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はてなキーワード: エコキャップとは

2020-10-18

エコキャップって無駄が多すぎる

中学生の頃、厚生委員会委員長を務めた。ペットボトルキャッププルトップベルマークを集めることが主な委員会仕事だった。環境問題について考え、社会にどのように貢献できるのか。そのような目的を掲げた委員会だった気がする。

実際はそんな高尚な目的など上っ面なだけで実態意味があるのか正直疑わしいものだった、と現在自分は振り返りながら思う。

ペットボトルキャップを集めれば環境保護になるし集めた数だけ発展途上国ワクチン活動に貢献できる。エコキャップ活動だ。これが掲げられ、委員長が毎年変わる中学校では活動が慣習的に引き継がれてきた。何も考えず慣習的に実行していた。私たち本来必要目的を見失い、地域ゴミ箱を漁りまわったりクラス雰囲気という圧で半ば半強制的に集め、どのクラスが一番多く集めることができるか競い合った。例年はどうなのか興味もないし覚えてもいないが、個人的には学校内を盛り上げることができた。これは私の成果ではなく、自分担任先生学校を盛り上げるのが上手かったのと、委員会担当先生委員に対する圧力指導方針がよかったのである中学校先生立場がとても強かった。自主自律を掲げる高校に進学し、とある委員長になった私は大失敗した。高校では生徒が主体的活動しなければならなかった。私には荷が重すぎた。中学校の頃の私は先生傀儡であり、私には物事を動かしていく行動力目的意識が欠けているのだと思い知らされた。

ゴミ箱から集めたペットボトルキャップは汚いので、学校に持ち帰ってシールなども剥がしキレイにする必要がある。水もたくさん必要だし、乾かす時間労働力必要だった。クラス全員とまではいかないものの、何人かで協力したので、文化祭の準備みたいな青春の甘酸っぱい思い出にはなっている。手は色々な清涼飲料が混じった甘酸っぱいベトベトで覆われていた。いい思い出の反面、今思うと完全に無駄ばかりだった。大量に水を使うことは直接的に環境に悪だし、乾かしたりする時間労働力という面でも部活をしたい人からすれば無駄に極まりない。数さえ集まればよくて、自分クラスが目立てるのであれば、という意識盲目にさせた。

そもそも学校ペットボトルキャップを集めるというのも結構意味がないことらしい。家庭で発生したペットボトルキャップを回収して学校へ持ってきたり、ゴミ箱などからキャップを回収する。汚いキャップシールのついているものキレイにしたりシールを剥がす。回収した分はまとめて、配送業者を呼んで回収業者へ送る。配送業者を呼ぶにもお金がかかる。そのお金寄付した方が良いだろう。私の代は、先生の車でキャップ回収を行っているスーパーに送ったっけ?だと配送業者は使っていない気がする。もう覚えていない。ゴミ業者ペットボトルキャップ密度の差によって分別するし、元から回収されるペットボトルゴミ箱から回収しするのは本末転倒である

本来の「環境問題意識を向ける」という目的に基づくならば、家庭内ゴミ分別の具体的内容を伝えるとか、生徒の意識調査をして向上に繋げるとか、根本的かつ最終的に効率のよいやり方があったはずだ。でも目に見えやすい”実績”には表現しにくいから小中学校では通用しにくいのかもなぁ。色々と調べて、エコキャップ意味を伝える紙面を作ったことがあった気がするけど、そのときに現状の活動無駄ばかりであることに気づくべきだった。

詳しくは知らないけど、最近ゴミ有料化とかプラスチックストロ廃止とか、色々と環境に対する活動があるようだ。それらに根本的に効果がある方法なのかは知らないけど、目先の”実績”にばかりに盲目的にならず、長期的な目をもって自分活動意識を向けていきたい。

嵩張るけどお出かけのとき水筒を持参し、出先でペットボトルを買わないようにしている。実際はペットボトルを買うお金節約したいだけなんだけどね。

2020-06-08

レジ有料化エコキャップ回収…こういうことが堂々とまかり通ってしま日本

中世すぎて泣ける

2017-01-11

エコキャップってエコキャでとまればそれなりにかわいくみえるのにね

2015-11-16

facebookトリコロール問題と小さな善意の積み重ねによる世界崩壊

facebookプロフィール写真トリコロール調に変更できることに対する論争について感じたこと。

僕としては、トリコロール調に変更するような善意第三者による小さな善意の積み重ねって世界にとって必ずしもプラスじゃなくて時には世界崩壊に繋がる壊滅的なダメージも与えうるって考えている。今回のトリコロール調への変更が、世界全体にとってマイナスになりうることかどうかわからないのでよく議論するのがいいのかなと思っている。

多くの人は、「小さな善意の積み重ねが世界をよくしていく」と信じているように思う。元気玉ベジータ魔神ブウを倒したように、小さな善意が大きく集まれば巨悪も倒せると信じているように思える。学校の授業でも「世界森林破壊を救うために割り箸は使わない」など、一人一人の小さな善意の積み重ねで世界が少しずつよくなるというストーリーで溢れている。

こういったストーリーが当てはまるものもあれば、逆に世界を悪い方向に導く善意の積み重ねといったもの存在している。

例えば、エコキャップ運動なんかはそもそもキャップを集めて輸送費を負担して送るぐらいなら「世界の子供にワクチン日本委員会」に直接寄付した方がいいのに、わざわざ収集する手間をかけてエコキャップ推進委員会のよくわからん理事おっさん仲介手数料を取るというモデルになってしまっている。

世界破壊に進めるという意味で言うと、日本突入した第二次世界大戦も多くの人の小さな善意の積み重ねで突き進んだと考えている。お国のために、祖国のために、お国のために動かない人間非国民だと、小さな善意が積み重ねった結果として後戻りできないところまで進んでしまった。一部の偉い人や軍人が悪かったという総括をしたがる人もいるけれど、恐らく多くの国民は今回のfacebookトリコロールのように、戦争に対する賛成や戦争に行っている人のために弱音をはかないなどなど、自分ができる小さな善意として積み重ねたのだろうと思う。

何も僕は全ての善意の積み重ねが悪い方向にいくとは思っていない。大事なのは「話をすること」だと思っている。周りの空気に流されて考えもなく積み重ねるのもよくないし、善意を積み重ねるのが悪いことだと一方的非難するのもよくない。議論をしようとしているのに、「一人一人が何をしようと勝手でしょ」、「何も行動に移してないやつが偉そうに非難するなよ」って態度もよくない。

今回の例で言えば、トリコロールに変え哀悼の意を示すことは本当に世界のためになるのか、トリコロールに変える意外に哀悼の意を示すことはできないのか、トリコロールにすることが自己満足に成り下がってないか、混沌とする世界理解するために知っておいた方がよい歴史の知識は何かなどなど様々に話し合うことができるのではないか。

特にトリコロールに変えた人が議論を拒絶しようとしたり、何もアクションしない人に対して非難しているように感じて書いてみた。

 
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