はてなキーワード: カットアウトとは
広義の「いじめ」はなくならないよ
みたいなのが沢山湧くが
実際はもっと混然としていて
・借りた本のカバーをなくす奴とか
・他人の食べてる物を必ず欲しがる奴とか
(結果としてクラスで白い目で見られる)
これが子供の話となると、その子に責任はないとか言い出す馬鹿が現れて
小学校辺りじゃセンセーが「仲良くしてあげて」とか聖人面で言い出し逆に悪化させる
繰り返すが、大人が相談していたら「縁を切れ」と簡単に言う状況だが
子供だと言うだけでそれが許されない
こういうレベルの話から、あいつちょっと顔が良いからって調子乗ってるから潰すみたいな悪意までを
何でもかんでもイジメに放り込んで
その上で最悪のケースを声高に叫んで
とか
低能も良いところだ
なんてクッソ下らない事を押井守作品で撮影監督をしている江面久氏のブログを読みながら考えてしまった。
彼は今後の日本のアニメ業界の為にも既存の作画技法だけでなく、欧米の2Dカートゥーンに使われているカットアウト(切り絵)アニメーションの手法を取り入れるべきという提案と実験を何年も前から試行錯誤している。
(最近だとネトフリで公開された4K・HDRアニメにも関わっていた人だ。)
カットアウトアニメーションとは動画を一枚一枚作画するのではなく、例えば人物なら顔や髪、目、口、腕、胴体……etcの素材としてバラバラに分けて作り、その後3DCGの様にリギングを組み込み合体させて、デジタル上でペープサートの様に動かす手法だ。
これを使うと従来の手書きでは難しかった絵画の様なディテールを持ったキャラも動かすことが出来て、更にフレームレートも24fpsから30,60,120fpsと自然に変換することも可能だという。
これを書いている自分もつい最近知った手法で上手く口で説明できないけれど、概要を教えてくれる動画があったので見てくれ。こんな感じ
問題は、日本のアニメ業界に、カットアウトができるアニメーターがほぼいないことです。やりたいことに対して、全然追いつかない。人手が絶望的に足りない。私ひとりでできる量なんて、大したことないのよ‥‥。日本でもカットアウトをやる人が増えるといいなあ。
んで前述のブログのこの文章と上記の動画を見ていたら、「ん?クオリティは兎も角、いま日本で一番カットアウトアニメーションを制作している集団って実はBB先輩劇場で素材を作って遊んでいる淫夢厨なんじゃね?」って考えが脳裏に浮かんだ。
夏を追いかける先輩BBとか正に説明の通り野獣先輩の画像をバラバラにして再構成したカットアウトアニメーションやんけ!!
ニコ動はオワコン、中国のbilibili動画にクオリティも完全敗北、ネット文化の負の側面の掃きだめ、LGBT差別の元凶と嫌われているニコニコと淫夢厨。しかしBB先輩の素材製作者が日本のカットアウトアニメーションの一翼を担う可能性が微粒子レベルで存在していると考えたら、ちょっとこれは面白いことになるかもしれない。
ビームマンPみたいな炎上案件になる可能性も勿論あるけれど、もしこれを読んでいる淫夢厨がいたら、野獣先輩を玩具にする為に使っている技術を別方面に使おうという志を持ち、日本アニメの未知のエリア♂へ旅立ってみるのもありかもしれないぞ、という提案をしてみる。
新入社員24歳、男。超長文です。話長いと思う方は、適当に読み飛ばしてもらって結構。
入社研修のどえらく辛い状況と、失恋で自分がどうしようもなくなった状況が重なってしまい、この1週間死ぬかと思った。そして今後の人生についても正直絶望している。
失恋は初めてではないが、落ち込み方が下手すぎて、仕事に集中できない。
読めばわかると思うが、明らかな地雷っぽいのを見抜けなかったあたり、恋愛経験は少ないことはお分かりいただけるだろう。
研修では、1日のほとんどが私語禁止なので、仕事の件で悩むうちに1人で頭を抱えてしまう。さらに失恋に関する地雷が誘爆しだすと、元気な自分はもう帰ってこない。よくアドバイスされる、思考停止できる多忙とは正反対の状況。
一応恋愛に関していえば、いま自分は「諦めることを受け入れようとしている段階」にあって、前進はしているのだろうけど。。。
