人は理由があれば人を責めてもいいと考えている。
学生時代にあいつはみんなを不快にするから責めてもいいという主張は
深く考えずにまかりとおり、そう思っていなかった人間をも巻き込む。
時には先生すら巻き込んで、誰もその異常さを疑わなかっただろう。
ブサイクがひどい扱いを受けているのを見ても、仕方がないと考えるようになる。
その考えが内面化され、自分にブサイクの要素を感じてしまった時、人は2つの行動をとる。
1つは防衛機制・合理化であり、自分でなく他人を責める方法である。
世の中は自分よりブサイクばかり、だから自分は相対的にブサイクではないと考えるようになる。
また、ブサイクであることは叩かれる要素ではないと、そこだけを例外扱いする。
こうなるのが多数派であり、ほとんどはこの考え方で自分の容姿については深く考えない。
よく問題になるのが、美形なのに理想が高すぎて自分を責め、整形を繰り返すパターンだ。
しかし、それは氷山の一角であり、その下にはたくさんの本当にブサイクである人々が存在する。
本当のブサイクは整形をしても美形はおろか、まともな顔になることも難しい場合がある。
こうしたブサイクなのにブサイクを責めてしまう人々は、自分自身が不遇な扱いを受けるのは仕方がないと考える。
更に厄介なのが、彼らは自分自身を客観視する力が備わっている。
多くの人間は自分の本当に気にしている欠点を認めることができないだろう。
時にはその欠点の妥当性よりも「傷付いた!」という主張をし、被害者であろうとする者も出てくる。
だが、彼らは客観視ができるが故に、自分の姿に補正をかけることができずブサイクだと妥当に捉え、
世間がブサイクに冷たいという事実が変わらないということも理解しており、解決策は容姿の変化しかないと考えるようになる。
このように、人を責めない人間でないからこそ醜形恐怖症へ至る。
内省的で、自分に原因を求めることは素晴らしいが、それが解決不能である場合にこうした行き詰まりが生じる。
うつ病に至る人間も自分に原因を求めてしまう場合が多く、彼らも「いい人」である場合が多いだろう。
こうした人間を救うには、理由があれば叩いてもいいという風潮を変化させるしかない。
ブサイクだから、貧乏だから、背が低いから、英語が話せないから、低学歴だから。。
叩いてもいい理由はどんどん追加されていくであろう。