はてなキーワード: イベントとは
夢を見た。
夢の内容を記す前に、彼女と私について書きたい。
当時大学に入学したての私達は同じ学部ではあったものの、一度も話したことがない仲だった。
彼女はワンピースに出てくるニコ・ロビンに似ていて、どこかエキゾチックな雰囲気に私は惹かれていた。一目惚れというやつだ。
そんなロビンと私はお互い話したことこそないものの、講義のたびによく目が合った気がしていた。
その後2年生に進級した際、共通の友人の紹介で仲良くなり、やがて交際を始めた。
交際後わかったことだが、ロビンも私が気になっていたそうで、目が合ってたというのは偶然じゃなかったのだ。
お互い一目惚れ通しで、学部内でも仲良しカップルと囃された私達も、大学生である以上避けられないイベントが訪れる。
そう、就職活動だ。
一方私はというと、人から賞賛されるような企業で働きたいということで大企業中心に活動をしていた。
今思うと、人から賞賛されたいという承認欲求だけで就活をしていた私は愚かだったと思う。
そんなこんなで大学を卒業後、大学近郊で働くロビンを尻目に私は配属先で暮らし始めた。
泣きながら別れ話をするロビンに、私は涙一つさえ流れないほど冷めていたのを今でも覚えている。
少々前置きが長くなったが、そんなロビンが夢に現れたのだ。
夢の中で、私達は何故かホテルの一室におり、お互い同じベッドに腰をかけていた。
そこに至る経緯は覚えていないが、確かに同じベッドに横並びで腰をかけていた。
同じベッドに腰を掛ける男女となれば、セックスが始まるのは至極当然のことと思う。
私はロビンの服を順番に脱がせ、ロビンも私の服を順番に脱がす。
お互いが生まれたままの姿になった頃、私はロビンの足の付け根にある黒子を見て懐かしい気分に浸る。
大学の時分、他の男は知らない、私だけが知っていた彼女の秘密だ。
そのままお互い『こうされるのが好きだったよね』と確かめ合うように情事は進み、やがて一つになる。
その懐かしさに溺れかけながら、酔いながら、腰を振る私にロビンは一言私に言い放った。
『ごめん、気持ちよくないや。やめよう。』
その後、同じベッドの中でロビンが私に言う。
『君、昔はいっぺん始めるとさ、自分が最後までイケないと機嫌悪くなっちゃったのに、変わったんだね。優しくなった。』
そこで夢は終わり、目が覚めた。
行きずりの相手、言葉を選ばずに言えば都合のいい相手を見つけては腰を振り、時には相手を泣かせるような酷いこともした。
そんな私が優しいわけがない。
ロビンやその他不特定多数にしてきたことが『優しい』の一言で許されるわけがない。
夢の中のロビンが言った『優しくなった』は、きっと私への罰なのだと思う。
そんなロビンだが、今や二児の母になったと少し前に人伝で聞いた。
効いてる効いてるwww
お前みたいに何の力もないこの世に存在する価値のない人間と一緒にするな
でもどっちも使ったことない
ゲランはイベントでちょっと香りを嗅いだけど、すごく好き!と思うものがなかった…なんていうと界隈から怒られそうだ
思い入れがなく価格は高く、でも香水好きを名乗るなら知っておくべきだろうというブランド
それがゲランだ、私にとって
そんなんだと一生縁がないまま終わりそう
それはそれで別にいいんだろうけど
武内 暁さん: 九条俳句応援団をやっている。各方面の議論が必要で、事実を踏まえて考え、議論する。議題設定を権力側ではなく、市民の側でつくっていくこと。当面ネットワークは各地の表現の検閲や規制の情報提供をよびかけ、共有して知恵を出し合うことをやっていきたい。
だが、その後も行政側の「自主規制」は全国各地で相次いだことから、九条俳句問題で当事者団体の代表を務めた武内暁(さとる)さん(70)らが「問題を繰り返させず、権力への忖度(そんたく)や息苦しさに立ち向かおう」と、同じような問題を抱える全国の人々に「表現の自由を市民の手に 全国ネットワーク」の設立を呼び掛けた。
https://www.pref.saitama.lg.jp/kenpou/bn/R04_11/1122_t365/item/20099/t365_20221122i20099.pdf
1 請 求 人
蓮田市 辻 忠男
・世なおし埼玉県民の会
同じ人物がこれらの社会活動団体として動いているということを明記せずに【市民】というだけの肩書で良いのだろうか?
