2016-03-05

自分の顔を認識する

自分の顔を認識するのには、長い時間必要だった。
これはきっと、誰しもに共感してもらえるような感覚ではないかと思う。



自分美術畑の人間で、自画像というものを、割と何かの折りにふれ描く機会があった。
最初は、高校夏休みの宿題
思春期まっただ中の高校生達にとって、「自分の顔を描く」というのは自意識との戦いという点において、非常に厳しいもので、教室阿鼻叫喚の渦だった。


大学入試にむけて、同じ課題が何度もくりかえされる中で、段々と皆の中の抵抗心は薄れていった。
自分の顔を、まるで記号のように、単なる一つのモチーフとして捉えられるようになってきた。

最初は、画用紙の中に似ても似つかない人物が産まれた。
誰だこれ、はじめまして、といった風貌だった。
右目が左目より少し小さい。右側の眉の流れが左と違う。唇の色が悪い。耳が小さい……化粧をするから、そういう細かいところは分かるのだ。
なのに、輪郭が面長気味であることとか、口が大きいことだとか、目・鼻・口の割合他人に比べてどうだとか。そういう大きな特徴を、18、19の歳を過ぎるまで、まったく認識していなかったように思う。
なんなら、むしろ丸顔だとすら思っていた。
自分の姿というのは、自分にとって最も身近なものなはずなのに。(自分自身なのだから、身近という表現も違うのだけど)


いくら自分の顔を長時間見つめても、克明に観察したとしても、鏡という媒体は己の姿を歪めるし、自分の目というフィルターは多くのものをぼやけさせる。自意識とは、非常にやっかいものなのだ

それでも、最近、ようやく他人から見た自分の姿と、自分の中の自分の姿が一致するようになってきたと思う。

一つは他人から似顔絵を何回か描いてもらったこと。
ゆるいテイストタッチだが、他人の目を通して描かれる自分は非常に新鮮なものだった。
もう一つは、動画の中の自分を幾万年ぶりに見たということ。
思ったよりは人間のていをなしていて、安心した。





思春期の時の自分の中の自分の姿って、何だか不思議で、ぶよぶよしていた。
思春期には自分と外の世界との境界線曖昧」だと、詳しくはないけどそういう心理学的な話を聞きかじった事がある。何なら、「自分の体が無限に膨れ上がって広がって行くような感覚」を覚える人もいるという。 加えて、イメージ上の姿と、現実自分の姿との違いを思い知らされるたびに耐えられなくて枕に顔を押し付けてじたばたしたいような思いもあった。
テープで録音した自分の声を聞くとめっちゃ恥ずかしい。その現象だ。
それをだんだんと受け入れられるようになって、自分という存在の平凡さであるとか、一人の人間なんだなー動いているんだなーということを受け止められるようになってやっと落ち着けるのかなということを思う。
ただただ存在するというだけなのに、まったく難儀な話であるお疲れ様である

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