2016-10-15

死が確実に自分に近づいてくるのを見るのは、とても不思議気持ちだ。

今歩いている選ぶことの出来ない道は、選ぶことが「出来た」道であり、

選択を誤った過去自分を、現在自分がただひたすらに責めることしか出来ない。

もちろん、それはY字路みたいなわかりやすものではなくて、

ほんのちょっとした言葉遣いとか、携帯を見る頻度だとか、

微笑み方とか、食事を摂る時の行儀作法とか、

とにかく色々な「ふるまい」の総体であり、

そうたやすく選ぶことの出来るものではない。

「きっとこうするべきだ」という数え切れないほどの選択

意識の奥底の最低に住む知らないわたしが常に実行し続けている。

その知らないわたし選択の無数の積み上げが自分なんだと思う。

選べるようで選べないし、引き返すことも出来ない。

振り向いた時にはいつも手遅れで、随分大切なものを失ってきた。

そして、上で言ったような考えに行き着くたび、自分ばかりを責めてきた。

それは、わたし自分プライドから、人に相談することが出来ずに

自分の中で解決することをよしとしてきたから。

その方が楽だった。

そういうわたしを見て、周囲の人たちからは「能力が高い」「自己完結してる」「ちょっと冷たい」とか

わたしを少し遠ざけるようなことを言われることもあった。

彼らのそうした態度はわたしますます孤立させ、気が付くと自分を責めることでしか前に進めなくなっていた。

元々馴れ合いを好まない性格だったせいもある。

きっとわたし子ども過ぎるんだ。

誰とも深い関わりを持たず、関わりを避け、関わりを疎ましく思っている自分

いくつになっても大人になることが出来なかった。

人の気持ちがわからないままだった。

いつだって、手遅れになってから嘆いた。

『手遅れになる前に、もう少し出来たことがあったよね』

その度に、わたしの中の知らないわたしに責められることにも疲れてしまった。

しわたしが望むような道を進み続けたいと思うならば、

未来予知のような力が必要なのかな。

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