私の預かり知らないところでいつの間にか話題になっていて、理解した瞬間どれだけ救われた気になったか知れない。
私が味わって来た、正体の掴めない息苦しさ、葛藤、衝動、そういったものにようやく名前がつけられた気がした。
私の母親は、「否定型」の毒親だ。私の些細な言動に目をつけ、ねちねちと文句を言う。行動や失敗に対してならまだしも、そこから私の過去や性格まで取り上げ、事細かく並べ立てては「あんたはいっつもそう」と怒鳴り散らすような人間だった。自らの理解できないもの・知らないものは頑として認めなかった。視野が極端に狭く、主観や感情でしか物事を判断できない。父親も、分かりやすい否定こそしないものの、自分の主張を押し付けることが多かった。口癖は「自分が言っていることなのだからちゃんと聞け/言うことを聞かないならもう知らないぞ」。両親揃って、典型的な毒親の特徴を物の見事に備えていた。
2人に共通しているのは、自分が大好きだということ、自分の非を認めないこと(揃って子供の都合の悪い部分は全て相手に似たと言うのだから畏れ入る)、他者の思考や痛みを理解できないことだった。冷え切ったわけではないが夫婦仲はそれなりに悪く、私が幼い時の夫婦喧嘩では怒鳴り合いから殴り合いに発展し、ついには刃物が出た。激昂した母親がヒステリックな甲高い叫びを上げ、父親は声を荒げて母親を突き倒した。
私は物心ついた時から、怒鳴られることを何よりも恐れていた。判断基準は全て「親が怒るかどうか」であり、それ以外はどうでもよかった。勉強をしていれば親は黙っていたから勉強した。反抗すれば物凄い勢いで罵られることは分かっていたから何も言わなかった。弱みや痛みを家では見せなくなった。相談もしなかった。自分の意見を言うことを早々に諦め、親の顔色ばかり伺って過ごした。
真綿で首を絞められ続けるような生活だった。はたから見れば衣食住の不自由なく暮らし、学費も出してもらい、みんな仲良く恵まれた家族に見えたことだろう。思えば、外面だけは異様に気にする親だった。親が嫌いだ、なんて誰に言っても分かってもらえないと思っていた。
大学生の時に転機が訪れ、鬱になった私は友人と当時の恋人の助けでなんとか立ち直った。完治したわけではないが。親は私を救わなかった。救ってくれたのは友人と恋人だった。そのことが、私の歪んだ認知を大きく変えた。
私は親から逃げようと決心した。
そして、就職を機に家を出た。職場の関係上、実家のすぐ近くに居を構えることになったが、同じ家で暮らすよりは遥かに心が穏やかだ。時々の行動報告の電話と、実家への予告なしの拉致と、電話を無視すると浴びせられる非難を除けば。ゆくゆくは、結婚などを通じて距離を離していこうと思っている。
親は必ずしも好きになる必要はないし、一緒にいなくてもいい。そんな簡単なことすら分からなくなるほど、毒親のかける呪いは深く濃い。
それでも、枷は外せる。