はてなキーワード: ネタ探しとは
X以外のSNSはXと非常に近いBlueSkyでも騒いでないしXソースの日々ネタ探ししてるテレビメディアでしか取り上げてない
Xもブルーバッジ稼ぎがついて酷くなったがインプ稼ぎは前からあり(それを使ってアカウントを売ったりアフィに使ったりする奴らがいた)
もともと異常に炎上騒ぎが起きやすい場所になっていたようである
炎上は確かに正義と悪がはっきりしやすいので議論含めて一概にない方が良かったとは言わないが、100本炎上があったら2本か3本有益な炎上があるくらいで、ほぼ無駄な炎上な印象だ
少し違う話をするがTwitterは昔からのプログラマーが追加とリカバリで機能を増やしたり調整してきたものだとTwitterの元社員は言っているのだが(つまり積み重ね)イーロンはそこをクビにした。イーロンが機能消したり変更した影響で昔よりもエラーがどんどん増えている状態だ。
アニメの感想も同じ人しか出てこないし炎上騒ぎも元ネタが辿れない
AIアカウントを放置しているのでトレンド(おすすめ含めて)に入ったらもう壊れてるなんてものではない。破壊しに行っている
過去のTwitterならAIアカウントの対応をしていたのだろうが、イーロンはもう手をつけることもなくXにアップロードしたものはAIに吸われることを公表している
日本人が「これでもう中国は台湾侵略を諦めたはず。めでたしめでたし」と勝手に安堵する行為そのものが、中国政府には「よし、台湾侵略しても日本は動かないな」というメッセージになりかねないんだがな
というのも、在日中国公館の連中は習近平の機嫌を損ねない報告のネタ探しに今も血眼になってるから
「閣下、日本の世論は台湾への関心を失いつつあります。もはや日本政府はアメリカとの連携には動きますまい。統一の悲願を達成するならば今しかありません」と、習近平をニンマリさせる報告をどうやって作るか、連中の頭の中はそれしかないよ
実際、ロシアのプーチンがウクライナ侵略を決意したのも、クリミア半島の一方的な併合に国際社会が思ったほど反発しなかったのと、当時のゼレンスキー政権が比較的親露派だったという要因が大きかった
欧米が「クリミア半島を手に入れたのだからロシアはもうこれ以上手を出してこないはず」と勝手に納得して勝手に安堵してしまった
仕事振られないくせに、週の半分別営業所に在住させられた前職に嫌気が差して中途で入ったのだけれど、わからないことだらけで上司に色々聞きまくっていた。
最初は上司が仕事っぽいのをふっててくれたけど、あくまでそれはサービスみたいなもので、仕事があったというより、自分のためにわざわざネタを探してきてくれたようだった。
ので、それをこなした今、なにかネタ探しとくねーで会話が終わってしまった。
評価には自分でもう少し動けるようになりましょうと書かれ、課題であることを自覚はしているけれど、何をすればいいのかが浮かばない。
社内コンサルみたいなことしてるとはいえ、手当り次第インタビューってわけでもないだろうし、フォルダあさって、このデータの作り方効率悪いですねってやるわけでもいかないし。
自己啓発的なことに取り組んでもいいかも、と言われてしまったので、本読んだほうがいいんだろうなあ。
なにも思い浮かばん。
どうすればいいですか?