3年目に切り出された突然の別れ話で生きるのが辛い
http://anond.hatelabo.jp/20170310185744
日記を書こうと思ったのは、これをいま改めて読んだから。ひと月前にこれを読んだ時は、まさか私が同じ気持ちを味わうことになるとは思っていなかった。あの時はまだ自分が上手くいく可能性をバカ正直に信じていた……。
相手の子とやりとりするようになってから関係を切るまで、期間にして半年。
私は恋愛感情として好きだったが、相手にとってはあくまで「一番仲の良い、一番話が出来る男友達」。
互いに意地でもその気持ちを捨てなかった結果、会うたびに辛くなる状況になったので、私の方から「友達としても縁がなかったね。」とカットアウトするに至った。この選択は間違っていないと思う。
誘ったデート。2か月前から楽しみにしていた、行くはずだったライブ。
イベントが好きで、一緒に行く人も大好きな人で、最高に幸せだっただろうに。これが完全になくなってしまった。
そして今後一切、その手の楽しみが(その子と)味わえないことを思うと、どうしようもない気持ちになる。
「あの子に会いたい、話したい、一緒に笑いたい」と心が叫んでも、それは二度と、絶対に叶わない。
それを実感するたびに、身体まで悲鳴をあげる。ここから立ち直るのにどうしたらいいんだろうか。
ちょっと自分語りさせてくれ。もう二度と思い返したくないから、吐き出してしまいたい。
初対面は、とある合コンの時。そこですごく自分に懐いてくる年下の子が居た。
おとなしそうな子。だけどルックスは可愛いし、普段無口そうに見えて、自分と話すときだけ本当の自分?みたくよく話す。そのギャップにグッときた。
またその笑い方がちょっと不器用で、人と接するの慣れてなさそうなのがなおさら愛おしい。
そんな子に、飲み会後わざわざ自分を名指しで「い、一緒にプリクラ撮りましょうよ!」なんて言われたら、女慣れしてない奴は一発KOじゃないですか。自分もそうでした。
とはいえLINE交換しそこねてしまい、しばらくは何もなかった。
その子にまた会いたかったので、その子の友達と仲良くなって、自分が主催した。
その時はしっかりLINEを交換し、やりとりが始まった。
会話をするようになって少し経って、2人で食事に行かないかと誘った。そしたら「そちらのあのAくん(後輩)も呼んでください!」と。
脈絡のないご指名に「この子、Aと合コンで仲良かったし気があるのか?」と嫌な予感がよぎる。
でも、私にとって可愛い後輩だけど絶対モテなさそうなAよりも、自分の方が圧倒的に魅力があると思い込んでたので、その可能性をすぐに棄却。
それで、3人でメシを食ってきた。
その中で向こうの失恋話になったので、次はそれを聞こうと2人で会った。
自分も失恋経験があったので、互いの失恋話で、元恋人の悪口で、めちゃくちゃ盛り上がった。
これを機に、その子とLINEのやりとりを続けつつたまに(2人で)会う仲が1,2か月続いた。あらゆる手を尽くして、彼女と仲良くなるように努力した。話題のストックは常時10個以上あった。会う時は30個くらい用意した。
話好き同士、ちょこちょこLINE、月2,3回会うのに加えて月2,3回通話。これも毎回1,2時間くらい。
それに対し向こうは
という返事。
微妙……だけど、私のことそう慕ってくれてるんだったら、時間さえ待てばまだ可能性が有るんじゃないか。この時はそう思った。これが最初の勘違いだった。
この後も、「また遊んでください」の言葉を信じて遊びに誘い、2人で映画行ったりカラオケ行ったりしたけど、そのたびに私は別れ際「やっぱり可能性ないかな?」と切り出して「いやー、恋人はムリですね」と断られる。
それでもいつかはこっちを向いてくれるだろうと無根拠に信じていた。
そんな中、3月のある日、観たい映画DVDを2人で見ようという事で、カラオケに行くことになった。
ちょうど、先述の「3年目の~~」を目にして他人事に思っていた頃だ。
「せっかく集まったのに……」と2人で途方にくれたところで
私は往生際悪く、距離を縮めようと
