今日実家に帰ってきて、自分の部屋の隅にあったぬいぐるみを見てふと感じた。「怖い……」と。
ゲームセンターのUFOキャッチャーで取ったぬいぐるみを何体かつなげて、壁にぶら下げてあったのだ。
別にそのぬいぐるみの形相が恐ろしかったとか、そんなわけのわからないことをした自分が怖くなったとか、そういうわけではなかった。
そのぬいぐるみをつないで、壁にぶら下げた、その行為をした記憶はある。でも、そのとき自分が何を考えていたのか、どういう気持ちだったのか、それをしたあと自分が何をしたのか、まったく覚えていないのだ。
記憶が飛んでいたというわけでもない。単純に時の流れによって記憶から抜け落ちてしまっただけ。
でも、それが怖くなった。その時の自分の気持ちを覚えていられるのは自分だけのはずなのに、その自分すら忘れてしまっているのだ。ほかの誰が知るはずもなく、つまりは世界から完全に消え去ってしまったのだ。
この単純な事実が途方もなく怖くなった。時が経つにつれて確実に何かが失われていく。そしてそれは、長い宇宙の時間の中で、数限りなく行われてきたであろう喪失。いくら努力したところで、もう絶対に知ることはできない。
曾祖母は自分が中学生のとき、百歳の少し手前まで生き、そしてこの世の摂理に従って亡くなった。
それ自体は恐ろしいことでも、悲しいことでも何でもない。むしろよく長生きしたな、大往生だ、よかったよかった、ぐらいのものである。
事実、親族一同、悼むことはあっても、嘆き悲しむというようなことはなかった。
自分も別に必要以上に悲しむことはなかった。だが、ふと彼女の人生について考えたとき、途方もない恐怖を覚えてしまったのだ。
彼女の九十余年もの間、いろいろなことがあっただろう。大正に生まれ、学校に行き、祖母を生み、戦争を生き延び、戦後の経済成長を経験し、ひ孫の顔まで見た。
他愛のないこともたくさんあったであろう。その時々で、彼女は何かを見て、感じて、そして思ったはずなのだ。
しかし、それらを知ることはもう我々にはできない。数多の物語が、真実が、情報が、失われてしまったのだ。
それが、とても怖かった。
こういうことを音のない夜、ふと考えて眠れなくなることがよくある。
そういうとき、思うのだ。アカシックレコードさえあれば、と。この世のすべてを記憶していてくれる機械さえこの世にあれば。
好奇心や学問的必要性を感じてのことではない。ただひたすら、情報の喪失という恐怖から自分を守ってくれるものがほしい、そういう理由でアカシックレコードがほしくなる。
今日はそういう夜だった。