増田やツイッターでヘイトをクリエイトします。マナー講師のフリをしたり、極端な思想の持ち主のフリをしたりです。付け火と同じようなものなのだと思います。でも燃え上がっている様子を見てもそれは燃え始めたものは周りのものを燃やし続けるという現象が起きているだけなのだと思うと途端に虚しくなります。最初にライターレベルの火を付けたのが自分であるということが、広がる巨大な火の手の創造主であることには全く繋がらないことに気づいてしまえる程度の知性はあるからです。火遊びをして楽しむには大人になりすぎたようです。
既存の映像を切り貼りして新しいものを作った感を出そうとしましたが、虚しいだけでした。結局既にこの世界にある面白いものを拝借しているだけです。センスの有る人がやれば全く違うのかも知れません。写真にたとえれば自分のやっているのは単に映える商品を正面から撮っているだけで凄いのは被写体でしかないような感じでしょうか?伸びるものは元が面白かったものばかり。虚無しかありませんでした。
画期的な絵文字の発明に至らず既存の技術を組み合わせて掲示板にバイト数の極めて小さい絵を用意するだけで終わりました。今はスマホでもガンガン通信できるわけですから画像でいいんですよね。掲示板にお絵かき機能が追加されることも増えてきて居場所は完全に無くなったと思います。
MADと基本は一緒ですね。単にもともと世の中にあったものを拝借しているだけです。作る労力の少なさの割には伸びがちですが、結局自分は何も生み出してないなと感じる次第です。鬼滅の会議の文字コラとか、完全に元の漫画が面白いだけですよ……。あんなの伸びても鬼滅ってやっぱり凄いなしか残りませんよ。単なるコミュニケーションの手段としてはありなのかもですが、それにしたってそのたびにいちいち著作権を侵害するのかって話です。
小説なんて読んだことなくてもエロ小説ぐらいかけらぁ!→無理でした。伸びません。というか明らかに表現の幅がチープなんですよね。たとえば飲み会の話題がループしだすと同じような表現が多用されてそのフレーズだけで退屈してくるじゃないですか。大事なんですよねフランス書院みたいな言い換えの文化。陰茎、陰茎、肉棒、肉棒、ペニス、肉棒、陰茎とかじゃ駄目なんですよ。飽きちゃうんですよエロ小説でも。
語彙力がなくても17文字ならいけらぁ!→もっとダメでした。でも挑戦してからはフリースタイルの人達の凄さが分かりましたね。というかアレ仕込んでますよね常に?でなきゃやらせとか。そうじゃないとあんなにスラスラ表現が出てくるとは思えない。サイファーって結局の所書き溜めたオリカを吐き出しながら戦うカードゲームなんじゃないかなって。
あえて今の時代にブログですよブログ。SNS全盛の時代に逆を行くんです。レビューだったらネタを考える必要もないから楽勝っしょ。→無理に決まってるわけですね。悲しいです。邦キチっていう漫画に出てくる駄目な新人レビュワーみたいになってました。表現がありきたりな癖にクドいんですよね。目の付け所が凄いでしょって態度をしてるけど普通のことしか言えてないんですよ。んでもって必死にネタ探してる感じがキツいんですよね。コマ送りで一瞬だけ映ったパンツの柄とか必死に語ってたりするんですよ読み直すと。そんなもんでクリエイティブを発揮した気になってるんですよ。アホかって話ですよ。
あーーーーーーーーー助けてくれ
「東京2020オリンピック SIDE:A」を観に行きました。個人的には良い体験だったと思うのでシェアをしたいと思います。皆さんも観に行くと良いのではないかと思います。ただ、すごく良いかというと、少しモヤっとするところもあったので、それについてもここに書きたいと思います。
わたし自身について書きますが、映画を劇場に観に行くのは年間5本か6本ぐらいで、平均と比べるとやや多いのかもしれませんが、映画が趣味とかそういう人間ではありません。河瀬直美については、代表作の名前や作風や人となりと噂については知っていますが、実際に作品を見たことはありませんでした。ドキュメンタリーを劇場で観るのは多分初めてです。こんな私がわざわざ好き好んでこの映画を見ようと思ったのは、いろいろなところで書かれている、この映画の評判について興味深いと感じたからです。私は基本的に暇なので、ネタ探しのためにゲテモノ喰いくらいの気持ちでした。
「シン・ゴジラ」の中で、ヘリからの俯瞰の視点でゴジラと白煙を吹く街を、ニュース映像のように描いた場面を観た時、この映画は震災を経た2015年の我々日本人にしか感じることのできない気持ちを「いま」与える映画だと思い、震えるような感動を覚えました。「東京2020オリンピック SIDE:A」はそのような映画だと思います。