「じゃあ、うちで見る?安上がりだし、自由だし」
と家に誘ってしまう。
家に来ることに。
そうして、一つ屋根の下で2人きり。
やっぱりこの子は、私にここまで心を許してくれてるんじゃないか。また期待を抱いてしまう。
彼女はまるで自分の家のようにくつろいでいた。映画が2,3本目になると、ストッキングを脱ぎ、クッションに枕しうたた寝しだすご様子。なんと無防備。
私も年頃の男子である故、目の前に妙齢の女子が無防備に横になっていて、しかも密室で誰も咎めない状況というと、頭に浮かぶことは一つ。
それでも、過去、同じ状況で手を出した結果絶交に至ったこともあり、今回は誓って手を出さないことにした。
結果、何事もなく解散。
「わたし、次は案内無しで行くんで大丈夫ですよ!」なんて嬉しいことも言ってくれるし。これが勘違いを加速させるわけだ。
こういうのは会った後がしんどい。
そしてまた先日、この前の日曜日。家で、今度はアニメを観た。家に来るのは2回目だ。近所までは来れたが、迷ってしまったみたいで、迎えに行った。
「次来るときは絶対にもう大丈夫ですから!」なんて、また嬉しいことを。こっちの気も知らずに。
「あ、前より部屋が綺麗になってる!」「トイレも華やかになってましたね!」と、ささいな変化に気づいてくれる。嬉しい。常連にまでなったか?って思う。
だが、こういう関係性の接近を、もう単純には喜べなくなっていた。
私は「彼女と恋人になりたい」という意志があったこと、それがまだ残っていることは明白である。
向こうも「あなたと恋人になる意志はない」という意志は明白。でもそれでいて、向こうはさらに距離を縮めようとしてくるのだ。もう、わけが分からない。
私の気持ちを完全に無視している、踏みにじっている、都合の良い男扱い?
向こうは(恋愛として)相手に接近を許さないくせに、自分の方は親友の関係性に甘える。このアンバランスな関係。
会った後がしんどいわけだ。自分の方だけ全然満たされていないから。
その日、私は「もうこうやって家に来るのは止めよう」と切り出した。
理由は「友達としては距離が近すぎる」。その子は納得してくれた。
そしてもう最後だろうということで、彼女は名残惜しそうに部屋の隅々まで眺めて、目に収めようとする。
もう、やめてくれ。これ以上、私の部屋に思い出を残さないでいってくれ。
その日の夜、シャワーを浴びながら。
その子との関係性を離さなければならないことと、会社のしんどい研修が1週間始まることを思うと、人生にはもう何の楽しみも無いんじゃないかと、深い絶望を覚えた。自殺の2文字が頭をよぎった。
そして先日その子と、一応最後の会う予定になっていたライブの話をした。
2か月前からチケットをとって、それに向けてアーティストの曲を聴き込むなど予習もしていたので、それだけはキャンセルできなかったライブだ。
そこから、後輩Aくんが、私のツイートを見て心配しているという話に。
「(後輩Aも入れて)3人で遊ぶことはもう無いんだね」と言うから、話を聞いていくと
そのままの流れで、その子から後輩Aに好意があることを告げられた。
どうやら、最初に僕から食事に誘われて、脈絡なく彼を呼んだ時。
その前の合コンで喋っていた時からなんとなく好意はあったらしい。
そこから僕がどれだけ恋愛的に距離を縮めようとしても、友人枠しか空いていなかったのだ。
それに気づかなかった私がバカだった。
そしてこうなってしまった以上、ぼくもその子とも、後輩Aとも会わせる顔がない。
会うのも話をするのもしんどいので、ここで縁を切ることにした。
まぁ、こうやって思い出してしんどくなってるんだけども。
私も向こうも、自分のことがかわいくてたまらず、自分の感情に関して融通が利かない人間なのだ。似た者同士。
互いが互いに「相手は自分の思い通り(都合の良い方)に動く」と思ってダラダラ曖昧な関係をつづけた結果、気持ちの差違が決定的になって、別離を迎えた。
私は(おそらく向こうも)自分や他人に甘いところがあり、「ひょっとしたらしばらくして自分の思い通りの関係になるかも」という期待を抱いてきたんだろう。これまで。認知の歪み、というやつ?