森友デモ@衆議院第2議員会館前。はじめに実行委より「告発プロジェクト」の発表がありました。安倍総理夫妻を皮切りに「忖度官僚」など次々に刑事告発していくとのこと。写真はプロジェクト共同代表の田中正道さん、武内暁さん。藤田高景さん。
事前登録でSSRキモくて金のないオッサンがもらえる!
本作は弱者男性召喚士となり弱者男性に女をあてがうことで強くする。
基本は育成型シミュレーションゲームだが、イベントバトルでは美少女とのガチ戦闘が発生する。
本作の主人公。元社畜アラサー。ブラック企業を早期退職しニート生活を送っている。倒した美少女を洗脳する能力がある。
【美少女たち】
【弱者男性】
1.普通の男
2.負け犬男
ニートや引きこもりの負け組中年。能力は平均的だが社会復帰が難しい。
3.クソ雑魚男
メンタルが弱くすぐキレる劣等種。能力は低く、どんな環境でも適応できない。
この情報でみんなに差をつけよう!
【名前】
【種族】
【職業】
【身長】
169cm
【体重】
56.5kg
【誕生日】
【年齢】
38歳
【性格】
卑屈な性格で自信がない。自分に自信がないため女性と話すことができない。そのため童貞である。
【趣味】
【特技】
家事全般が得意。特に料理の腕には定評があり、プロ級の腕前を持つと本人は思いこんでいるが実際は出来合いのタレを使った料理しか作らない。
【好きなもの】
【嫌いなもの】
【備考】
顔立ちは悪くないのだが、不摂生な生活をしているため肌荒れが目立つ。
基本的に部屋に引きこもってばかりいるため体力もない。
2時からのラジオのイベント公開生放送を聴くために予定を繰り上げて帰ってきたのになぜその予定をきれいに忘れてのんきにいつでも見られる海外ミステリを面白く見てしまったのか
本当にもう脳がだめかもしれない
https://www.interfm.co.jp/livebuzz
これ
心身の劣化を感じて余計悲しい
もうだめだ
死と同じイベントなんだよね。
妊婦本人は強がってそう言うかもしれないが、他人は「あら〜大変ねえ(可哀想)」って感じだよ。
妊娠出産てそういうリスクを負う人生を賭けたイベントなわけで、バレンタインデーみたいなのとは違うし、「嫉妬で叩いてるんだ」というのも浅すぎるんだよ。
岡崎律子を知ってる人は多くないとは思うけど毎年この時期になると思い出してしまう。
そのうちどこかの記事にまとめるかもしれないけどそうなっても許して欲しい。
2004年3月17日に彼女がリーダーをしていたメロキュアのベストアルバム『目処ディアスハードキュア』が発売された。
彼女の作る楽曲、歌声は俺の荒みきった心にスーッと染み渡る即効性があった。
本当に生活や世の中への不安を共感してもらえたような気持ちになれた。
CDが発売されてかしばらくしてストアイベントをやるとの告知が出た。
たしか突然だったと思うけど当時飛ぶ鳥を落とす勢いで調子にのっていた俺は
「こういうのは発売前に告知しろ!コロムビアは常識が無いのか!?」
「もうアルバム買っちゃったしどうすればいんだ!」
などと思ったのかもしれない。
渋谷のHMVでのイベントはアニソンには似つかわしくない場所だよなと感じたのは覚えている。
そもそも当時44歳の彼女は表に出てくることはほとんど無いのだ。
俺は勇気を振り絞ってヤングの街渋谷の領域に行く決心を固めた。
今にして思えばこれは虫の知らせだったのかもしれない。
イベント当日の2004年4月6日渋谷に場違いな俺、いや、俺達は100人くらいだったと思う。
HMVのCD売り場にちょこっと作られたイベントスペースに集合させられた。
表現は悪いかもしれないが、ソーセージの試食や半額弁当に群がるハイエナの如き様相だった。
ハイエナ共を囲った鎖の外には望月久代も来ているのも確認できた。
明らかに業界人じゃないし通りすがりの一般人でもない普通の人が何人か認められた。
この時受けた感銘は一生忘れることはない、し、この気持に異論を唱える人は誰ひとりいないと思う。
