はてなキーワード: すーぱーそに子とは
言うまでもなくこの投稿は所謂物申す系だ、嫌いな人はバックして推し事でもしてくるように。
また筆者はこの業界に詳しいかと言われると正直言って自信がないと前置きしておこう。
後はてなダイアリー自体も始めて使うが故に不慣れな部分も多いと思いますがご容赦下さい。
ゲーム部の騒動は4月に始まった。それ以前からRMT業者絡みではないかとの疑惑の目は向けられていたものの決定的な証拠はなく、こう言ったらなんだが一部のアンチの妄言に過ぎなかった。
しかしCOOである橋本直人のテレビ出演によりその疑惑はほぼ確定のものとなり、それから程なくして演者のツイッターでの内部告発が起こり大問題となった。
あまりにも大胆な告発とその内容故にこのままゲーム部は解散となるのかと少なくとも私は思っていたが、まさかの和解が発表された。
そしてそれから二ヶ月以上経った6月27日に『桜樹みりあ』の、7月7日に『道明寺晴翔』の演者が何の告知もなしに変更となった。特に『道明寺晴翔』の件は他のバーチャルyoutuberも反応を示すほどの騒ぎとなった。
この演者の変更事件について自分なりの考えを述べていきたいと思う。またその前段階としてバーチャルyoutuberとはなんなのかと言うことについても考えていきたいと思う。
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バーチャルyoutuber… その呼び名の起源とブームの火付け役は間違いなく「キズナアイ」であるだろうが似たような活動の者はそれ以前から居たりと意外と定義が難しい分野であると思う。また現代においてもそう呼ばれる人々の活動は多岐にわたる。
ライブ2Dか3DCGかは問わずそれらを使用し、Youtubeにて動画投稿または生放送を行うものの総称。この点について多くの人が同意見だと思う。
しかしその活動内容は多岐にわたり語源たるYoutuberに近い者、それ以前からの動画投稿者であるゲーム実況者や歌ってみた等の要素をもつ者、はたまたアイドルや芸人のような芸能人の派生ともとれる者も存在する。
これらは顔を隠し活動しようとあくまで「人間」であってそれらが二次元のアバターを被って行動しようと決して「アニメキャラクター」ではないのではないかと私は思う。
逆にアニメ等のキャラクターからバーチャルyoutuberと成った者も存在する。元々有名なニトロプラスの「すーぱーそに子」や自主製作アニメ出身である「ピーナッツくん」等が例となるだろう。今回の主題であるゲーム部もまたゲーム実況こそ行うもののショートドラマ動画に力を入れていたりと「アニメキャラクター」的な要素が強いのも特徴であった。アニメキャラクターと捉えるなら決して声優変更自体は問題ではないとも捉えられるが…。
しかし彼らはだからと言って完全なアニメキャラクターではない。比重は小さいとは言え生放送を行い、他のバーチャルyoutuberとコラボも行い一部はプライベートでまで付き合いがあるという。その上それとは別に顔出しゲーム実況者ともコラボしたりと下手したら他のバーチャルyoutuberよりもリアル寄りなんじゃないかとすら言える。
なによりも「バーチャルyoutuber」のブームに便乗してそうであると視聴者に認識されるたのだ。最初からアニメキャラクターでありたいのであれば
DCGアニメーションとでも銘打っておけばよかっただろうがそうはしなかったのだ。
