色んなことに失望し、心の底から人生に絶望して、もはや何の望みも抱けないと思っていた。
自分はすべての希望を失って、人生のすべてを諦めるしかないと思っていた。
そんな生活の中にも、不思議なもので、ふと何かの弾みで希望のような感覚が蘇る瞬間がある。
もっとも、それもすぐに勘違いや糠喜び、甘い見通しに過ぎないと気付いてしまい、自分の愚かさに気分が悪くなる。
それにも関わらず、再び絶望の中に小さな希望を見出してしまうのだ。
こうした一連の出来事を、自分は精神の未熟さの顕れだと思い込んでいた。
明らかに他人より劣った人間世界の敗者に過ぎない自分が希望を抱くのは、
それがどんなに小さいものであれ、愚かな現実逃避に過ぎないのでは、と考えていたからだ。
だが、もしかするとそうではないのかもしれない。
どんな困難な状況にも希望を見出してしまうのは、人間の生存本能の働きなのかもしれない。
しかし、そうした温かな感覚を胸に抱かずして、どうして人は人生を生きていけるのだろうか。
人が希望を見出すとき、それは往々にして他者には欺瞞的に感じられるだろう。だが、だからこそ、それは重要なのだ。
この本質的に予測不能で理不尽極まりない現実世界を生き抜くためには、そうした理不尽から自己を守る欺瞞のベールが不可欠。
それは精神の未熟さというより、むしろ精神に備わった安全装置のようなものなのだと考えるべきなのだ。
消えかえる灯を見て、人は暗闇を恐れ、あるいは暗闇を受け入れようと覚悟する。
しかし、暗闇の中では身動きが取れず、気づけばまた光を欲し、そしてそれは必ず与えられる。驚くべきことだ。
その光は決して現実をありのままに映し出さず、むしろ嘘と偽りに満ちた姿を見せるが、心細くとも人は希望の火に頼らざるを得ない。
火は消そうとしても消そうとしても、必ず再び灯りだす。なぜなら、それこそが命の輝きだからだ。