彼女は『ふたりのせかい』では振り付けまで披露してノリノリだった(この振り付けはこの楽曲を耳にするとついやってしまうくらいお気に入り)。
MCでは(別に嫌というわけじゃなかったけど)はしゃぐ彼女と、イメージとの違いに若干の違和感はありました。
相方の日向めぐみも「リーダーはしゃぎすぎだからもっとおさえて!」と訝しげにしていた。
握手会でも彼女は丁寧にコミュニケーションをとっており、日向の流れ作業とは本当に対象的だった。
ものすごい牛歩だったけど、そろそろそのくらいで!とか声を荒げるスタッフはいなかったのも印象的だったな、やるじゃんコロムビア。
そしてそれは突然訪れた。
イベントから1ヶ月後の2004年5月12日に彼女の訃報が読売新聞に掲載された。
俺達は知るすべは無かったかが2004年6月6日の読売新聞の追悼渉によると1年ほどの闘病生活だったそうだ。
2003年の5月に胃ガンと診断され翌月から入院、病室にキーボードを持ち込みでクリエイティブ作業を継続。
(ちなみにこの記事に掲載された彼女の写真は2004年の3月に撮影されたものであった…)。
日向めぐみ、望月久代の「なんて目をするんだ…」という様相は俺達に向けられた侮蔑の眼差しではなかった。
場違いな普通の人たちはケアマネさんかもしかしたら医療関係者だったのかもしれない。
このような状況下で『メロディアス・ハードキュア』は造られ俺達に届けられたのだ。
突然のイベント告知は彼女の体調次第、おそらくは彼女がわがままを押し通したのだろう。
正確なところを知るすべは無い…しかし俺は感じ取ることは出来たのだ…
行きたいイベントがないんだけど
『>ネットがあるから地方だろうと部屋の中でのQOLは都会と大差ない、という勘違い』
これ本当にあるから注意な。イベントとかそうだけど、早起きして朝移動して半日で終わる都会組と、
1週間以上前から計画立てて週末潰してなんとか行けるレベルの田舎組とじゃ越えられない壁がある。住んでみれば判るよ。是非一度失敗してみて欲しい。 anond:20201201184650
誕生日が苦手だ。
祝われたくない。祝うのも得意ではない。
ただ、誕生日を祝う文化自体は悪いものだとは思わないので、他人がお祝いしているのは楽しく見ている。
キャラの誕生日にたくさん投稿される創作物などはとても素晴らしい。とてもしあわせになる。
だが、自分自身は誕生日を祝われたくない。どれだけそう伝えても、分かってもらえないことが多い。
もともと産まれたのが誕生日をちゃんと祝う家ではなかった。時々祝ってもらっても、それは親によるご近所への「ちゃんと円満な家庭ですよ」のポーズで、各ご家庭に感謝の手紙を書かされたりした。
小学校に入るかどうかくらいのころ、祖母が「あんたの母はケーキも買ってくれないでしょうからね」とニヤニヤ笑いながら渡してきた千円札を、母に素直に渡してしまいヒステリーを起こさせたりした。
学校で「誕生日にはプレゼントを渡すのだ」と学んだので、ウキウキでお手伝いをして小遣いをせびり、貯めたお金で買ったプレゼントを母に渡したところ「現金が欲しかった」と言われたりした。
学校のプレゼント交換会で「無理なく渡せるもの」という先生の言葉に従って鉛筆を一本持っていって、イジメにつながったりした。周りはみな豪華景品だった。
これは世間にとって、誕生日がどれだけ重要なイベントかを把握できていなかった自分が悪いが。
あとは、誕生日を理由に会社でコラ画像を作られて貼り出されたとか、欲しいと思っていたアクセサリーを自分の誕生日に浮気相手に贈られた、など。言い出したらキリがない。
そういった細かな積み重ねの賜物で、誕生日を祝われる行為に、さしたる意味を見出せない大人が完成した。
普通に老けるの嫌だ。
大人なので、とうぜん我慢して世間に合わせた動きはする。おめでとうありがとうくらいは言うし、必要ならパーティだって行く。
ただ、気心の知れた人たちには「できれば理解してくれないかな」と淡い期待をこめて「誕生日は嫌いなので祝わないで欲しい」と伝えてきた。
