はてなキーワード: シリアスゲームとは
「突き上げ」ねぇ...
137 名前:枯れた名無しの水平思考[] 投稿日:2009/09/08(火) 15:17:29 ID:Ekbq7chy0
武器の名前だからといって、名詞である必要はない。文章、あるいは単文でいい。
これは数年前から各社開発部にメールで提唱させていただいてるんだがねぇ。
まあ、素人さんの意見を”使わせていただく”のは「ぷらいど」が許さないってか?
いかんでしょ
とか
73 枯れた名無しの水平思考 2009/09/08(火) 13:12:23 ID:Ekbq7chy0
ゲームだから子供向けなのは仕方ないが、リオレウスとかティガレックスとか
ここまで多数派プレイヤーが350万人もプレイしているのだし、正直
名前はもう少し年齢層を上げて欲しいと願う。
ミラボレアス→ザ・デス
みたいな。これくらい言葉遊びやテーマ性を込めた名前。海外で売れないのは
と同じ匂いがする
http://anond.hatelabo.jp/20130528133141
世の中には色々な考え方があるのに、立場や状況によってモノの見方が変わることを理解できない原因が想像力の欠如にあるというのは、そうだと思います。でも読書をしないと想像力が欠如するというのは、違うんじゃないかなー。読書ばかりしてる人は、それはそれで想像力が欠如するんじゃないかなー。この方の書いた記事を読んで、そう思いました。
この記事を書いた方は、「時間を消費した代わりに、現実世界で役立つ知識が得られないと、意味がない」という考えが根底にあるように感じます。そして、現実世界で役立つ知識を得るには、読書が最も効率良いと考えてるのではないでしょうか。
実際に体験せずとも、いつでもどこでも知識を得られるというのは読書の良い点ですし、効率が良いとも思います。でも本以外にも、テレビやラジオ、映画、インターネット、その他のメディアも、充分に効率が良いんじゃないですかね。また読書では得がたい、実体験から会得できるような知識もたくさんあるんじゃないですか。それに、何らかの体験から得られるものは知識以外にも、富とか名誉とか、その他の何かとか、それらにも価値がありますよね。
実際には体験せず、擬似体験で知識を得ることもできます。私はビデオゲームが大好きなんですが、ビデオゲームにはそういう可能性があるように思ってます。わかりやすい例だと、シリアスゲームと呼ばれてるようなやつですね。『シムシティ』とか、そういう可能性を感じます。
ところで近ごろ私は、『銃・病原菌・鉄』の文庫版が出てたので再読してるんですけど、いやー、面白い。この本を読んでると、『シヴィライゼーション』というビデオゲームは実にうまく人類史をデフォルメしてるなあと思えてきます。
「肥沃三日月地帯とかズルくね? メソポタミアの連中はチートだろ、チート。最初に建てた都市の周りに、小麦と牛と馬と豚と羊と、全部あるじゃねえか。ワシの周囲にはトウモロコシしかありゃしねえ!」(インカ帝国のワイナ・カパックさん談)
読書以外で価値観の壁を超える方法が理解できないという点で、えらく狭量な方だなあと思いました。この方が書いてるのは結局、「趣味が合わないと話ができない。自分の趣味に合わせてみんな本を読め」ということじゃないですかね。
ゲームも新興宗教も、それ自体はコミュニケーションの妨げにはならないはず。コミュニケーションの妨げになるのは、自分の見える範囲しか見ず、それを絶対だと根拠なく信じこもうとする心持ちじゃないでしょうか。定番の決まり文句を言うと、書を捨てよ、町へ出ようってことですかね。そしてビデオゲームを買って家に帰ろう。今なら、『真・女神転生IV』が面白いらしいですよ。
日本で始球式をすることも決まっている、話題のサンデル教授の本『これからの「正義」の話をしよう』を読んだ。
シリアスゲーム的な考え方だと思った。押し付けがましくなく、それでいて熱意がある。
ダン・アリエリーの「予想通りに不合理」では、行動経済学として人々の社会規範と市場規範に焦点を当て、さまざまな実験を通して規範の適用の仕方を検証している。
サンデル教授はこれまで社会規範の適用されてきた社会に市場規範を適用するという最近の風潮を危惧している。
それは、アメリカのみならず、諸先進国においても同様だろう。GDPでは幸福は測れないということだ。
そうした現状で、公正な正義を一人一人が認識しようとすることは社会の幸福への試金石になるかもしれない。
宮台真司の推薦文にもある通り、サンデル教授はコミュニタリアン(共同体主義者)だそうだが、一部のコミュニタリアンにとっては違和感のある呼ばれ方だそうで、その原因は「正義は個々のコミュニティが好き勝手に定義したものに過ぎないという相対主義的見方を表しているように思える」からだそうだ。
つまり、コミュニタリアンと呼ぶ側(功利主義、自由主義)がコミュタリアンの物語の探求という考え方を見落としているということだ。
NHKの白熱教室を観た方はわかると思うけれど、サンデル教授は功利主義、自由主義、そして共同体主義を実際に起きた問題や思考実験によって人の正義と自由、正義と権利、自由と権利といった問題を焦点に繰り返し問題提議、検証していく。
5章以降のカントの示した人生観やロールズの考える自由は、より具体的で、わかりやすく、刺激的だ。
人生観で特に印象的だったのは、マッキンタイアの「物語の探求としての人生を生きる」という考え方だ。
自由を追い求める考え方は目的論を独善的とみなす。しかし、現実的には人々は人生という物語を解釈している。
自由に選択できることが真の意志の尊重とするが、
物語の探求という生き方は、アドベンチャーゲーム、ロールプレイングゲームのようにマルチエンディングのような、または、SF的な多世界解釈に近いと思う。
