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2014-05-10

魔法科高校の劣等生ちょっと読んでみた

何言ってるかまったくわからないところがある。

たとえば、

人の内部世界である演算領域内で組み立てられた魔法式を、無意識領域最上層にして意識領域の最下層たる「ルート」に転送意識無意識狭間存在する「ゲート」から外部情報世界投射することにより、魔法式が投射対象たる「事象に付随する情報体」――これを現代魔法学では、ギリシャ哲学の用語を流用して「エイドス」と呼んでいる――に干渉し、対象情報一時的に書き換わる。

(1巻、pp.104-105)

 文章研究としてこの本をかなり真面目に精読してたんだけど、それでもこの文章読んでなにがなんだかよくわからない。いまの中高生ってこういう文章読めるのか。冗談でもなんでもなくニクラス・ルーマンより難しいと思った。ここまでなにいってるかわからない読書体験(しか小説しかラノベ)なんてはじめてだ。にわか文学ファンはトマス・ピンチョンが好きだけど、そのピンチョンよりはるかに読みにくい。

 ほかにもいろいろあるけど、ちょっと驚いたのは、

達也の浮かべた苦笑いは、苦々しさのないただの苦笑に変わっていた。

(1巻、p.71)

 これ。苦々しさのないただの苦笑ってなんだろう。哲学的といえば哲学的だけど。撞着語法かな? 「苦笑」って辞書的には「にがにがしく思いながら、しかたなく笑うこと」(明鏡国語辞典)なんだよね。いや、べつに辞書が正しいって言ってるんじゃないよ。ことばの意味ってのは文脈に応じてアドホックにどんどん変わっていくものからね。でもそれにしてもこの語法は難しすぎるんじゃないか? ある種のアイロニーなんだろうか。難しい。

俺TUEEEE系の馬鹿っぽい爽快バトルファンタジーかと思って楽しみにしてたのに……。まあでも最後まで読むよ。

2009-02-02

非コミュコミュの対立構図がバカバカしいわけで

会話のキャッチボールが成り立っていなくても、コミュ力がなくても、人間がいなくても、「他人と関わること」から逃げても、コミュニケーションは作動する。

コミュニケーションは、人間意識主観や行為を参照せずに進展していく。コミュニケーション人間的な単位還元することはできない。人間が想定する「コミュニケーション能力」などお構い無しに、コミュニケーションは作動していく。あくまでコミュニケーションとは、<コミュニケーション>についてのコミュニケーションなのだ。だからこそ学術的なコミュニケーションは、各人が知識人の「本の受け売り」にならずとも進展していくことができるのである。先行研究の観察が接続可能性の担保に必要となるとはいえ、それぞれの人間が先行研究を理解しているか否かは何の問題にもならない。観察されるのは、理解度や各人の意識合意形成などではない。観察されるのは、観察である。

http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090122/1232605196

id:ekkenのような誹謗中傷罵倒を垂れ込んでいる奴のも、ある種のコミュニケーションekkenコミュってのも実感がわかないが。

 社会システムは、コミュニケーション継続させることによって存続している。コミュニケーションが中断されれば、そこに社会は無い。よって、自己を存続させようとする社会システムからすれば、学術だろうとコンフリクトだろうと、コミュニケーション継続していればありがたいものなのだ。だから、免疫システムとしてのコンフリクトは、まず社会システムの存続の負担を免除しているのである。

 一方、コンフリクトによって負担を免除されているのは、社会システムだけではない。学術的なコミュニケーション継続させることの負担についても、免除されている。たとえば、ニクラス・ルーマンヘーゲルの先行研究が観察されることによって学術的なコミュニケーション接続可能性が担保されたとしても、ルーマンヘーゲルの先行研究の観察が理解されなかったとすれば、それ以降、ルーマンヘーゲルについての学術的なコミュニケーション継続させることの負担は増大することになる。

http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090122/1232605196

コミュニケーションは学術、政治経済、法、教育芸術宗教とかに区別される。全部ひっくるめた会話のキャッチボールとか、全部ひっくるめたコミュ力とか、全部ひっくるめた人間性とか、そんなものはない。

 このことは、各種の社会的部分システムにも相当する。学術的コミュニケーションは、いつも<学術的コミュニケーション>についての学術的コミュニケーションである。政治コミュニケーションは、いつも<政治コミュニケーション>についての政治コミュニケーションである。

 機能的分化社会では、政治コミュニケーションシステムも学術的コミュニケーションシステムも、互いに全体性を記述していく。だが、互いに全体性を記述するからこそ、その全体性は真の全体とはならず、特殊部分化された<全体性>だということになる。それ故、双方は互いに全体性を記述するものの、政治の全体性に学術が倣わなければならない理由も、学術の全体性に政治が倣わなければならない理由も、無い。「審議会」のような場でできることは、精々のところ、一方が他方の作動の前提に攪乱を与えられる程度のことである。だから、一方が他方の作動を制御することは、原理的にあり得ないのである。よって双方のシステムは、互いに自律的に作動していく。

 このことは、学術と政治の対話が成り立たないことを意味する。

http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090128/1233124298

 勿論、政治システムは、<世論>の心情や苦悩やカタルシス怨念や「一般意思」や「憲法意思」などといった心的要因や人間的な単位を理解しようとしている訳ではない。政治システムは、こうした心的要因や人間的な単位について、政治的にコミュニケートしているに過ぎないのである。

http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090128/1233124298

 学術的コミュニケーション政治コミュニケーションにおける接続可能性の差異は、市民的な対話や「言葉キャッチボール」などといった猿知恵を、いとも簡単に粉砕してしまう。こうした学術と政治の対話に期待することができない以上、対話に期待する<理性的啓蒙>よりも、機能的に差異化された各コミュニケーション形式への参入離脱可能なポジショニングを採ってもらうべく、各システム作動を学習させる「社会学啓蒙」を選択したほうが無難かもしれない。と言っても、この「社会学啓蒙」それ自体が既に学術システムの構成物なのだから、この結論は学術の学術に対する自己言及だということになる。こうした状況は、前半で取り上げたハーバマス・ルーマン論争の時期から、既に一般化していたことだ。この意味で、未だに右と左の区別に縛られ、厳密な根拠づけや理性的合意形成を目指すような政治的討論を試みるのは、完全に周回遅れである。

http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090128/1233124298

要は、「会話が成り立たない」という会話も学術的で成り立たないから、「会話が成り立たなくても作動していくそれぞれの部分システム」への参入と離脱を両立しろってこと。

こんな不良債権学生ども、一体社会はどうするんだ?

http://anond.hatelabo.jp/20090130234807

社会社会のままだと思う。

アホウもここに極まれりといったところだろうか。

http://anond.hatelabo.jp/20090131095520

だからってアホウにアホウと言っても、アホウはアホウのままだと思う。

トライブにとっては、学術システムこそが外部環境に位置づけされる。双方のコミュニケーションは互いに影響を与えることは無く、自律的に作動している。したがって、こうしたトライブの戯れを批判し、啓蒙することは不可能である。経済学者や活字好きのご老体は、はてなブックマーク馬鹿危険因子が存在していると批判していた訳だが、彼らにできたのは、あくまで馬鹿危険因子が存在していることを発見し、記述するところまでである。彼らを啓蒙することなど、できるはずもなかった。何故なら、トライブコミュニケーションを決定付けるのは、トライブだからである。

http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090122/1232605196

 
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