伝わったためしがない。
遠慮しないでとか言われる。
こっちが祝われたくないって話なんだ!
嫌いなら、これから好きになるような誕生日にしようとか言われる。
昔楽しくなかった時点で今楽しく過ごすのは難易度が高いんだよな。昔の記憶が邪魔をするので。
「思い出の上書き」とか無理なんだと気がついてほしい。思い出は全て唯一無二なので、あなたとの思い出も何の代わりにもならない唯一無二である。
人間は産まれながら誕生日が好きな生き物、というわけではないと思う。
結局、誕生日が特別だって思えるのは今まで生きてきた中で培った能力の一つなんじゃないか。
そのへんも多様性ってことで「あーそうなんだね」程度に軽く認めてもらえないだろうか、と思う。
おもしろい。
信頼(しんらい)とは、相手や対象に対し自分の期待した通りの結果が帰ってくることが信じられること。どれだけ信じられるかの定量的度合いを信頼性や信頼度という。
(wikipediaには信用の項目は無し)
イマイチ要領を得ない。社会心理学の用語として載せられている。ここで調べる先を間違っていたことに気づく。
信頼(しんらい)
1. 信じて頼りにすること。
信用 (しんよう)
1. 信じて任用すること。
wiktionaryの定義によれば、信頼は一種感情的なものでさえある。しかし信用は、例えば"信用取引"などという言葉があるように、感情ではなく、どちらかと言えば"合理的な期待"に類似することが分かる。
/* だが、信用と信頼を、意識して使い分けている人が、どれほどあるのか?あるいは、ごちゃまぜに認識している人も、いるのではないか?というのも、私もイマイチ意識していなかったために、こうして調べているのだから。
例えば「そんな人のこと、信用しちゃダメだよ」この文がどちらの意味を(感情か、合理的な期待か)持って信用という語を使っているのか?それは発言及び人物の背景を見ないと分からないと感じる。
形而上の言葉というのはそういうものだろうか。(哲学初心者)*/
信頼とは裏付けも担保もなく相手を信じること。 これもアドラーの言葉です。 信用というのは条件つきで相手を信じること。(引用元)
「信用」と「信頼」では微妙に意味が違う。前者は損得を計算した上で相手を信じる行為を指すが、後者は利害を超えて相手に身を委ねる気持ちがあらわれている。違いを意識した上で英語に訳すと、「信用」は「give credit to s.b.」、「信頼」は「rely on s.b.」というのが適当かと思う。
藤田達蔵著「ガイドとの交信マニュアル」の第5章「交信のコツ」の「5自信を持つ」から以下抜粋する:
「必ず期日までに返済するならお金を貸してやろう」というのが信用です。それに対して、「きっと返済してくれると信じているからお金を貸してあげよう。もしも返してくれなくてもそれはこちらの責任。君を信頼しているから貸すよ」というのが信頼です。
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村上春樹氏は、『村上さんのところ』に収められた読者への返事に自らの考えをまとめた:
長嶋茂雄さんはかつて「選手は信頼するけれど、信用はしない」という名言を吐かれました。要するに配下の選手に対して「基本的にはポジティブに受け入れるけれど、細部に関してはしっかりと疑いの目を向ける」ということなのでしょう。例によって「長嶋語」ですが、なんとなく感覚としてはわかりますよね。
「信用」と「信頼」、「信任」を使い分ける | Web Pages Japanese-English And English-Japanese Wiki | Fandom
木浦 幹雄 / KIURA Mikio @ANKR DESIGN
@kur
テツロー
@punpupuuuun
·
返信先:
@bombombomb2017
さん
事例あります(ドヤァ)で終わること多いですよね。。。なんで?って聞くと、信頼性、コスト、納期ぐらいしか皆さん言わないですし。。。
