2016-05-15

自信

圧倒的な努力の賜物か、生まれ持った才能か、偉大な親父の七光りか・・・

自分は、自信は、愚かな自分を認めるところからまれると思う。

小さい頃から大人に怒られる事を極端に怖がる、臆病なこどもだった。

怒られると、大人から見放されたと思った。要らない子なんだと思って、孤独になった。冗談じゃなく、世界の終わりだと思った。

おかげで先生や親に従順な、「良い子」 に育ち、中高一貫校へ進学することが出来た。

中高では、人の言うことをうわっ面だけなぞる生活をしていたから、

やることなすこと全てに自信を持てなくて、何一つ集中して物事に取り組めた試しは無かった。

けれど周りの人間がすごくいい奴ばかりだったから、認めてくれてた。意気地の無い事で悩む必要は無かった。

しか駅弁大学部活に入ってからそれではうまく行かなくなった。

良いトコのおぼっちゃまに囲まれ暮らした中高時代とは、まるで出自の異なる、

どこの馬骨とつかない奴らの寄せ集めの「世間」へ、放り出された瞬間だった。

特にうちの代は、勝手気ままに正義ぶるやつ、天邪鬼なやつ、我慢の出来ないやつ、そんなのばっかりで、

一挙手一投足、一つ一つへ、逐一、批判を浴びせてくる。

こんなことは今まで一度も経験したことの無い苦痛だった。

進学校で肥えたプライドだけは人一倍で、誰よりも自分が正しいと信じてた。自分の中に圧倒的な正義がいた。

正しいことは一つで、あいつらは間違ってるんだと思った。

自分を傷つける事ばかり言う奴は、絶対に間違ってるんだと思った。

でも、自分自身もやるべきことを完璧にやれるほど、努力できなかったから、その時は自分の中の正義が、悪なる自分容赦なく攻撃した。

そのジレンマの中でもがき続けて、とても辛い、鉛のような日々を生き残っていった。

今は、こんな事はない。

部活の先輩にとにかく俺のことを認めて、怒らないことに拘ってすら見える先輩がいて、

どんなに俺がミスしても、サボっても、試合の結果がうまくいかなくても、とりあえず励ましてくれた。

深く考えれば、その場の取り繕いかもしれない言葉だったけど、何度も聞いているうち、暗示にかかった。

それからは、いつでも正しくいられない自分を認めることができるようになり、

それを拡張して、同じように他人存在が認められていった。

あの頃殺したい程憎んだ部活の奴らさえ、今では笑って話が出来る。

自信とはこうして、みじめな自分存在を認めることから、作られて行くのだと思う。

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