今でこそ同じような境遇の人間が増えたが、当時はまだ少なく、ほとんど理解されていなかったのだ。当然今でも差別は色濃く残る。
自分と障害者とではもちろん境遇が違う。だから理解できるとも思わないが、マイノリティに対する世間の反応というのはいやというほど浴びながら育ってきた。
ぼくがマイノリティであることは見た目ではすぐにはわからない。
だからうまく紛れることはできたし、必要がなければ明かさなかった。
ただ、その分同じ境遇に向けた反応に対して同調圧力を求められることは何度もあったし、そのせいでノリが悪いスカした人間だと思われたこともある。
学生の、まだ多感な頃の話だ。
仲の良い、信用できると信じていた人間数人に自分の素性を明かしたことがある。
その時涙を流しながら同情する人間がいた。
「かわいそうに。辛かったでしょ。どんな目に遭ってきたの?」
ぼくの肩に手を載せてとても悲しそうにそう言ってきた。
それからも素性が知れる度に、一定数の人間は「かわいそう」という言葉を使った。
意図的に知らせた時もあるが、意図に反して知れてしまうこともあった。
それでぼくは「かわいそう」という言葉が嫌いになった。
当然つらい思いも沢山してきた。人よりも苦労は多い自信もある。
人を羨んでも変わることはできないし、人を妬んでも自分が幸せになれるわけでもない。
ましてや、人の不幸を見て噛みしめる自分の幸せなんてクソ食らえだと思っていた。
中にはそれが善意だと信じて、周囲の人間に配慮するように話して回る人間もいた。
その多くはぼくに対して「かわいそう」という言葉を使った人間だ。
その度に、ぼくはそいつの素敵な人生ストーリーのために消費されたようが気がして気分が悪くなった。
可哀想な人間を涙を流して同情する素敵な自分にあこがれているのだろう。
可哀想な人間に配慮を求める素晴らしい人格者である自分にあこがれているのだろう。
そのためにぼくは消費されていくのだ。
お前らのやすっぽい涙のために、ぼくの人生が軽々と消費される虚しさを思い知らされたのだ。
アイアムサムを見たことがあるだろうか。
ぼくは不本意ながら上映当時に劇場で見ることになった。
不思議とどうしてそんなものを見ることになったのかわからないが、恐らくは当時付き合っていた相手に誘われて、下調べもなくのこのこと付いて行ってしまったのだろう。
もしそれが障害者の映画だと知っていたら、絶対に見ることはなかった。
障害者に向けられる周囲の視線は今まで散々に味わってきた苦痛であるし、ハンディを持った人間のサクセスストーリーなんてリアリティのへったくれも感じなかったからだ。
それを可愛らしい子役と安っぽい感動で塗り固めた、実にアメリカらしい、まさにその国のスーパーで売っているような食あたりしそうな彩りのケーキのような映画にしか見えなかったのだ。
映画の評価はそれに反して上がっていく一方だった。その様子を、マイノリティは健常者のために消費されていくのがこの世の中なのだと冷めた目で見ていたことを記憶している。
ただがむしゃらに生きてきたし、むしろ生き方にも随分と慣れてきたように思っていた。
そんな時に、レンタルビデオ店でふとアイアムサムのDVDが目に止まった。
世界はこれほどまでにグローバル化が進んでいるのに、未だに歴代名作コーナーに陳列されていることが疑問に思えたのだ。
これでもう一度見てつまらなければ世間が腐っていた証拠だし自分が正しかったことが証明される。
もし何かが変わって見えたら、自分の変化や成長を感じられるかもしれない。
当時の自分がどれだけうがった目で世の中を見ていたかを思い知らされることになったのだ。
何より、子供を持ち、それを守ることに対する思いに何度も涙が流れた。
今もし自分の子供が、世間の良識という暴力に奪われたとしたら何を思うのか。
その中で、ハンディキャップを背負いながらも幾多の困難を乗り越えていく姿にひたすら胸を打たれてしまった。
例えどんな境遇であっても諦めずに一生懸命に生きる姿に胸を打たれる。
意外なことに、劇中でサムに対して可哀想だと接する人間はいなかった。
皆はむしろ冷たく辺り、障害者が生きていくことの難しさばかりが描かれていたのだ。
そして彼自身も、障害者らしく擁護で固められているのではなく、一人の人間として生き、悩む姿しっかりと描かれていた。
ぼくは当時、その描写を見ることが辛かったのかもしれない。
まだ社会的弱者だった頃の、世の中に対するヘイトがくすぶっていたのだろう。
その時は自分が全うに生きていると信じていた。でも、知らず知らずの間にカルマは溜まっていたのだ。
育児放棄、女性の社会進出、ニートやそれに付随する精神疾患の問題、職業差別、貧困。
あれから16年の時が過ぎていることに驚いたが、それ以上にいま見ても全く色あせないほどに全ての問題がリアルだった。
むしろ16年経って尚、それら問題は深刻さを増しているといっていいだろう。
その中で、たまたま障害者が主人公だったというだけの映画がアイアムサムなのだ。
あの映画の主要登場人物のうち誰に焦点を当てても、どの問題も同様に浮き彫りになったことだろう。
アイアムサムを感動ポルノとして消費した人間も沢山いただろう。
それはそれで良いではないか。
それによって潜在する問題を認知することにつながったのだから。
もしそれが感動ポルノとしてだけ消費されてしまったのなら、障害者たちは真実の姿を表現する努力をすればいいのだ。
それ以上に世の中はポルノで溢れかえっている。
アイドルと呼ばれる偶像が最たるものだし、それこそマスコミや視聴者にえげつなく消費されているではないか。
それを自分たちだけ守ってほしいというのはまさに擁護の観点であるし、視聴者側も自らの足を使わずして真実を求めようと言うのが間違っているのだ。
感動ポルノがどうした。
楽しみたい人間がいるから市場が生まれ、必要がなくなれば消えていくだけのもの。
ただそれだけのことなのだ。
そもそもが感動ポルノを好きとか嫌いとかいっている場合ではないのだ。
この狂った世の中で道を誤らずに生きていくには、結局は自らの目や耳、手足を駆使して進んでいくしかないのだ。
それを生まれながらに持っていなければ別の手段で解決すればいい。