バロンデッセ(観測気球。ある計画などに対する反応をうかがうために意図的に公表される意見など)について分析。
同会が麻原裁判の再開を求める理由として挙げている主要なポイントは以下の通り。
(1) 「麻原を吊せ」という世論に押された裁判所が1審のみで裁判を終結させたために死刑判決が確定したのは不当である
(2) 一審判決では麻原がなぜサリン事件を指示したのかについての動機が解明されていない。判決の根拠とされた、「リムジン謀議」についての井上嘉浩死刑囚の証言は、後に井上死刑囚自身がNHKに当てた手紙で否定しており、判決の根拠は消えている
(3) 自分が処刑されるということすら理解していないかもしれない松本死刑囚を治療せず処刑するのは問題である
問題は(1)と(2)だ。
「死刑執行が近いのではと言われオウム問題が注目を浴びる中、お調子者の著名人が雁首揃えてその話題に便乗してくるだけなら、まだ笑って済むかもしれない。しかしデマを流し、実際には深い関わりがあると思われる重要人物との関係を明確にしないのは、よく言えば不誠実、悪く言えば偽装。アレフの勧誘等に利用されかねないという問題点と合わせれば、社会的に有害な会とさえ言えるのではないか。呼びかけ人・賛同人になっている著名人たちは、この会に名前を連ねるリスクをもう少し考えたほうがいい」
藤倉善郎氏は、(3)の詐病について言及を避けている。その理由を推測。
(A)教祖は発狂しているが、(B)心神喪失状態でも死刑執行は必要、という矛盾を解消するためには、(一つの解決策として)日本の刑法を改正すれば良い。
第479条
『路上の人』つながりでキリスト教関係の書を読んでいる。今回取り上げるのは『人と思想 パウロ』(八木誠一・著 asin:4389410636 )。キリスト教を現在につながるものに体系化した人物であるパウロがどのような人生を歩んで、どのような思想を持つようになったのかが解説されている。
パウロを通して語られるキリスト教の「赦し」や「愛」の観念の解説が新鮮だった。キリスト教というと、同性愛の禁止といった聖書の教えを忠実に守ろうとする人びとの宗教というイメージが勝手に合ったのだけれども、そういう教えを厳格に守ることを重視するのはユダヤ教的発想で、そういう態度への批判から生まれたのがキリスト教であるとしている。
なぜ教えを守ることにこだわることが問題なのだろうか。
ユダヤ教では旧約聖書にある様々な律法を守ることで神に救われると信じる。そこでは律法を守ったか否かが重要だ。しかし、自身も厳格なユダヤ教信者であったパウロはそれを否定した。律法を完璧に守ることができる人間はごく少数であり、たいていは律法を守ることができず、絶望に陥る。または律法を守り切ったことの優越感が、やがては本来の神への信仰を忘れさせてしまい、そのことを自覚した時そこでも絶望に陥る。つまるところユダヤ教の律法主義は必然的に絶望へと至ってしまうのだとパウロは考えた。
そこでパウロは、イエスを神の子と信じる原始キリスト教に意義を見出す。すなわち、人間の罪はイエスの十字架によってすべて赦された。だから人はただ神を信仰することに集中しさえすれば救われるという理屈を展開したのである。パウロはユダヤ教の持つ厳格な律法を踏襲しつつ、それを守りきれない人間の心も考慮に入れて、堕落も絶望もしない状況に人を導くように教義を設計したのだ。
以上がパウロのキリスト教の教義への貢献であり、それがゆえにキリスト教の教義を学ぶうえで重要な人物足りうるのだという。まあキリスト教についてまともに学ぶ人からすれば当たり前なのだろうけれども、無学な自分にはパウロに対する自分の偏見が訂正されたので面白かった。
堀田善衞の小説『路上の人』( asin:4198618230 ) を読んだ。
13世紀のヨーロッパが舞台で、カタリ派と呼ばれるキリスト教の異端教派の十字軍による征伐を背景に、路上を放浪する中年の男ヨナがキリスト教世界を放浪する物語である。
読了後に知ったのだが、最近ジブリの森美術館で、もし映画化するとしたらという前提のもと宮崎吾朗氏が作成した絵コンテやポスターが展示されていたらしい。来年夏公開予定の新作がこの『路上の人』なのではという噂が流れているが、私はそれは到底できないと思う。もし映画化するとしたら、ジブリは子供向けアニメを届けるスタジオというイメージを完全に捨て去ることになるだろうなと思う。
『路上の人』というタイトルはキリスト教世界において安住する場所の無い東洋人である堀田善衞自身を指している。堀田の分身であるヨナの目線で、当時のカトリック僧院の生活をかいま見て、そこで当たり前のように行われている不正や腐敗を描き出す。そして、カトリック教会とは異なる教義を持ち、慎ましく暮らすカタリ派の信者が異端審問にかけられ、虐殺されていく様を描く。これは書籍に挟み込まれた堀田と誰かの対談において、堀田自身が述べているのだが、『路上の人』は「ヨーロッパへの異議申し立て」なのである。
ここで題材となっているカタリ派について、あまり作中では詳しく語られていないので、簡単な副読本として『カタリ派 ーー中世ヨーロッパ最大の異端』( asin:4422212206 )を読んでみた。これによると、カタリ派とは現世は悪によって生み出された地獄そのものであり、この世には一切の価値がないと考え、ただただ世界の終わりに神によって救済されることだけを願って一生を生きるという教義を持つ教派であるらしい。現世に生まれることは地獄に居ることと同じなので、生殖を目的とする性交を禁じている(ただしそれ以外の性交は禁じていないというところがユニーク)。カタリ派にとって死ぬことととは救済であるが、自殺は禁じられているので、信者はただ死が訪れることを希望として生きる。カトリック教会が特に問題視したのはキリストの人性を否定したこと、洗礼などのサクラメントの必要性を否定したことにあるようだ。
異端という考えは正統があるからこそ生まれる。宗教の正統性は日本人にはピンと来ない問題だからこそ、『路上の人』で描写される凄惨な異端審問の様子にやるせない気持ちが生まれる。