はてなキーワード: セットポイントとは
そんなことより任天堂は花札メーカーから始まったし、嵐山に百人一首の博物館つくってるじゃん?
このちはやふるブームにのって陸上連盟やテニス連盟がつかってるようなちゃんとしたビデオ判定する公式試合を開催しろよ
まず100組札わけ札そろえを内蔵ICでやるやつやれ。回転寿司でできることがなぜできないんだ不毛だ!
ちはやふるではそういう開催者側の苦労なんてなんにも考えずに俺がアラタを倒すとかだれと誰がくっつくとかいってばっかりだよプンスコ
※素人にもわかるように言うと、フェンシングの試合で使うような判定の電気をいっさいつかってないのが今の百人一首の公式試合の状態。
というか審判いない。終盤1-1だけ隣に審判がきてすわって目視判定するだけ。
テニスでいえばデュースがめっちゃ続いたあとのマッチポイント(セットポイントではなく)にだけ審判がつく。あとは当事者の協議だけできまる。モメることも当然多い。
NHKBSでの中継もおわっちゃった。4K8Kじゃないと床の札がどれなのかミエナイヨー。
あとどの試合もD~F級(初心者)は抽選に勝ち抜かないと出場さえできないくらい競技者人口が爆発してる
1 食べる量が減っている
2 運動量が増えている
通常、体内の脂肪量は自動的に調節されていますが、そのシステムが疲弊して壊れると、過体重となり肥満になるのです。
たとえばこういうことです。息を多く吸えば多く吐くし、水をたくさん飲めばたくさん排尿するし、たくさん食べればたくさんのエネルギーを生みだすし、少しだけ食べればエネルギーを少しだけ生みだす──このように体内で自動的に調整されています。息を吸う・吐く、水分の摂取と排出、カロリーの摂取と消費は、人体の生物システムなのです。
カロリー計算による予測よりも体についた脂肪がはるかに少なかったのは、この「多く食べればエネルギーを多く燃やす」仕組みのためです。「食べる量が少なくなればエネルギー消費も少なくなる」仕組みのせいで、従来のカロリー計算法によるダイエットが95.4%の割合で失敗し、リバウンドしていっそうの体重増加につながると考えられます。
過去のダイエットに関するすべての研究で、摂取カロリーが過剰でも不足しても、計算によってはじき出された数値どおりに、脂肪が増えたり減ったりは決してしないことが証明されています。
食欲をコントロールする視床下部は、私たちが口にする食品と、燃焼するエネルギーと、体内の脂肪量とのバランスを保ち、体重を調節しています。
私たちはわざわざ、食べる量を減らそうとか、もっと運動しようとか考えなくていいのです。それどころか、その単純すぎる考え方は、セットポイントが「比較的狭い範囲内で体重を維持する正確かつ強力な生物学的システム」であるという堅固な科学的根拠と相容れないと、ジェフリー・M・フリードマンは語っています。
長期的な健康とスリムな体形をめざすなら、フリードマンの言う「正確かつ強力な生物学的システム」の「比較的狭い範囲」におさまっている体重を下げなくてはなりません。そのためには、セットポイント体重を上げる原因をつきとめ、それを下げる方法を探る必要があります。
※以下で記述されるものは第一に愚痴であり、第二におそらく特殊な事例です。一般化して生活の知恵とすることはできないのではないかと私は思っているので、時間を無駄にしたくない向きや面白おかしく楽しい記事を読みたい向きはアレしてください。
※一応申し上げておきますと表現規制方面とはなんの関係もないです。
私は今日(8月31日)、ディナーとしてお好み焼きを食しました。母が心をこめて拵えたもので、大変おいしゅうございました。
ただ、その大きさが私の腹具合に対してある意味で威圧的であり、私はお好み焼きの傍らに鎮座する白米をなかったことにしました(単純に食べなかったということです)。
食事後、麦茶を飲みながら家族でバレー女子のワールドグランプリを観戦していた折、父がおもむろに戸棚からせんべいを引っ張り出してきて、母と私に勧めてきました。
これに母、「おせんべいを食べられるならご飯も食べられるでしょう」と反応。御意にござります。食わざるもの食うべからず(Google検索結果 5件)。
次の瞬間発された、母に対する父の言葉こそ、私から言葉を奪ってそのまま姿を消した、犯人です。
「そういう言い方をされたら、『じゃあいらない』と言いたくなってしまうよ」
まず前提として、父がせんべいを持ってきた時点で、私にせんべいを食べる気はありませんでした。私のぽんぽはお好み焼きで満たされており、満腹中枢は「いや本気出せばいけるよ?いけるけどねー、今ちょっとそのタイミングじゃないと思うんだよねー」とのたまう体たらくだったのです。
思い返せばそのときにいらないと言えばよかったのですが、TVはデュースを告げており、正直せんべいどころではなかったので生返事をしてしまったのです。そこへ母です。
「おせんべいを食べられるならご飯も食べられるでしょう」発言には、口ぶりに冗談のニュアンスも含まれてはおり、「そもそもすでにお腹いっぱいです」と応えれば意地っ張り感はまだあまり出さずにせんべいとお別れすることができたでしょう。しかし相手国のセットポイントに気を取られた私に隙はありまくりでした。
次の父の発言「そういう言い方をされたら、『じゃあいらない』と言いたくなってしまうよ」に対しては、もう打つ手はないように思います。これに乗っかってせんべい不要論を唱えても、その言葉に信ぴょう性は与えられず、両親に私が意固地になっていると思われることは必至です。もちろん、どちらかあるいは両方とも食べるという選択もありえません。お腹いっぱいなのですから。
最も良くないことは、ここで私が何も言わないことによって、両親の心に「私はせんべいを食べたかったのだ」という認識が帰結してしまうおそれが十分にあったことです。
この状況では、私はどうあがいても、またあがくことをしないでも、せんべいが食べたかったことにされうるのです。私の意志を置き去りにしたままで。
以上が今宵(31日)私の身に起きた大きな悲劇です。ここまで読んでくださった方には、労りと感謝の念を着払いでお届け致します。
もし上記の愚痴の内容に関わりのある、またはまさにそのものを説明している社会心理学その他学問的な文献などご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひお教えいただきたいです。と思っているのですが、増田ではそういうことは基本的になされないのですかね。はてなは勝手がわかりません。でもクレクレ文は書いておきます。