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はてなキーワード: チュニスとは

2019-11-22

anond:20191122091657

ついこないだ、こんな記事があったのにな

https://www.nanigoto.net/entry/2019/11/19/131011

中世どころか古代ローマ時代の段階で

ヨーロッパには多様な人種民族が混在していた

ことにローマ地中海で対岸のエジプトは縁が深かった

ローマ人は大量にアレクサンドリアだのチュニス移民して現地民と混血してる

エジプトからさらちょっと奥に行けばもう黒人がおる

フィレンツェだのヴェネツィアだのイタリア半島諸国による地中海貿易の全盛期には

北アフリカ出身者もさかんにヨーロッパに来ておったらしい

まあそのへんになるとルネサンス期の15世紀ごろの話になるが

8世紀人間だったカール大帝中東イスラム王朝と国交を持ってた

西欧中東の間に挟まってるビザンツ帝国に対する牽制意図もあった)

からアラブ北アフリカから外交使節が来ることはたびたびあった模様

ヨーロッパ人にはアラブ北アフリカ出身者との混血も確実におったろう

2019-08-30

anond:20190830120056

葉っ派、鍵っ子、型月厨、そしてチュンチュニスト…?

anond:20190830115827

"チュンチュニスト" 約 36 件 (0.24 秒)

ほぼ同じ書き込みを拾ってるだけなので実質2件。

チュンチュニストの元ネタ

チュンチュニストって単語自分脳みその1キロバイトぐらいを圧迫してる。

チュンチュン=すずめ を表わしていて、すずめのプロか、かわいいすずめ(すずめの中のすずめ)という意味かもしれない。違うかもしれない。

検索するとポロポロと出てくるけど、ネットミームほど知れ渡って使い込まれているようでもない感じ。

10年以上前学校で誰かが一瞬使ったようなきがするけど(流行りはしなかった)これはねつ造された記憶かもしれない。もうわかんないね

2015-12-18

わずそこに行ったと口に出してしまいたくなる空港名前


ワルシャワショパン空港

ムハンマド5世国際空港

イブン・バットゥータ国際空港

チンギスハーン国際空港

クィーンアリア国際空港

モショエショエ1世国際空港

プルコヴォ空港

ベルガモオーリオ・アル・セーリオ国際空港 別名イル・カラヴァッジオ国際空港

ベルリン シェーネフェルト空港

ベルリンテンペルホーフ空港

ハンブルクフィンケンヴェルダー空港

デュッセルドルフメンヒェングラートバッハ空港

チュニスカルタゴ国際空港

アルトゥーロ・メリノ・ベニテス国際空港

ラス・アメリカ国際空港

ウィンドフック・ホセア・クタ国際空港

アウグスト・セサルサンディー国際空港

ベナジル・ブット国際空港

ポートビラ・バウアフィールド空港

プレジデンテ・ニコラウ・ロバト国際空港

プレジデント・ジュセリノ・クビシェッキ国際空港

タンソンニャット国際空港

ホルヘ・チャベス国際空港

インカ・マンコ・カパック国際空港

モスクワ ドモジェドヴォ空港

ライプツィヒ・アルテンブルク空港

リヨンサン=テグジュペリ国際空港

クアトロ・デ・フェベレイ空港

VCバード国際空港

ベン・グリオ国際空港

ナポリ・カポディキー国際空港

エマーム・ホメイニー国際空港

インディラ・ガンディー国際空港

スカルノハッタ国際空港

ングラライ国際空港

マリスカルスクレ国際空港

オタワマクドナルドカルティエ国際空港

ケベック・ジャン・ルサージ国際空港

モントリオールピエールエリオットトルド国際空港

ネルソン・マンデラ国際空港

ヤウンデ・ンシマレン国際空港

オスヴァルドヴィエイラ国際空港

ホセ・マルティ国際空港

テッサロニキマケドニア国際空港

エレフテリオス・ヴェニゼロ国際空港

フアンサンタマリーア国際空港

ストックホルム・アーランダ空港

ドルフォ・スアレスマドリードバラハ空港

バルセロナエル・プラット空港

マラガコスタ・デル・ソル空港

ヨハン・アドルフ・ペンヘル国際空港

レオポール・セダール・サンゴール国際空港

ベオグラードニコラ・テスラ空港

ロバート・L・ブラッドショー国際空港

アデン・アッデ国際空港

ジュリウス・ニエレレ国際空港

イグアスの滝国際空港

広州白雲国際空港

武漢天河国際空港

(アメリカは多いので割愛)