ここで"信頼性"という語を思い出す。これは「reliability」の訳語だろうか。統計やモノ、サービスがどれほど"そうである"という期待を持てるか、というところか。この概念は信憑性、確実性とも言いかえられる。やや"信頼"からは離れた言葉のようだ。
話が逸れた。まあ、ここまでの感じを見ると、「聞いた話を元に株を買うことと、株を買うために金をそいつに預けること。」は、双方、信用した結果の行動というところか。
信用は、必ずしも信頼を必要とせず、例えば過去の実績や、業績などを理由に行うことができる。という感じだな。
モノに使う場合は、"機能を発揮することの期待"(0/1)が信用で、"可用性、もしくは妥当性を期待すること"(1が継続すること、あるいは1が1であること)が信頼かもしれないが、調べたりないし、もう飽きたのでまたいつか。
不細工で今生は周囲の人間に与える不快感を減らす努力だけすれば良いやと思っていて、美容やおしゃれを全くしてこなかった。
こんなのがファンにいると思われたくないから、イベントやライブには行かない。
何がダメって、筋金入りの出不精だから、それで満足していて改善するつもりがないところ。
多分そんなに他人は私のことを気にしてないし、私だって「あんな人がこの人のファンなんだ」なんて思わないんだけど。自意識過剰なのは生まれつきだから仕方ない。
このまま死んでいくんだよな。生命誕生から35億年間連綿と受け継がれてきたのに、私で終わらせてしまうわけだ。申し訳ないなぁ。
私が得意なことも、もっと得意な人がたくさんいるし。別に人類にいらない遺伝子だから良いか。
良いや。
ライブには他の人が行けば良い。
人口一万人未満の町で生まれて大学時代と社会人数年を都内で過ごして、地元に戻って公務員兼農家やってる自分からすると
・隣の部屋の人に廊下やエントランスで挨拶しても怪しげな顔で会釈されるだけ
っていう都内の感覚になんとなく違和感を持ちながら学生時代や会社員時代を過ごしてきた。
会社を辞めて鬱気味になってた頃は「都会を孤独に過ごす時の疎外感」が身に染みていた。
地元で自分の情報を近所の人が全て知ってたって何も思わないし、むしろ「あれ帰って来てたの?」って言われると「この人知らなかったの⁈」ってなる。
祭りの運営は楽しいし、自分の地区が年番(神輿のコース含め祭り自体を仕切る年)だと気合いが出る。
ゴミの選別(地元では家庭では分別せずにゴミ袋を集会所に集め、自治会で決めた当番がみんなのゴミを分別して処理場に持っていく)は世間話しながらやるから暇つぶしになる。
車を1時間くらい飛ばせばイオンもあるし、車や公共交通機関使えば日本全国どこでも行けるしネットもテレビもスマホもあるから退屈はしない。
仕事をはじめて3週間ほど経った。しにたいくらい辛い。これ以上犠牲者を出さないために、田舎がどれほどクソか、書き記したい。
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首都圏で生まれ、働いていた都会民だった私が、とある事情で田舎で働くことになった。
田舎といっても、人口数十万で、都内へのアクセスは悪くなく、商業施設は充実している。ただ、車がないと不便で、休日に出かける場所がイオンかイオンになってしまうような、よくある地方都市である。
田舎に住んだ経験はないが、私の想像より街が栄えていたので生活に心配はなかった。今ではいち早くここから逃げ出したいと思っている。
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1.人間関係
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他の部署の人や、社員の家族のことなど、ありとあらゆる人の悪口や噂話を、いたるところで言っている。すでに私も、私に聞こえる声で悪口を言われている。