そして、それは強烈だ。これからの諸問題との対峙する時、コミュニタリアンの正義に対する捉え方は安易な自由や平等主義よりも解決への熱意を持っている。
サンデル教授は功利主義、自由主義、共同体主義という選択肢を検証し、最終的にトゥルールートとでもいうように納得させる形で共同体主義への道筋を示した。
心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱されたフロー体験というものがある。
フロー(英語:Flow )とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。ZONE、ピークエクスペリエンスとも呼ばれる。その概念は、あらゆる分野に渡って広く論及されている。
チクセントミハイが見たところによれば、明確に列挙することができるフロー体験の構成要素が存在する。彼は8つ挙げている。
2. 専念と集中、注意力の限定された分野への高度な集中。(活動に従事する人が、それに深く集中し探求する機会を持つ)
4. 時間感覚のゆがみ - 時間への我々の主体的な経験の変更
5. 直接的で即座な反応(活動の過程における成功と失敗が明確で、行動が必要に応じて調節される)
6. 能力の水準と難易度とのバランス(活動が易しすぎず、難しすぎない)
フローを経験するためにこれら要素のすべてが必要というわけではない。
(フロー:wikipedia [ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC ])
目的論的な解釈や考え方はフロー体験を促しやすいのではないだろうか。
自己実現理論(じこじつげんりろん)とは心理学者・アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものである。又、これは、「マズローの欲求段階説」とも称される。
2. 安全の欲求(safety need)
3. 所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
4. 承認の欲求(esteem)
5. 自己実現の欲求(self actualization)
の5段階に分類した。
自己超越
マズローは晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると発表した。それが、「自己超越」(self-transcendence)の段階である。 自己超越者(transcenders)の特徴は
1. 「在ること」(Being)の世界について、よく知っている
5. 深い洞察を得た経験が、今までにある
6. 他者の不幸に罪悪感を抱く
9. 聡明である
10. 多視点的な思考ができる
11. 外見は普通である(very normal on the outside)
マズローによると、このレベルに達している人は人口の2%ほどであり、子供でこの段階に達することは不可能である。 マズローは、自身が超越者だと考えた12人について調査し、この研究を深めた。
(自己実現理論 :wikipedia [ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96 ])
フロー体験や自己超越といった段階は、ただ安易な自由や平等を考える以上に、個々人が社会で生きる目的を認識することが重要であることを示しているように思える。
無意味に規制されてしまう可能性がある時期にだから性質が悪い・・・
ありきたりだろうけど考えを整理するためにもつらつらと書いてみる。
なぜこういうときにゲームが問題にされるかというと
「事件の発想の元になったから」と
「欲望を刺激したから」の二つが思いつくわけだけど、
殺傷の場面はいくらでもあるわけだから、
ただ単に選んだ発想が多くの人を傷つけるものであっただけで
その発想自体に非を問うことはできない、というのが順当な考えに思える。
例えば性表現でも「寝た子を起こさない」という言葉が用いられることがあるが
発想を規制することは大人に対しては想像など内面の自由の侵害でしかなくなる。
仮に発想そのものを人類から規制し消滅させるSF的な仕組みがあったとしたら
次に「欲望を刺激したから」について考えると
人は誰しも程度に違いがあれ欲望を抱くもので
重要なのはそれを実行に移すかどうかということになる。
コストもリスクもほぼ無いといってよく社会的にもポジティブな要求と評価される。
行動はそれらリスクの認識よりも欲望が強くなったときに行われるわけだが、
ゲーム単体にそこまでの欲望の強化作用があるとは考えにくい。
むしろそれができるならゲームにまた違った可能性が開けるといってもよさそうだ。
(シリアスゲームで米兵の初陣で戦える率が向上したという話はあるが
それは慣れであり、欲望の強化ではない )
つまり、この事件で本来一番最初に考えるべきは
自暴自棄になることで欲望より認知したリスクが低い状態になっていたことと思える。
希望がない、死んでもよいという状態であれば
あらゆるリスクが0に近くなりゲームの模倣に限らず犯罪を起こしうる可能性は飛躍的にあがる。
ゲームを規制するよりもそういう状況にある人を減らすほうがよほど効果は大きいはずだ。
それを踏まえずにスケープゴートとしてゲームやゲームを遊ぶ人を叩くのは
同じような状況にある人をさらに追い詰め、逆効果であるとすら考えられる。
事件の背景として日本がいまだ年3万人の自殺大国であることも忘れるべきではない。
規制はそもそも下策であり、初めに考えられるべき上策は
上記の自棄になってる人に生きる希望を与える、ということも含めて
なぜ人を殺してはいけないかなどの感性の強化や
欲望を自分自身で制御する考え方の伝達、
欲望を抱くこと自体を理解・許容しての事前のカウンセリングの普及などで追い詰めない、
といったことだと思えるんだけれどなぁ。