2011-03-10

ジャーナリスト日垣隆リビア取材捏造疑惑

これまでの流れ

その後、ニュースでもわかるようなことしか言わない日垣氏。写真没収されたから見せられないと。

http://twitter.com/hga02104

http://twitter.com/hga02104/status/45401554202791936

リビア軍隊山岳部でもかなり怖い。チュニジア軍人写真撮影にも応じてくれるほど柔らかくなったけれど、リビア軍の殺気と緊張感と圧迫感は沸点リビアでは軍隊に出逢うと写真は全部、必ず消されます。私も拘束、執拗な尋問と荷物の中を何度も徹底的に検査されました。今は平和チュニス

ジャーナリストカメラマン達も含んだ突っ込み信者もいるようだが

http://twitter.com/#search?q=%40hga02104 この辺で。

一部抜粋。

常岡氏

http://twitter.com/shamilsh/status/45519870510632961

なんぴとたりとも通さないという西の国境からリビア入りとは流石日垣さん!写真撮影は無理だったのですね。でも、パスポートのスタンプが証拠になりますね。是非見せてください!

当然、日垣氏はスルーさっき更新されてた。

http://twitter.com/hga02104/status/45741411664003072

どんどん通っています。ルートも少なからず。ナンピトって誰の情報? 男の嫉妬は見苦しいと思うよ。RT @shamilsh なんぴとたりとも通さないという西の国境からリビア入りとは流石日垣さん!

http://bettween.com/shamilsh/hga02104/asc もうこれみてもらったほうが

これをネタにまた本出したり公演で金取ったりするんだろう。

こんなんがジャーナリスト気取ってるの、前線で命がけでやってるジャーナリストリビアの人の事思うとマジ胸糞悪い。

本当はもっと知ってもらう為にトゥギャッターに纏めたかったんだけど、なぜかログインできない。新しいアカウント取っても無理だった。だれか一連のやりとりを証拠にまとめてくれるとうれしい

http://anond.hatelabo.jp/20110307121804

2011-03-05

アフリカ在住から一年一ヵ月後。

http://anond.hatelabo.jp/20100209065146

これ書いて、一年一ヶ月たって、今、日本に帰ってきている。

任期が終わろうとしていた昨年の末位から、あの大陸の北のほうは急にうねりを見せ始めた。

http://anond.hatelabo.jp/20100210201337

の方が書いていたように、インターネットSNSが遂に大きな力になって、そして、ある側面では、それを見せ付けたかのようだった。

ジャスミン革命前のチュニスは、本当に短期だけなのだが、滞在したことがある。

とても過ごしやすいところだった。外国人である僕にとっては。

エジプトは、10日間くらい、ナイル沿いを北から南に移動しながら滞在したことがある。

実にエキサイティングだったし、そんなに贅沢をしたつもりも無かったけど、快適な滞在だった。

そういえば、ギザスフィンクスの前で、外国人旅行から盗みを働いたやつがTurist Policeにボコボコに殴られているところに出くわした

快適に過ごせたのは、やはり自分外国人だったからかもしれない。

帰ってくる途中、イスタンブールに数日滞在していた。

可愛らしいお子さんを4人もつれた、リビア人のご家族と一緒に、ボスポラス海峡の船上でつかの間の楽しい時間を過ごしたんだ。あの頃は、まさか一気にこんな事態になるとは露にも思わなかった。