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これだけをきくと、田舎も都会も同じだと思うかもしれない。確かに、噂好き、悪口言いたがりな人はどこの職場にもいる。しかし田舎は、社員の子供がどこの小学校に入っていて、性格がおかしいだとか、来社したお客さんがよく使うスーパーや噂話など、ありえない程詳細な情報が入ってくる。正直言って度を超えているものが多い。職場全体がこんな雰囲気なので、かなり居心地が悪い。
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残業している人は少なく、業務自体も難しいものではないが、休職者がたくさんいるらしい。どう考えてもこの職場の居心地の悪さのせいであろう。他の部署のことはわからないが、行く先々で悪口大会が展開されているのでどこも同じと推測される。
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ある時、上司が「あの人は多分発達障害だから」と言ってきた。わざわざ言ってくるあたりがキモい。
発達障害であろうとなかろうと、苦手なところは他がカバーするなり、やり方を変えるなり、方法はあるのではないか。コソコソ噂するのみで、配慮のかけらもないクソ職場である。
今は新人だからで済まされているが、私も発達障害っぽいので、化けの皮が剥がれたら干されるだろう。
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都会ではいまや町内会は存続の危機に瀕しており、私は町内会の存在すら知らなかった。隣に誰が住んでいるのかわからない、それが当たり前だと思っていた。
こちらでは町内会は強制で、地域のお祭りなどを開催しているようだ。ゴミ袋に住所を書けと言われたり、町内会で使うからと言って、名前や職業、電話番号などを聞き取りにきたこともある。情報の使用目的を聞いても教えてもらえなかったため、必要最低限の情報を伝えたが、個人情報保護の概念はないのだろうか。
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2.職場に逃げ場がない
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周りにお店などなく、職場内にも買い物をするところがないため、息抜きが出来ない。コンビニすら車がないと行けない。昼食を職場で食べざるを得ないため、ご飯も美味しく感じられない。
おまけに職場内の高齢化が進んでいるため、職場に同年代がいない。1で書いた通り、全員が敵のような職場なので、精神的に孤立している。
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観光地は行き尽くしたし、近場のイベントやお店は職場の人と出くわすため心が休まらない。休日は引きこもりになってしまう。精神衛生が悪い。
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まだまだあるが、余力のある時に追記したいと思う。
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主に職場がクソだが、田舎というコミュニティの狭さに加え、働き先がないので転職が難しいこと、遊ぶ場所もないことが田舎のクソさに拍車をかけている。
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ここで一生を終えるのかと思うと本当に辛い。仕事を辞めることも出来ない。人事部門的なところに相談したり、メンクリに行くことも考えたが、コミュニティが狭く確実にバレるため、行くことができない。しぬしかないのかと思い詰めている。
