少し今のじぶんに酔っている。恥ずかしいが許してほしい。
こういうことを書きたくなる時がたまにあるんだ。たまにだから、いいじゃないか。仕事じゃなしに。
昨日の夜まで、生理直前ということもあってか、この世に私の居場所が1ミリも無いような落ち込みようだった。
深夜2時半まで嫌いなやつのことをだだだだだーっと怒涛のタイピングで日記書いて増田に投稿しようとしてた。
でも「確認する」ボタンを押して内容を推敲していると、なんで私が嫌いなやつのことこんなに書かなきゃならないんだ、馬鹿らしい、と思えて、しかも事細かに書きすぎたから万が一にも身バレしたら面倒なことになるしと我に返ってブラウザを閉じ、シャットダウンした。そのあとはすぐに就寝できたと思う。
「たのしい」ということについて糸井重里らしい文章でやさしく綴られていた。
はっきり言って今内容を要約できるほど覚えちゃいない。でも、心は自然と落ち着いた。
そういえば、と、ふと過去にメモした今日のダーリンがあったと思い出して読み返した。
「自分に期待する」ということを、このごろ、ぼくは言うようになりました。いま、どれほど落ち込んでいても、周囲からまったく認められていないとしても、なにか大きなハンデのなかにいるとしても、「じぶんに期待する」ことができていれば、とてもよく生きていると言えるんじゃないか。そう思ったのです。
どんなに大ベテランのプロにだって「じぶんに期待できない」という状況は降りかかてくる、と糸井氏は続けます。
まじないのようでもいい、「なんとかなる」と言うこと。
そう括った。
私は特別彼に心酔しているファンというわけではない。たまに言っていることの意味がわからないこともあれば、歳を取ったな、なんてあの人は今のような目線で見ることもある。そのくらいの距離感だけど、今日のダーリンは好きで、たまーに密かにぐっときている。
糸井氏のすごいところはとにかく「ふつう」なら考えすぎ、と思うよなことをとことん考えて、自分が納得する答えがでるまで考え抜く姿勢だと思う。
以前増田か何かで、「本当のところ」というものにとらわれすぎると大変、みたいな言葉を目にしたけど、それも大切だろう。
自分の納得できる答えがみつかるまで考え抜くことは難しい作業だし、霧の中をさまようみたいな、時には帰り道もわからなくなることもあるだろう。
普段から答えを導き出せる「じぶんに期待する」ことができなければ、抜け出すことはできないだろう。
「本当のところ」わたしは何をしたいんだ、どう生きていきたいんだ、なにが「たのしい」んだ?
いまはまだ、「なんとかなる」と言い聞かせて「じぶんに期待」することしかできない。これは根拠のない楽観視かもしれない。
無職の私はできるだけ早く次の仕事を始めたいと思っているが、よくばりになり「本当のところ」を探し始めてしまっている。
そしていろんな情報に左右され始め、目的地すら忘れ始めているようだ。
まずは、じぶんにはなにができるか、そこから進めばいいだけ。
でも、そんな自分にしかできないことがあるなら、それでお金をもらえるならそれは立派なことだ。それだけのこと。
「たのしい」は人それぞれ。きっと進んでいくなかで見つかるはず。
まずは、すこし不安定なこの私にいつも期待できるじぶんでありたい。