昔の道路の写真や警察の資料を見ると、気付くことがある。免許を持つ若者が少ないということだ。徒歩が多くいたほか、自転車を使う人がかなりいたし、駐車場や駐輪場はコンパクトだ。今の日本のように、公共交通かマイカーかオートバイかの構造はない。寛容性があるから、選択肢も多かったのだ。
また、今では考えられない程に車やバイクを持つ若者も多かったが、たとえばそれで通学する者はいなかった。もし今のような非寛容主義の論理を昭和に当てはめれば、都市部の一部を除いて学校の駐輪場が学生の乗り物ばかりになっていなければおかしい。しかし当時の若者は空気を読むことの前に普遍的な価値があることをわかっていた。
今の自転車乗りが四六時中ずっと子供か貧乏人だらけで、理由が「持つものにふさわしくないから」というのは、そもそも気がくるっている。若者向け二輪車の数が減ってるにもかかわらずユーザー数が2012年以降突然増えたのも、今時の風潮の影響だからだろうが、そもそもその前に普遍的な倫理や常識や文化の価値に立ち返るべきだ。
たとえば1990年代~2000年代がそうであったように、バイク所持そのものを止めさせるのもいい。道路交通の数を減らし、当然公共交通への負担は増えるわけだが、今はバスがあるので誰も困らない。
そして、大人の交通も、例えば自転車は制限されても誰も困らない。どうせ今の大人は貧しい人や自転車すきでもない限り自転車やロードバイクなんてみっともないから乗らないんだし。自転車は全部若者に渡したほうがいいし、実際アジアの自転車乗りの大人は一部地域を除いて少ない。欧米は危ういけど。
平民ないし持つ層も、公共交通の混雑や車内での外国語の多さに辟易する暇があったら、そんな風習を改め、自転車やオートバイやマイカーで移動した方がいい。
鉄道交通業界も商売根性の件のようなことがあるくらいなら、鉄道の既得権を守ることは無謀で限界なので諦めるべきで、公共性ありきに回帰することでゆるやかに最適化していくほうがいい。そうして他の公共交通などでカバーしつつインフラへの負荷を緩やかに減らそうよ。
2011年に原発業界と同時に鉄道公共交通ビジネスは突然死した。福島の原発が地震や津波や爆発で死んだら、日本各地の原発が止まり、原発だけでなく、鉄道みたいな電気に依存する交通インフラのバブルも一端全て終わった。2012年に「所謂暴走族がほぼ撲滅状態になった」という建前の元にバイク3ない運動が事実上死んだ。いまはJR九州のあの列車の成功でバブルが復活し、一部の原発も運転再開したが、多分この状況も決して安泰ではないだろうと思う。
今度、突然死が起きるとしたら、それだけの話ではなく、社会が、文化が、そしてそれらすべてを束ねる現代の文明が倒れるリスクがある。というか、日本の右派と立憲君主制度が倒れれば連鎖的にその庇護にある日本の伝統的社会が一気に終わる。これは本当に怖いことなので、「終活」と「進化」を始めてほしい。