オリンピックが始まる1年ほど前から、オリンピックに対する気持ちは冷めきり、オリンピックなんてどうでもいいだろ、とわたしは思っていました。世の中にはオリンピックや競技の勝ち負けよりも大事なことがある。この映画では、そのことが選手自身の口から何度も発せられます。藤井風の唄うエンディングのテーマ曲の歌詞にもそのような意味が込められているように思います。世の中にはオリンピックより大事なことがあり、選手個人にも競技より大事なことがあります。その中でもあえてオリンピックに挑み、それぞれの立場で高みを目指す美しさや厳しさがそれぞれのエピソードによく描かれていると思います。そして、オリンピックをそのような、やや冷ややかな目で見ている、2022年現在の私たちの気持ちに寄り添った映画として私には感じられました。
Yahooのオリンピック期間中のアンケートでは「日本にいくつ金メダルを期待しますか」という質問に対して、もっとも多かった回答は「メダルの数は気にしない」だったと記憶しています。そして、この映画はオリンピックをそのような目で眺める私たちの気持ちをよく代弁しているように思うのは先に書いた通りです。しかし、そう考えた時に、私たちはなぜオリンピックというものを見てしまうのか、なぜそこに感動をなお感じるのか、というところに対する疑問に、作者(河瀬直美)はあまり答えてないように私には思えました。この映画のいくつかのエピソードの中では、目標に向かって努力をし、力を出し切って勝利する瞬間のカタルシスを描いているのですが、そのようなある種古臭いスポーツの良さを正面から肯定はしない姿勢を繰り返し見せられてきたので、わたし自身、「なぜスポーツを私は見るのか。スポーツ観戦で得られる感動とはなんなのか」ということを、映画の後半ずっと考え込んでしまいました。
振り返ると、時代の雰囲気として、国別対抗戦としてのオリンピックで無邪気に騒ぐことができたのはシドニーやアテネぐらいまでで、東京オリンピック前のコロナ禍が仮になかったとしても、私たちのオリンピックの向き合い方は以前と同じではなかったと思います。とはいえ、我々は(或いは少なくともわたしは)オリンピックが好きで、それを見て分かりやすく「感動」するのであり、作者自身にもその目線はあるように思うのですが、その「感動」ってなんなのか、が置いてきぼりなのです。すみません、あまり上手く書けていないのですが、モヤモヤするところ、というのはこういうところです。このモヤモヤ感自体が時代の雰囲気で実は河瀬直美はそこも含めて描きたかったのか、とかそんなこともボンヤリ考えたりもします。
他のところでも書かれていますが、この映画が、IOCの公式として製作され、公開がされているということが驚きではあります。とはいえ、私個人の鑑賞後の感想として、いろいろな価値観を内包しつつも前に進むオリンピックという存在は、以前のようなシンプルに善な存在ではないが、全体として好ましいものだと感じたので、あからさまな問題作とかそういうものでもないと思います。オープニングとエンディングには木下グループのクレジットがかなり大きくでていて、この、やや微妙な位置付けの映画のスポンサーとして彼らの力が大きかったんだろうなあ、と思ったんですが、そうしたサポートを引き出すのに、一部で言われるような河瀬直美のステージ外での政治力みたいなものがあったのかななどという思いを馳せたりしました。
繰り返しになりますが、オリンピックとそれを取り巻く時代の雰囲気をよく反映している興味深い映画なので、もし誰かに行くべきかと聞かれたら観ることをお勧めすると思います。この映画を仮に50年後の人たちが見ても、いま私たちが見るときの独特の想いは得られないと思うので、そういう意味において旬の映画なのではと思います。
映画の意味や位置付けのようなものではなく、映画自体についてあまり書いてないと思いましたので追記をします。
全体を通じて、映画の中での音のあり方が印象的でした。例えば私たちはリアルタイムでは、開会式の聖火点灯をテレビ中継の中での厳かな興奮として見ていたと思うのですが、映画の中では静寂の中で大坂なおみが階段をトコトコと駆け上がる音が強調されていたように思います。このシーンは、無観客開催という非常事態性やメディアを通じたイベントとその向こうにある現実とのギャップの象徴として感じられました。また、緊迫した試合のシーンでは、選手のフッと吐く息の音を際立たせていたり(どうやって録音したんだろうって思いました)、試合中の映像の背後に練習中の音声を重ね合わせたりといった、細かい工夫をしているのも場面を盛り上げるために効果的な役割を果たしていたと思います。
映像としての美しさという点では、冒頭の雪を被った桜の花の光景は、シンプルに美しいと思いました。また、競技会としての東京オリンピックの思い出の映像、という意味でカタルシスに欠けるかというとそういうわけでもなく、たとえばソフトボール決勝に関しては、試合展開がほぼわかる形で比較的素直に描かれていたりもします。上映時間はやや長く感じたのも事実ですが、退屈というわけではありませんでした(鑑賞前は実はかなり退屈なのではないかと覚悟をしていました)。普通に映画やドキュメンタリーを普段から見ている人なら、相応の楽しみ方ができる映画だと思います。しかし、繰り返しになりますが、スポーツをいわゆる感動ポルノ的に消費するような映画ではなく、観終わった後に、ちょうど今の私のように、意味を考え込むようなそういう映画でした。