巡洋艦を発展させた結果生まれ巡洋戦艦と名乗ろうと最終的に戦艦と曖昧な扱いを受ける金剛級やシャルンホルスト級が生まれたように起源が違おうとそう認識された以上は同じものなのだ。
だがそれでも運営は演者を『声優スタッフ』と称している以上はアニメと見ることもできる。アニメ、特に長期アニメは声優変更はどうしても起こるものである。
しかしそれらの声優変更は決して告知もなしに行われることはありえないし、そもそもアニメは声優が公表されているものだ。やはりアニメと呼んでいい代物ではないのではなかろうか。
また最近「キズナアイ」が分裂し、旧来の演者も続投しながらも新しい演者が登場することとなった。だがこれは可能性の模索と理由付けはされている上に設定に矛盾が生じているわけではない。
そしてそれ以外にも体調不良等で演者が変更となったバーチャルyoutuberも存在する。だがそれも告知は行われた。
これからバーチャルyoutuberと言うものが続くのであれば演者の変更は起こり得るものであるだろう。しかしが演者が「魂」と呼ばれるこの業界において告知なしだけはやってはいけないタブーではないだろうか。
最後に「旧桜樹みりあ」と「旧道明寺晴翔」自身についてである。まず4月の事件の内部告発としてこのようなものがある。
「お前ら声優スタッフなんて代わりは居るんだよ。」元ツイは保存していない故にしっかりとした引用は出来ないがこのようなことを他のスタッフに言われたとされる。
ゲーム部には脚本があったり、演者と別の人物がゲームプレイを行う所謂「ガチャピン」がおこなわれていたと言われる。不確定な情報だが今回は仮にこれと前述の告発が真であると仮定して話を続ける。
これだけ見ると彼らはまさしく声優スタッフでありそれ以上でもそれ以下でもない、しかしながら彼らは決してショートドラマや実況“動画”のみを行っていたわけではない。かなり前に書いたこととなるが生放送を行いコラボまでも行った。普通の生放送に関してはガチャピンを行っている可能性もあるが、コラボそれも他チャンネルにお邪魔した生放送で台本と言うのは流石に無理がある。実際に仲の良かったバーチャルyoutuberも存在するからここまで騒ぎになったわけであるのだし。そうなると演者もまた脚本家の一人と言えるのではなかろうかそれも即興で話を書き上げる優れものの。
そして他のバーチャルyoutuberと仲が良かったこれもまた大きなポイントである。バーチャルyoutuberに限らず動画投稿者や生主は横のつながりと言うのは大事なものでそれ故に伸びた人も多くいる。その上企業所属のバーチャルyoutuber同士のつながりと言うのは企業同士のつながりでもあるとも言えるのではなかろうか。企業同士をつなぐとなるとある意味営業とも捉えるのではなかろうか?
彼らは声優のみならず多くの役割を持った資格は存在しないけれども大事な技術職員と私は考える、切り捨てるには実に勿体ない存在だ。
運営は外道なだけではなくコアなファンから見て下手を打った、そんな運営があらたなプロジェクトを展開しようとしている。もしこれが成功してしまったら自分の応援しているバーチャルyoutuber運営も同じ真似をするかもしれない。だから株式会社Unlimitedを絶対に許さない。
残るわけねえだろうが一人もよお!
事実上最年長のすーぱーそに子ちゃんですら8年だぞ! あ、行けるか?
結局の所単体事業として10年持つなんて可能性自体がほぼ0に近いし、中の人が10年勤務する可能性も鑑みるとほぼ0だ0!
