2017-02-06

勉強したくなければしなければいい」

いつも謎なのは勉強の内容自体には理由文脈まで把握することを求めるのに、形式に関しては最終的には盲目に受容しなければならないという理論カットアウトしてしま場合がよく見られること。理性的でもないし、勉強させる効力もない態度で終わってしまう。

たいていこの話は勉強できる人たちと勉強できない人たちが交わる場所で生じる。だが、勉強できる人たちは勉強に苦を感じないので勉強する理由を探索する必要がない。また一方で、勉強できない人たちは勉強する理由を欲しているけれども勉強をできないのでその理由を探索できない。

から、この手の話で一番納得がいった答えは、なんのために勉強するか分かるようになるために勉強するってことかなと思う。

なんで勉強するのかわからないならば、勉強して分かるようになればいい。それは勉強してみないとわからない、勉強してもわからいかもしれない。けれど分かるようになることがある。勉強をする理由が知りたいならば勉強するしかない。

まりこれは勉強できない人たちに宗教的決断を促す行いなのだ

なので、勉強する理由がわからないのに勉強しなければならない人には、勉強を続ければ言葉では表せないけれどなぜ勉強をするのか分かるようになるという宗教的事実(?)と、それまでの間に苦痛なことを耐えるためのテクニックを指示するっていうのがベストであるように感じる。それ以上の理性的ななにかが用意できるのだろうか。ほんとうは信仰心なんてものに頼ることは理性の観点からは望ましくないのかもしれないけれど、まずは宗教者が正しいということを受け入れる心性がなければ理性は手に入らないという仕組みになっているように思う。理性が手に入ってからようやく勉強する理由にたいしてどうこう言うことができたり、それを理解したり実感できたりする。それまでは信仰しなければならない。

はじめの段階でこれを受け入れるにはある程度知的活動による充実感を得たことがあるという宗教体験がすでにあるか、あるいは他の場面において日常的に信仰心もつという習慣があればよいようで、実際にそういう人たちは勉強する理由理解していなくても勉強を続けられるみたいにみえる。

  • > 勉強を続ければ言葉では表せないけれどなぜ勉強をするのか分かるようになるという宗教的事実 ウソや。観測範囲でそんな事実はない。

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