2016-09-14

パラリンピックを見て思うこと

パラリンピックを見ていて、いろいろと思うことがある

この人はどんな障害があるのか、どうしてその障害を持っているのか、使っている義足車イスの形や仕組みはどうなっているのか

そういうことを思うたび、これは「差別」ではないのか、障害者である前にアスリートなのだからそういう目で見ずに普通にスポーツとして見るべきではないか、と

しかし、そもそもパラリンピック障害者スポーツ最高峰で、いろいろな障害の人が出場している

その障害にも度合いがあり、その度合いによりクラス分けされている

器具もその人の体に合わせた技術的に優れたものが使われている

そういうことを考えれば、どこに障害があるのかとか、どんな障害なのか気にするのは当たり前のことなのではないかとも思う

しろそういうことを理解すれば、更に深く楽しめるようになる

そしてパラリンピックの話になると、よく「パラリンピック見世物ではないか」という話を聞く

見ていてそう思うこともある

しかし、それを言うならオリンピック見世物ではないのか、スポーツのもの見世物ではないのか、とも思う

オリンピックボルトものすごい速さで走る

オリンピックスラム街出身の人が金メダルを取る

オリンピック難民選手が出場する

オリンピック若いうちに両親を失った選手が出場する

パラリンピック事故で両足を失った選手が出場する

パラリンピックに生まれた時から目の見えない選手が出場する

ここにさほど大きな差を感じない

どれも感動的なことだし、どれもとても興味深くて面白い

難民の人が出ることが美談で、障害者が出ることがタブーになる理由自分には分からない

自分では差別意識はあまりないと思っているのだが、パラリンピックを見ていて思うことがある

選手同士で揉めていたり、少し汚いプレーをしていたり、ドーピングが発覚したりするのを見て、とても変な気持ちになる

それは、どこかで障害者スポーツは綺麗なものというイメージがあるから

勝負よりも参加することに意義があるというイメージがある

しかし、出場している選手はただ純粋スポーツをしているだけだ

オリンピックと同じ程度には汚いプレーもするだろう

パラリンピック真剣勝負の場なのだと、意識して見るようにしたい

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