ただそに子のように企業のマスコットとしては存在する可能性は十二分にあるが、現状そういうVtuberは少ない。
サントリーの燦鳥ノムはドワンゴへ広告企画の外注として存在しているので、予算が終わったら死ぬ運命である。
先日解散した企業系のアマリリス組は退職金の一部として希望者にアバターが現物支給された。結果、みるくぷりん氏が資産を引き継ぎソロ活動を継続した。
キズナアイの問題のときも「乳袋」の話があって、乳袋肯定派のオタクには同意できねぇな…って思ってたんだけど、
及川雫、十時愛梨、すーぱーそに子、グラブルのドラフ族・・・etc、源流を辿ればボンボンのロボットポンコッツの女性キャラから巨乳好きになったのは間違いない。
(また、貧乳が嫌いなわけではない。貧乳は貧乳で巨乳につかれたときはいいと思う。結局は摂取の比率の話なのだ。)
だからといって乳袋だけは許容できない。むしろ、乳袋こそ巨乳の持ち味を殺す最悪の服装だと断言できる。
まず、一つ。服はそのキャラを飾るをとてもとても大切な要素である。これは譲れない。個人的に巨乳キャラは裸ではなく服装を着用しているからこそ映えるのである。
例えば、十時愛梨の私服は、まさに十時愛梨のものである。専用衣装でもないのに、あの組み合わせが十時愛梨を語る上で外せない。
話がそれたが、巨乳キャラの服とは一体どのようなものだろうか。
巨乳キャラの服装で一番大切な要素は「ぱっつんぱっつんである」ということだ。どのキャラも大きさを強調するかのように胸部に2つのテント…いや、山だ、山があらわれる。
この山が示しているものはなにか。それは「この服装に拘束された巨乳がいかに巨大なのかを物語る」事である。
言ってしまえば、この乳袋ではない「山」は、強さの証明なのである。
例をあげると、格闘漫画で強者が動物と戦う時、動物は必ず拘束されてでてくる。例えば、檻だったり、首輪だったり、全身の自由を奪うようなベルトを付けられたり。この拘束が多く、暴れまわってる獣ほど強いということを表すのである。獰猛な虎と紹介された虎が首輪一本で闘技場に出てくるよりも、頑丈な檻に入れられて中で暴れまわって今にも檻を壊して出てくるんじゃ…って雰囲気を漂わせたほうが強い虎なのである。
山というのはこの拘束なのである。大きいゆえに服に拘束されて力を拘束によって抑えられた状態。これが山なのである。
逆に乳袋はどうだ。
拘束されていない。まるで大人しい、入るところに入ってストレスなく育てられた動物園の虎だ。下手したら乳袋という存在自体が動物園の「虎(はなまるくん ♂ 2歳 甘えん坊でとってもやんちゃ!好物はりんご)」という看板である。
つまり、乳袋に収まった巨乳には力だとか、獰猛さだとか、凶悪さ、暴力、圧、そういったものを一切感じない。
むしろ、優しさとか、柔らかさとか、そういうのばかりが先行して、へなちょこである。
「性的に強調されている」
なんか被害者意識じゃない言葉が浮かんだんだけどうまいこと言えないし、それでツイッターでわんわんしてる人たちを擁護するわけじゃないのでまあいいかみたいな。
例えば端的なキャラクターとして、すーぱーそに子が性的に強調されているかと言えばされている。それに対して、どんな社会的な悪が存在するのかを説明する時、肉体以外の話をできるのだろうか(おっさんくせえ音楽趣味とかはあろうが、別にそれも大した問題ではない)。
肉体の話をした時、実際の肉体を持つ人間に対して同じことを言えるのか。また、実際にすーぱーそに子的な肉体を持った人間が、それを活かして商売をした時にどういった批判をするのか。批判が有効なのか。また、すーぱーそに子という「ただの絵」に対して申し立てた批判がどういう意味を持つのかきちんと現実的な言葉を打ち立てられるのか。
「描かれたもの」がどういう暴力性をはらむのか、というのはいくらでもこじつけできるんだけど、「私に対しての暴力性」でしかないので、その暴力性が「本当に私に対してのものだったのか」という無限の証明性を求められる現実がある。それに対応するくらいなら無視して好きな対象を消費したり、あるいは自分に対してもたらされた暴力からサヴァイブするために虚構を自ら作り上げたりしたほうがいいのではないかなあなどと思う。本当のレイプ被害者の人には難しいと思うけども…(一種の箱庭療法的なものとしては可能かもしれないが…)
被害者男性の方がデジターボの南野信吾氏であることが確定してしまった。(もちろん別人だったらいいという話ではなく、理不尽な事件で二人もの命が奪われたことには変わりないので、あまりこういう言い方はしたくないのであるが。)
これまでの流れから見て、おそらくマスメディア…特にワイドショー関連は氏について「ゲーム関連の音楽プロデューサー、ライブ先で悲劇」という方向で報道するのであろう。
このお涙頂戴に安易に走る報道姿勢にも個人的には嫌悪感を抱くが、それ以上に今懸念しているのが、デジターボやニトロプラス関係の出版物、特にすーぱーそに子辺りが大々的に暴露されることなのであるが、私は異常なのだろうか。異常なのだろう。