正月以来だった。
正月に会った時は何も感じなかった。
きっとその時は正月というイベントの一部だと感じていたのだろう。
でも今回のゴールデンウィークを終えて、家に戻ってふと涙が出た。
少し寝て、起きて、今これを書いている。
親は私を受け入れてくれていた。
少なくとも今は受け入れてくれている。
私がどういう人間なのかを受け入れてくれている。
今の自分を一番受け入れてくれているのは親だ。
親を失えば、私を一番受け入れてくれている人がいなくなる。
それはとてもさびしい。
インターネットの知り合い、昔の友人、彼らには親に見せていない自分を受け入れて貰っているが、それは精神の裏側の部分だ。
肉体の表側、精神の表側にいる自分を受け入れてくれているのは親だ。
心の内側に居る自分は本当にたまに少しだけ受け止めてもらえるだけでもいい。それは本やSNSで同じ価値観を共有している人がいるのを知るだけでいい。
だけど、世の中に出している表側の自分は、定期的にしっかりと誰かに受け止めて貰う必要があるようだ。
外側に出しているからこそ傷つきやすい。否定されやすい。お前は認めないと日々何度も浴びせかけられる事になる。
滅多に出さない内側の姿と違い、日々傷つき続ける表側の自分には、はっきりと受け止めてくれる人が必要なようだ。
母は自分から見ての祖父母、母から見ての両親をずっと前に失っている。
それでも今母が表面上元気に暮らしているのは、自分と父がいるからなのではないだろうか。
確かに自分はよく母に突っかかるが、それでも存在を認めないような態度を取り続けてはいない。
父も同じだ。
配偶者もいない。
ふと、子供が欲しいと思った。
子供を自分が受け止める時、子供を受け止めようと思った自分の気持ちが、内側から外側を突き抜けて自分を通り抜けていくんじゃないかと思った。
自分が誰かを受け入れる時、誰かを受け入れる気持ちを自分も感じるのではないだろうか。
愛とは、それを誰かに与える時に自分の身体から通り抜け、自分にも愛を与えるのではないだろうか。
自分が何かを愛する時に感じたあの快感は、誰かから同じように愛される感覚に似ているのかも知れない。
つまり、自分にも子供が居れば、人が人を受け入れる感覚に対して飢える事はなくなるのかも知れない。
ふとそう思った。
身勝手かも知れないが、生まれて初めて、子供が欲しいと思った。
自分の中にある子孫繁栄の回路は長らく断線していたが、それが繋がりつつあるのを感じる。
恋愛、社会的立場、本能、自己実現、そういったルートを通って子孫繁栄を目指す回路はとっくの昔に断線したままだった。
そうしてずっと錆びつかせていた。
そこに電気が走った。
新しい道を通って、子供が欲しい、家族が欲しいという気持ちが生まれた。
もしかしたら、今まではもっと早く死ぬつもりだったから、自分より先に親が死ぬことを想像していなかったのではないか。
そうしてようやく感じた。
誰か私を受け入れてくれ。