2016-11-01

醜形恐怖症になる仕組み

人は理由があれば人を責めてもいいと考えている。

学生時代あいつはみんなを不快にするから責めてもいいという主張は

深く考えずにまかりとおり、そう思っていなかった人間をも巻き込む。

時には先生すら巻き込んで、誰もその異常さを疑わなかっただろう。

 

そうした「理由があれば責めてもいい」と刷り込まれ状態で、

ブサイクがひどい扱いを受けているのを見ても、仕方がないと考えるようになる。

その考えが内面化され、自分ブサイクの要素を感じてしまった時、人は2つの行動をとる。

 

1つは防衛機制合理化であり、自分でなく他人を責める方法である

世の中は自分よりブサイクばかり、だから自分相対的ブサイクではないと考えるようになる。

また、ブサイクであることは叩かれる要素ではないと、そこだけを例外扱いする。

こうなるのが多数派であり、ほとんどはこの考え方で自分容姿については深く考えない。

 

2つ目は自分を責める方法だ。

よく問題になるのが、美形なのに理想が高すぎて自分を責め、整形を繰り返すパターンだ。

しかし、それは氷山の一角であり、その下にはたくさんの本当にブサイクである人々が存在する。

本当のブサイクは整形をしても美形はおろか、まともな顔になることも難しい場合がある。

こうしたブサイクなのにブサイクを責めてしまう人々は、自分自身が不遇な扱いを受けるのは仕方がないと考える。

なぜなら叩かれる要素が自分にあるからだ。

更に厄介なのが、彼らは自分自身客観視する力が備わっている。

多くの人間自分の本当に気にしている欠点を認めることができないだろう。

時にはその欠点妥当性よりも「傷付いた!」という主張をし、被害者であろうとする者も出てくる。

だが、彼らは客観視ができるが故に、自分の姿に補正をかけることができずブサイクだと妥当に捉え、

世間ブサイクに冷たいという事実が変わらないということも理解しており、解決策は容姿の変化しかないと考えるようになる。

 

このように、人を責めない人間でないからこそ醜形恐怖症へ至る。

内省的で、自分に原因を求めることは素晴らしいが、それが解決不能である場合にこうした行き詰まりが生じる。

うつ病に至る人間自分に原因を求めてしま場合が多く、彼らも「いい人」である場合が多いだろう。

 

こうした人間を救うには、理由があれば叩いてもいいという風潮を変化させるしかない。

ブサイクから貧乏から、背が低いから、英語が話せないから、低学歴から。。

叩いてもいい理由はどんどん追加されていくであろう。

それらはそんな素晴らしいものでもなく、髪質などの体質と大差がないものとして扱われる日が来るまでは

内省的な人間は様々な症状を起こし、いい人が損をする世の中のままなのだろう。

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