しかしもうその可能性はあり得ない。今はその現実に向き合っているのだ。
思ってみれば、正直一目ぼれだったんだな、と思う。
なのに告白のタイミングが遅すぎて、友人としてしか見てもらえなかった。
次は、後戻りできないくらい気持ちが重くなる前に交際を申し込むようにしたいと思う。
それと、手広くいきたい。
……って頭では分かってるんだけど、そう簡単に気持ちの整理がつくわけねーよおおおおおおおおおおお!!!!
結局これなんすよ。これを早く消し去りたい。消化してしまいたい。
この1週間で10人くらいに事情話したけど、それでもまだ足りないくらい。
正直、家に来た時に手を出して既成事実を作ってしまえば、勝手に向こうが気持ちを適応してくれたのか??処女だし家だし2人きりだし。あーもうわかんね!!!
そういう過去のifとか、ライブとかドライブとか行こうとか言ってた未来のifとか全部諦めて捨て去らないといけないんすよ。
その子と遊ぶこと、その子の力になることに最大最高の価値を置いていた自分をぶち壊して、価値観を再構築しなければならない。
でもこの部屋に居ると、あの子を部屋に呼んだ時のことを思い出してしまい、全く落ち着かない。毒沼。休まらない。引っ越ししてえー。まだここに来てひと月も経ってないのに。
思い出すヒマがないくらい、考えるヒマがないくらい何かに没頭したい……。しかし修行のように無言で自分と向き合う研修で、それも叶わない。
八方ふさがりよ……。
というわけで、気持ちの切り替えをしようと色々頑張る気力さえ持てない状況なんですが、それでも気持ちの整理が出来る方法を教えてください。
いつも謎なのは、勉強の内容自体には理由や文脈まで把握することを求めるのに、形式に関しては最終的には盲目に受容しなければならないという理論でカットアウトしてしまう場合がよく見られること。理性的でもないし、勉強させる効力もない態度で終わってしまう。
たいていこの話は勉強できる人たちと勉強できない人たちが交わる場所で生じる。だが、勉強できる人たちは勉強に苦を感じないので勉強する理由を探索する必要がない。また一方で、勉強できない人たちは勉強する理由を欲しているけれども勉強をできないのでその理由を探索できない。
だから、この手の話で一番納得がいった答えは、なんのために勉強するか分かるようになるために勉強するってことかなと思う。
なんで勉強するのかわからないならば、勉強して分かるようになればいい。それは勉強してみないとわからない、勉強してもわからないかもしれない。けれど分かるようになることがある。勉強をする理由が知りたいならば勉強するしかない。
つまりこれは勉強できない人たちに宗教的決断を促す行いなのだ。
なので、勉強する理由がわからないのに勉強しなければならない人には、勉強を続ければ言葉では表せないけれどなぜ勉強をするのか分かるようになるという宗教的事実(?)と、それまでの間に苦痛なことを耐えるためのテクニックを指示するっていうのがベストであるように感じる。それ以上の理性的ななにかが用意できるのだろうか。ほんとうは信仰心なんてものに頼ることは理性の観点からは望ましくないのかもしれないけれど、まずは宗教者が正しいということを受け入れる心性がなければ理性は手に入らないという仕組みになっているように思う。理性が手に入ってからようやく勉強する理由にたいしてどうこう言うことができたり、それを理解したり実感できたりする。それまでは信仰しなければならない。
はじめの段階でこれを受け入れるにはある程度知的活動による充実感を得たことがあるという宗教体験がすでにあるか、あるいは他の場面において日常的に信仰心をもつという習慣があればよいようで、実際にそういう人たちは勉強する理由を理解していなくても勉強を続けられるみたいにみえる。