たせたものなんだろう、と。
だから、読み返すうちに思い出が蘇ってきた、と。
こんなに遠い ということに対して「時間も場所も」というのは、やはり猫の時は止まっているけど、Davidの時間は進む。だから時間も、という表現になる。
ここへ置いていって欲しいのは、静かな微笑みや楽しげに歌ってた日々。つまり、Davidにはペットロスを乗り越えて、日々を進んでいって欲しい、という猫からの願い。
どんなにか辛かった日々を というのは、多分闘病していた猫の辛い日々や、ペットロスになったDavidの日常を空の上から見つめていたんだと思う。
そして、泣いて笑って、そんな日々を思い出して「ここで待っているよ」って、天国で再会することを待ち望んでいる。
みんな、というのは、きっとこの猫より前に飼っていた猫たちのことだろう。会いたいという気持ちは、飼い主だけでなく私たちも同じだよ、と。
最後に「わたしのともだち」というのは、飼い主のことを友達のように思っていた、ということなのかな、と。
パパやママという感覚ではなく、猫としては飼い主を友達のように思ってた、っていう。
この解釈でDavidを聴くと、涙が止まらなくなる呪いがかかるでしょうw
「やっぱり猫が好き」というタイトルだけ聞いて曲を書いた矢野顕子さんが「失ってもまだ猫の心と私の心は繋がっている。寂しいけれど、やっぱり猫が好き」という気持ちでこの曲を書き上げたのではないかな、という推測が成り立った。実際はコメディ番組だから、ここまでの深い考察をするまでは、まったくそんなこと、思いもよらなかった。
自分も先代の猫たちに会いたくて、今でも泣いてしまうけど、この曲の意味をこう解釈することで、亡くなった猫への思いを整理つけてペットロスから抜け出せるような気がしている。
蚊柱/頭虫の正体は「ユスリカ」という昆虫で、見た目は蚊にそっくりで名前にも「カ」と入っていますが、昆虫綱ハエ目ユスリカ科なのでハエの仲間です。
蚊とは違って吸血することはなく、口や消火器は全て退化しているので人を刺すどころか食事すらせずに、成虫になってわずか2~3日の寿命で死んでいきます。
それは蚊柱を構成する個体のほとんどがオスのユスリカで、大群で飛び回ってメスにアピールしている生殖行動なんです。蚊柱の中にメスはいても1匹から数匹程度で逆ハーレム状態で交尾の相手を探しています。(※稀に雌のみで構成される蚊柱もあるようで、必ずすべてがオスの個体というわけではないようです)
ユスリカの成虫は僅か1日~数日の寿命の中で何をするのかというと、子孫繁栄のための生殖行動に全力を注ぎます。
それが何で人の頭上に集まるのかというと、ユスリカは「近くにある少しでも高い所に集まる」という習性があるから。
私自身の記憶にもありますが、夏場の夕暮れ時に人のいない公園の中にある小さな山の上にものすごい大きな蚊柱があって、近づいてみた時に自分の身長が山のてっぺんよりも高くなった時に自分の頭上に蚊柱が移動してきました。
だから「人の頭」に理由があるのではなく、たまたまそこにある一番高い場所が人の頭だからなんですね。https://inakasensei.com/atamamushi
夕方、布団を取り込もうとした時
なんかでっかい虫が…なんらかの昆虫が部屋の中に入ってしまった ハエにしては縦長だけどゴキにしてはスリムだった
しばらくは壁や照明にくっついていたけど見失ってしまった
2cmはあった
でも妻に言えない
狩りの季節!といわんばかりに
普段のぼらないキャットタワーで訓練するように上下に走りや柱の周りで鋭い回り込みをしてる
妻は「あら普段いないところにいるねえ^^楽しそうねえ^^」とごきげんだ
このまま見えないところで死んでもらうのが一番だけど忘れた頃に死骸でてきてもやだな…
妻がいるときに出てきてくれたらきっと初見のふりして一緒に驚くことになるんだろう…
ごめんなさい…ごめんなさい…