http://kyoko-np.net/2016102001.html
この記事を読んだとき「痛快な風刺だ」と思った.でも具体的に何を風刺しているのか,とっさには説明が難しかったので,ここで整理する.
怒りには,"私憤" と "義憤"の2つがある.私憤は自分の利害に関することについての怒り.義憤は自分の利害を超えた事柄についての怒りだ.
主にネットにあふれる物申す人たちは,自分の訴える怒りを「義憤」だと思ってもらわなくてはならない.「あれは私憤だ」と思われた瞬間に,一緒に怒ってくれた仲間が去ってしまうからだ.怒りが義憤であるために必要なのは,もっともらしいロジックだ.
△△の部分が自分の利害から離れていれば,そして皆が共感できるものであれば,それは高潔な義憤として多くの同調者を得ることができる.多数の同調者を従え,怒りの先頭に立つこと.これはとても心地の良いものだ.
だからこそ,高潔でありたい物申す人たちは,必死になって皆が納得できる理由付けをしようとする.たとえその怒りの出発点がごくごく個人的な動機である私憤であったとしてもだ.
当然,叩くべき悪があるとき,怒るべき理由を探すこと自体は悪いことではない.
問題なのは,本来「怒りを訴え悪を是正すること」が目的だった批判がいつの間にか,「それが私憤であることを隠すこと」が目的にすり替わってしまう人々の存在だ.要は「高潔な物申し人」としての自分のメンツを優先してしまう,浅はかな人たちだ.
そういう人たちの作るロジックには当然無理が出てくるし,「結局それはお前の独りよがりじゃん」ということを感じた人からは感情的な反発も引き起こしてしまう.
そうした「高潔な物申し人」の欺瞞を暴く一つの手段が,次のような思考実験だ.
http://ci.nii.ac.jp/naid/110009597540
Batson et al.(2009)は、架空の新聞記事のなかで拷問を受けた被害者の種類を変化させ
(アメリカ人兵士vsスリランカ人兵士)、それを読んだアメリカ人参加者がどう腹を立てるか検討した。
この実験では「道義に反するからアメリカ人兵士への拷問はけしからん」と怒ったアメリカ人参加者が「道義に反するからスリランカ人兵士への拷問はけしからん」とは怒らなかったことによって,先の怒りが私憤でしかないことが暴かれてしまったのだ.
くしくも,例の虚構新聞の記事もこの実験と似たような機能を持っている.「わいせつ性が高いから」という理由で数々の出版物を批判してきた人たちに対して,「同じようにロボットの "わいせつ画" にも怒るんですか?」という問いかけを投げかけている.
過去に自分が批判に使ってきたロジックに従えば,たとえ対象がロボットであってもここは怒らなくてはいけない.そうしなければ「やっぱりあの怒りはお前の独りよがりだったんじゃん」と指摘されてしまう.それでは一緒に戦ってきた仲間が離れていってしまう.そんなのは絶対にダメだ.でも客観的に見て「ロボットのわいせつ画に怒る」ことはどう考えてもバカバカしい.