「まだ、リビアには行ったことがないんだ」

というと、誇らしげに、

「どうして来ないんだい?こないだまで君がいた国よりずっといい国だよ!」

と言ってくれた、お父さん。

一生懸命、僕にアラビア語を教えてくれた、お嬢さんと坊や。

元気にしているだろうか。

一年少し前、最初に「アフリカ大陸滞在中」のエントリで書いたように、僕が住んでいた場所は、確かに少々暮らしにくいところではあった。

ジャスミン革命に触発されたデモがあるや、ないや、という話を聞かないでもない。でも、酷い流血の惨事はとりあえず今のところ繋がっていないようだ。

暮らしにくかったのは、僕が外国人だったせいだろう。

やっぱり、色々ある。

同じ大陸だけど、全然違うよな。リビアの件で、「アフリカ傭兵」っていう表現をいろんなメディアで見るけど、あれほど違和感を覚える言葉は他にない。

エジプトの人を十把ひとからげに「エジプト人」と呼ぶ事だってある種乱暴なのに、それってどうよ、と思う。

それはともかく。

帰国にあたって、一緒に仕事した現地人スタッフが、寄せ書きをして送り出してくれた。

結構、厳しいことを言ったりもしたので、まさかこんな事をしてくれるとは思わなかったが、とても嬉しかった。

挨拶を」と言われたけど、感動のあまり何を言ってよいかからなくなった。

「もう、僕は居なくなる。でもプロジェクトはまだ続く。君たちには全部伝えたつもりでいるし、君たち自身でもう全部できる。

 このプロジェクトは君たちの助けをまだまだ必要としている。だから、今まで同様、今まで以上に、協力しあってやって欲しい

たいな事を言ったような気がする。

チュニジアエジプトでは、「何もくれない奴等」をウマい事追い出したようだ。

でも、その後はどうなんだろうか?

あの「革命」、と言われる一連の動きが、「何かをくれる新しい別の人」を求めてのものだったとしたら、その「新しい人」はもしかしたら、ただの「新しい独裁者」に変わるだけかもしれない。

追い出したから、「自動的に新しいものをくれる人が現れる」と思っているのだったら、そんな事はありえないよ。

追い出して、壊した所で安心していたら、多分何も変わらない。もしかすると、前よりずっと悪くなるかもしれない。

これからが、一番大変だ。言ってみれば、何も無いところから自分たちの力で色々積み上げていかなきゃいけなくなるんだから

帰国してから、早くも一ヶ月以上経過してしまった。

急に色々頭に思い浮かんだので、何かを主張したいわけでもなく、以上、ちょっと雑駁に書いてみた。

こんなことが頭に浮かぶのは、もしかしたら、ちょっとホームシックなのか?などと言う考えが浮かんでしまい、慌てて頭をぐるぐる振ってみる。

故郷は、遠くにありて思うもの」

とは言うけど、一ヶ月ちょっと再び日本で生活してみて、やっぱり色々この国は過ごしやすいよ。

でも、数ヶ月ほどしたら、今度は一年ほど、また別の国(未定だけど)に行くことになりそうだ。

次に外から日本を眺めるときは、どのように見えるのだろう。

楽しみなようでもあるし、壊れていく故郷を見るかもしれない怖さが無いわけでもないし、なんとも言えない。

2011-02-03

なぜアラブ革命精神を恐れるのか? スラヴォイ・ジジェク

http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2011/feb/01/egypt-tunisia-revoltを和訳しました

なぜアラブ革命精神を恐れるのか?

チュニジアエジプトにおける叛乱では、イスラム原理主義の姿をまったく見かけない。これは注目すべきことだ。民主主義というもっとも非宗教的な伝統にのっとって、エジプトの民衆は、抑圧的な体制や体制の腐敗、そして貧困に対して叛乱をおこしたのだ。そして、自由と経済的な見通しを求めたのである。「アラブ諸国にあっては真の民主主義的センスは少数のリベラルエリートのみに存在し、それ以外の膨大な数の大衆は、宗教原理主義か、さもなければナショナリズムによって動員されるだけである」という西洋リベラル派が持つシニカルな知見は間違っていると証明されたのだ。しかし、大きな疑問は残る。次に何がおこるのか?政治的な勝利者として、誰が登場するのか?

チュニスにおいて臨時政府が成立したとき、臨時政府イスラム主義者と急進派左翼を排除した。これに対する独善リベラルの反応はこうだ。「よくやった。奴らは基本的に同類なんだよ」。同類、すなわち両者とも極端な全体主義者だということだ。しかし、それほど単純なものだろうか?イスラム主義者左翼との間には長年にわたる反目が存在しているが、それは存在しなかったとでも言うのか?もし仮にイスラム主義者左翼が体制に対抗して一時的にせよ団結したとすれば、彼らはひとまず勝利するだろう。しかしその団結はすぐに元通りに分裂し、彼らは死闘に身を投じて、より残虐に振舞うのだ。

去年のイラン大統領選で、我々は今回のような戦いを目の当たりにしなかっただろうか?ムサーヴィーを支持して立ち上がった何十万の人々は、自由と正義を掲げたホメイニ革命はま継続であるという人々の夢を表していたのだ。たとえその夢が非現実的なものであったとしても、それは政治的・社会的構想力の息をのむような爆発や経験組織化、そして学生と一般市民との間の討論を導いたのだ。こうした社会を変容せしめる法外な力の解放のはじまりは、体制派イスラム主義者が統治権を奪ったことで、次第に抑えつけられていった。

