「放送中のドラマを熱心に追い、エンタメニュースをチェックするような人種」ではない私に対してすら、成宮寛貴氏の薬物使用報道、及び(主に)マスコミによる彼のセクシュアリティの「暴露」は不思議なほど胸に刺さった。その気持ちは脇に置いておくとして、紛糾するTwitterを見ていて更に辛くなったので(擁護・攻撃のサイドを問わず)、いくつか確認しておきたいことがある。とっ散らかったま携帯から投稿しており、単に面倒なので推敲をやめた部分もあるのだが、容赦してくれというか、匿名なのでしょうがない。
とりあえず考えがとっ散らかったままタタキ台として書いてみたところ、「成宮寛貴氏の引退表明に憤るTwitterのみなさん、その140字の文章は何を目的としているか、自覚していますか? そしてその文章、その目的に適っていますか? 他でもない君らのためにたぶんもっといい方法があるで?」というややオセッカイなものになった。言いたいことが言いたいことだけに、読みやすく説得力のある文章を作るべく最大限の努力をしたほうがいいのだが、筋道の通った長い文を作るのは単にしんどいので、この辺りを落とし所としたい。
引退表明の文章は他ならぬ成宮寛貴氏本人の直筆によるものである。氏を擁護したいとか、励ましたいといった感情があって、それを表明したいと思うならば、本人の意思を受け止めることを放棄してはいけない。当然も当然。
主語を欠いた「認めない」の連呼は、もちろん「誰がなんと言おうと俺の気持ちはこうなの!」という表明をするならまだ誠実なのだが、
「氏はこんなバックグラウンドの人物で(だから何だ)/薬物なんてやるわけないって信じてるし(これで真実だったら誰が彼を許せるのだろう)/フライデーは悪!みんなでこの気持ちの正しさを証明して成宮くんを取り戻そう!」
という、正義にかこつけて書き手の気持ちをごった煮にしただけの攻撃的な定型文があまりに多い。これでは氏の気持ちに寄り添うどころかNews欄に怪文書を濫立させてしまうだけである。「私個人の感情としては残念だけど、君が決めたのならそれを尊重する。ゆっくり休んでくれ」という前置きがあまりにも足りない。
宮崎駿氏が怒っているだけの動画が放映された途端に突然市民が騒ぎはじめ、ことのついでにドワンゴの人の外見までもをDisったために氏が減量宣言をするに至ったことは記憶に新しいが、インターネットにはあまりにも「自分の気持ちの正しさを証明してやる!」という不毛な言説が多い。多すぎる。ある考えが本当に正しいのなら、どれだけ不本意ながらも人はそれを認めるんじゃないだろうか? (これ自体、あまり振り回してはいけない考え方ではあるけれども。「それは君の気持ちでしょ?w」と難癖をつけられたら、大抵の場合は「そうだね!死ね!」と返すほかないわけで。)
スッポリ前述の項を含むようだが、インターネットで誰かを説得したいと思ったら、「みんなこう思うよね!?これが正しいよね!?""あいつら""は悪だよね!?」ではまずい。味方が増やせないのだから(もちろん、言いたいことを言って気持ち良くなりたい!という目的で書いたのならこれは充分にそれに適うだろう)。
「これは俺の気持ち。それはそれとしてこっちは一般論。成宮くんが本当に薬物に関してクロで、この文章を読んでいるお前が猛烈な成宮アンチで、お前の家族が講談社勤務だったとしても、流石にこれの正しさは認めるよな?」、自分一人が気持ちよくなりたくて言ってるのでなければ、これが大事。
再三強調しておくがこの文章はとっ散らかっている。書き手の頭が悪いのだ。そのため前述の2項とこれまた微妙に内容が重なっている。書き手の書きスキルだけでなく受け手の受けスキルが要求されることもあるもんだと思ってほしい。ダブスタだと思ったらこの文章が成宮擁護派の味方になろうとして書かれていることを思い出してほしい。
インターネットにぶつけようとした自分の気持ちを一度引いて見たとき、実は自分には「週刊誌の巨悪」みたいなものを断罪してみようという気持ちは、それほどないな、と気付いたとする。これはどちらかというと、「成宮氏の味方になりたい」という気持ちではないか、と。とすると、成宮氏の味方になるには実際、どうすれば良いのだろう。この辺りでたぶん理性の声が聞こえてくる。「何もしないこと、そっとしておくこと。自明だ」。今の成宮氏が最も必要としているのは傷を癒す時間だ。
人間、正しい行動をしようとしても、怒りや悲しみというものは厄介で、これに突き動かされてしまってどうしようもない。とあるベトナムの高層がいて、ベトナム戦争中に傀儡政権側に仲間を皆殺しにされたとき、いくら高僧とはいえ怒りが体を突き動かすのをやめるまで数週間ひたすら耐え忍ぶほかなく、そこまでしてやっと再びベトナムのために立ち上がることができたのだとか。詳しいことはすっかり忘れてしまって、その「感情が静まるまでは我々は待つほかない」という部分だけがいつまでも胸に残っている。
感情に動かされてしまうインターネットのみなさんというよりも、当事者の成宮寛貴氏の気持ちに寄り添おうと考えたときにこれを思う。「疑われたくないなら闘えよ」とか、「ゲイであることが悪いことみたいに振る舞っちゃダメじゃん!堂々としてたらいいのに!(言葉にするのも憚られるくらいおぞましい考えだ……)」とか、動向にイチャモンをつけることは、呆れるほど簡単なんだが、気持ちの問題じゃしょうがない。
泣いている人間に「君が泣くことに正当性はないので今すぐ泣くのをやめるべき」と言ってどうなる。「泣かないで!元気出して!大丈夫だよ!はい今元気出た!元気出たよ!」、これも同じようなものだ。悪意がない分余計につらい。「気持ちの問題はしょうがない。どれだけ時間がかかってもいいからまずは落ち着こう、それまで待つ」、強いて何か言うならこうだろう、と。
以上3点が表題に応じて私が述べるところ。
大学の遠い知人の言葉に「自分を許せるのは自分だけ」というものがあり、至言である。曰く""「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とは言うが俺の喉元は2ミリくらいしかないので落ち込まない。自分を責めて苦しむだけ勿体無い""だそうだ。彼は何留何浪かして他の大学に行ったはずだが、私よりは生きていて楽しそうだ。キラキラしていると言っていい。
成宮くんの喉元はどれくらいあるのだろう。「許してほしい」などと言わず自分で自分を許してやってくれ。そのためには時間が必要だろう。海外に行く、いいじゃないか、ここより暖かくて静かなところでよく食べてよく眠ればいい。それが巷で邪推されてるように高跳びだったっていい。そのために多分金が要るんだろうけどどうしたら君の懐に入るんだ。フライデー不買とか政治的意思の表明としてすら何ら効力を持たないだろうし面白みもない、それなら集英社から出ている君の写真集でもいっちょ積んでやろうと思うんだが。そうだよなあ?
発達障害にありがちな「おはようの意味ってなんだろう」タイプのキチガイ