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他人に無関心で、働く場所も出かける場所もたくさんある都会に戻りたい。
転職や移住の計画がある人は、生半可な気持ちでこちらにきてはならない。田舎に来なくてはならない理由があるならば、職場選びだけは力を入れてほしい。
皆さんと違って私が歩いてきた道は、幼少期隣人のキレイなお姉さんに性的なイタズラをされるようなエリートの人生ではなく、たいへんな回り道でした。
しかし、その回り道人生から得られた教訓は、スケベの可能性は本当に無限だということです。
私は高校を卒業するまで一度もオナニー以外のスケベな思い出がありません。
全然エッチなイベントが発生しないものですから、高校時代は大変な落ちこぼれで、同級生220人中200番台の経験人数でした。(つまりゼロ。)
産休クッキーの燃え方を見てつくづく思うが、自己肯定感が低いお嬢様方は自分の妬みや嫉み等の感情に自分で気付くことができず、「周りのみんなのため」といった建前を内面化してしまうから、本当に不幸で生きづらそうだなと思う。
産休クッキーを叩いている人の多くは「不妊に配慮できていないのが悪い!」といった論法を使い、周りからボコボコに叩かれている。
まぁ、これら反論は完全に正論なのだが産休クッキーを叩いている自己肯定感バリ低いお嬢様方には響かないだろう。
それはなぜかと言うと、自己肯定感の低いお嬢様方は自分の感情と他人の感情に区別をつけることができないからなのだ。
彼女らは無意識レベルで自分の感情の問題を社会的正義の問題にすり替えてしまう。
産休クッキーを叩きたい!と思った人の本当の怒りポイントは概ね以下の通りだ。
「私は仕事を休めないのに産休する人は仕事が休みになるので羨ましい」
「私は仕事が増えて嫌なのに産休に入る人は仕事から解放されるのが羨ましい」
「私は妊娠や出産等の世間的に幸福と言われるイベントを経験していないのに産休に入る人はそういったイベントを経験できて妬ましい」
ところが、自己肯定感の低いお嬢様方はこういった本心を吐露することができない。
それは毒親に育てられただとか学校でいじめられたとか、あるいは陰湿な女子社会に迎合したとかいろいろな要因で自分の感情を無意識のうちに抑圧するクセがついてしまったからだ。
自己肯定感バリ低いお嬢様方のフィルターを通すと、上記の本心は下記の通り変換されてしまう。
「世間一般的に毎日仕事をしている人はみんな嫌なことも我慢して働いている偉い人なのに、そういった方たちの感情に配慮することもなく長期の休みに入る人は道徳的に良くない」
「世間一般的に産休は社内の人間に迷惑をかける行為であり、社内の人間はみんな仕事が増えて嫌な思いをするのに、たかがクッキーごときでその埋め合わせをしようとするのは常識がない」
「妊娠や出産等の世間的に幸福と言われるイベントを経験できない人が世の中にはたくさんいるのに、そういった配慮もなくクッキーを配るのは不躾で非常識である」
自己肯定感が低いお嬢様方が自分の意見を表明する際には常に下記のプロセスを用いるのだ。
個人の感情に基づいて世間様の声を自分の都合のいいように忖度する
↓
その個人の思い込みに過ぎない世間様の声を「みんなの声」だと思い込む
↓
そのみんなの声をソースに「当該行為は社会的に悪である」と主張する
一部過激派フェミニストややたら村の掟を持ち出して他人を抑圧したがる女オタクにも共通している病理である。
ネットだけでなく実生活にもこういった心理の機序で生きづらさを抱えている人は山ほどいる。
職場で腫れ物あつかいされている短気な女性なんかも確実にこれだ。
彼女らは丁重に保護されて治療されるべき気の毒な人たちなのだ。
産休クッキーを叩いているような自己肯定感の低いお嬢様方は精神科の世界ではよく見受けられる人たちだ。
彼女らは社会や自分に求める理想が高く、しかしそれに追いつけない現実を目の前にして病んでしまう。
彼女らに必要なのは専門家によるカウンセリングであり、正論をぶつけて叩くと病状が悪化してしまう。