2016-07-20

母が子育て詰んだ

思うところあって増田を書きたいと思う。

先日ホッテントリとなったこの記事を読んで思い出した

http://orangestar.hatenadiary.jp/entry/2016/07/19/223314

子供のころ、なぜ自分のお母さんだけがずっと布団に寝ているのかいつも不思議に思っていた。

友達のお母さんはハキハキしていて元気そうに笑っているのに、どうしてうちのお母さんは寝てばかりいるのか。

うちのお母さんは夕飯の用意もできないほど弱っていたので近所の家におかずをもらいに行くのが日常だった。

近所の人は案外優しくて良くしてくれた。

当時の母は弱り切って、いわゆる炊いたコメが食べられなくなっていた。

から食パン牛乳に浸して柔らかくなったものをちぎって、すするようにして食べていた。

母がいわゆる普通の御飯を食べられるようになったのはしばらく経ってからだった。

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我が家子供が3人で、全員が発達障害に産まれしまった。おそらくだ父親発達障害可能性が高い(たぶんアスペ

上に兄がいて、下に双子が産まれしまった。簡単に書くと兄が自閉症、妹(双子)がアスペADHDという組み合わせだ。

母に言わせると兄が大変に手のかかる子供で、尋常でなくつらかったらしい。

兄は2歳くらいのとき自閉症と診断された。母はものすごくショックだったようだ。

母が言うには、兄はまずアイコンタクトというもの通用しない。母が困った顔をしていてもまったく目に入らない。

とにかくこちらの気持ちが通じないのだ。自分の子供のはずなのに、昆虫かなにかを相手にしているような感覚になる。幼児なのに、である

兄は極端に神経が繊細で、少しでも気にそぐわないことがあると暴れたりかんしゃくを起こしたりする。当然ながら寝ない。ちょっとでも物音がすれば起きる。

母側からコンタクト通用しないのに、兄は極度な甘えたがりで母と一瞬でも体が離れると泣いて暴れる。

そんなことの繰り返しだったが、下にまた子供が出来てしまった。

なんと双子ができてしまった。

双子育児はただでさえしんどいのに、この双子はまた発達障害だった。

(※注 当時はまだ診断基準がなく、増田自身発達障害がわかったのは30すぎてからです)

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今でもくっきり記憶に残っているのだが、物心ついた時、母は家におらず入院していた。

母が言うには、とにかく子供の世話に追いまくられ、父は仕事が忙しくて育児を手伝ってくれることは皆無、

親戚や実母なども事情が重なって手伝いに来られず、気づいたら骨と皮ばかりに体が痩せていたという。

トイレへ行くのも床をずるずると這って行ったが、それすら無理になったときほとんど本能的に電話に手がいって救急車を呼んだという。

(母が言うには、本当に体がダメになったら尿はほとんど出ないらしい。)

最後自分で測った記憶があるのが34キロ病院で測ったところ32キロだったそうだ。(母の身長は155センチ

母は子供を産むまではフルタイム仕事をしていたので、すごく体が弱いというわけでもない。

ただ以前あった増田のように編集者レベルでタフかというとそうとも言いがたい。

いわゆる核家族だったが手伝いにきてくれる人が残念なくらいいなかったのだ。

当時は今のように自閉症児に対する工夫などの情報ほとんどない。ネットもない。

孤立した母は詰んだ

その後、母は極端に病弱な体になり、基本的には家で寝ていた。

兄をみる余裕がなくなった母は、まだ幼かった兄を母の実家にあずけた。

半年ほどして母が様子を見に行ったところ、祖父祖母はげっそりと痩せていた。

とくに祖母は気疲れがひどく、10キロ以上痩せてしまっていた。

兄の相手をすることや兄の要求を聞くことがとんでもなく大変だったらしい。

困り果てた祖母は、兄を霊能者のところへ連れて行ったことがあるらしい。

すると、兄は親戚中の悪いところをすべて引き継いで産まれてきてしまったのだと言われたそうだ。

から親戚の他の子には悪いものはいかない、なぜなら兄がすべて悪いものを引き受けてくれたからだと。


娘の存在は、母にとってはやすらぎとなり、母は兄よりも娘といることを好んだ。

兄は私が覚えているかぎりでは幾度となく親戚の家に預けられていた。言い方は悪いが兄は「たらい回し」にされていた。

長期間預けるとトラブルを起こしたり、その家の人が寝込んでしまったりするので、半年くらいで親戚のあいだをぐるぐると移動していた。

今でもよく覚えているのだが、兄が家にいないと母はとても嬉しそうにしていて、花を飾ったり凝った料理を作ったりしていた。

料理に対して「わぁ〜!」と反応すると本当に喜んでいた。

これ、これなのよ、私の望んだ家族の姿って!これなのよ!というような。その瞬間だけはまさに母の夢が開花していた。

兄がいないと父も穏やかな表情になって、母もそのことを嬉しがっていた。

私たちは、まるで兄がもともとからいない家族であるかのように食卓を囲んでいた。

日常があまりにも穏やかで、この頃の記憶ほとんどない。

兄がひどく育てづらい子供だったことで母は疲れきっていた。

から、兄が家からいなくなると、気持ちが晴れ晴れして小康を取り戻すのだった。

の子たちもADHDがあるため、忘れ物も怪我もひどいし学校に呼び出されたりそれはそれで面倒だったが「気持ちが通う」という点で、母のしんどさは桁違いに違ったらしい。

自分記憶では、兄は4〜10歳くらいまで、ときどき家にいたがときどきいなくなっていた。母の実家、父の実家、親戚の家…あちこちに預けられていたと思う。

はいわば兄の育児放棄してしまっていた。

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その後も兄関係でゴタゴタがいろいろありましたが、いま40歳目前になる兄が社会適応できることはありませんでしたとだけ書いておく。

そしてそういう子供一定数産まれしまうこの世の不条理というかなんというか。いや、社会のほうが未熟なのかな。私にはわからないですけれども。。


読んでいただいてありがとうございました。

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