2016-09-02

知的生命体じゃない人間存在する事に気がついた

たまに「ん?こいつに知性はあるのかな?」と感じる人間存在する。

もちろん人間なんだから言葉もしゃべれるし論理的思考能力もある事は感じる。

でも、何かが違う。

まり、知性はある事は理解できているんだけど、自分と同じように感じる心というか、魂というか、自由意志みたいなものはこいつに存在してるように思えない、みたいな感じ。

この感覚説明するのは難しい。この説明でわかる人が存在してくれる事を望む。

極論を言えば「殺してしまっても大丈夫なんじゃないか?」と思える人間とでもいうか。(もちろんそんな事はしないですし、殺したいという事でもないです)

 

まあ、とにかく、そういう違和感を感じる人間がたまに存在するのだ。

それは一体なんだろうとずっと考えていた。

ある時、哲学的ゾンビという概念上の存在を知った。

 

これが俺がたまに感じる「こいつに知性はあるのか?」という疑問に近いものかと思っていた。

でも、なんかそうじゃない。クオリアがない、という感じではない。

もっと動物のように見える人間とでも言うか。

でも野獣という意味ではない。

なぜなら、数は少ないけれど優しい人に対しても感じることがあるから

(粗暴な人間に対しての方がより強く感じるのは、恐らく俺が粗暴な人間が嫌いだからで、公平な判断ではないと思う)

 

長くなってきたので、もう結論を書くけど、最近気がついたのは

反省したり疑問を持ったりしない人」がこれだということ。

 

例えば「なぜテレビは映るんだろう?」みたいな単純な疑問を持たずに生きてる人のこと。

流されるままに生きていて、何かを改善しようだとか、自分の行動はあれで良かったのか、とか、世の中はどうなっているんだろう、などなど、

そういった事をほとんど考えてないように思える人間を見たときに、上記の事を感じるのだ。

 

動物には発展的な可能性がないので、必要であれば殺してしまっても問題ないと感じる。

個々の動物には発展する可能性はほぼゼロで、彼らは世代を超えた突然変異しか発展しない。

(つまり個々の動物次世代を残して、自分自身死ぬことでのみ発展する可能性が存在する、という意味です)

から上記のような人間に対しても動物に感じるのと同じような感覚を持ってしまっていたのだと気がついた。

 

言い換えると「知的生命体じゃない人間存在する事に気がついた」になる。

 

補足すると、恐らくどんな人間子供時代は疑問を持ったり反省したり、色々していたのだと思う。

しかし、忙しい毎日で、そういう余裕が無くなったり、満ち足りた生活で何も疑問に思わなくなったりする中で、

徐々にそういう感覚を失っていって「発展」という意味においては動物ほとんど変わらない人間が生まれるのだと思う。

恐るべきことに、これはアカデミック世界にもそういう人間存在するということ。

 

恐ろしい恐ろしい

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