原理主義者による運動だと明らかな場合でも、その運動社会的構成を見落とさないように注意すべきだ。タリバン普通テロにより支配を押し付け原理主義イスラム主義者の集団だと表現される。しかし、2009年の春、タリバンパキスタンスワット渓谷を占領していたころ、ニューヨーク・タイムズタリバンが「富めるわずかな地主とその小作人たちとの間に広がる深い亀裂につけ込んだ階級闘争」を工作したと報じた。タリバンは、農家の困窮という「アドヴァンテージを得て」、ニューヨーク・タイムズが言うように「広範にわたる封建制を温存するパキスタンに対し危機を警告した」のかもしれない。もしそうだとするのなら、パキスタンアメリカリベラル民主主義者が同じように困窮という「アドヴァンテージを得て」、小作農を助けようとしないのはなぜなのだろうか?パキスタンにおける封建的勢力こそが、リベラルデモクラシーにうってつけの同盟相手ということなのだろうか?

これらから導かれる当然の結論は、次のようなものだ。すなわち、急進派イスラム主義者の台頭は、イスラム教国における世俗的左翼の消滅と常に関係がある。アフガニスタンは今は強固なイスラム原理主義の国と考えられている。しかし、40年前のアフガニスタンは強固な非宗教伝統に則った国だったのであり、ソ連とは無関係に、独自に共産党が力を持っていたのだということを、誰か憶えているだろうか?そして、こうした宗教伝統はどこへ行ってしまったのだろうか?

こうした背景をふまえたうえで、チュニジアエジプト(そしてイエメン、さらにはきっとサウジアラビアでも)で進行中の出来事を読み解くことが重要だ。もし現在の状況が、旧体制にリベラル風の彩りを付け加えるだけに終わり、結局は旧体制を生き残らせ、安定させてしまうとしたら、原理主義者による逃げ場のない反撃を生み出すことになるだろう。リベラルという遺産を生き残らせるためには、リベラル派は急進派左翼からの支援を必要とするのである。話をエジプトにもどすと、今回の件で最も破廉恥かつ危険なまでに日和見主義的な反応を見せたのは、CNNの中継放送に登場したトニー・ブレアだった。「変化は必要ですしかし、それは着実な変化であるべきなのです」。今日エジプトにおいて、着実な変化とは、政府中枢の人数枠をわずかに増やすという目的にもとづいて、ムバラク勢力との妥協を図るということを意味するだけなのだ。このようなわけで、エジプト平和的推移という語りは、鼻持ちならないのである。敵対者を押しつぶすことによって、ムバラクは自身に敵対することを不可能にする。抵抗する市民に対してムバラク軍隊派遣して以降、選択肢は明確になった。ほとんど何の変化もない中でのわずかな変化という見掛け倒しの変化か、真の破壊か。

ここが正念場なのだ。10年前のアルジェリアでは、自由選挙の容認によって権力イスラム原理主義勢力へも平等に分配されたが、今回もそうなるというわけではない。もしムバラクが去った場合、体制を引き継ぐことができる組織的な政治勢力が存在しない、というのが、リベラルの一方の心配の種だ。もちろん、そんな政治勢力は存在しない。ムバラクは、つまらないことに対する反対意見であっても、反対意見であればすべてを却下することを通して、そうした政治勢力を始末してきたのだ。その結末は、アガサ・クリスティの著名な小説タイトル、「そして誰もいなくなった」を思わせる。ムバラク自身やその混沌した政治をめぐる議論は、ムバラクに敵対する議論なのだ。

西洋リベラル派の偽善には仰天させられる。彼らは公然と民主主義を支援してきたのだが宗教のためではなく、非宗教的な自由と正義のために人々が暴君に対し叛乱をおこすと、彼らは深く懸念を示したのだ。なぜ懸念するのか。なぜこの自由のチャンスが与えられたことを喜ばないのだろうか?今日、これまで以上に毛沢東の古きモットーが適切だ。「天の下に混沌、絶好の機会」(訳注)。

さて、ムバラクはどこへ向かうべきか。答えは明白だ。ハーグへ向かうがよい。ハーグ国際司法裁判所に着席するにふさわしい人物がいるとしたら、それはムバラクその人なのだ。

訳注毛沢東のモットーについてはhttp://bit.ly/eSBrn9を参照。

 
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