2016-01-04

走れエロス

エロス激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。エロスは、村の海鮮であるTENGAで遊んで暮して来た。きょう未明エロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた市にやって来た。エロスには父も、母も無い。三十のエロ漫画家と二人暮しだ。このエロ漫画家は、村の或る律気なエロ同人描きを、近々、足りないアシとして迎える事になっていた。面接も間近かなのであるエロスは、それとは関係なく、同人誌を買いに、はるばる市にやって来たのだ。エロスには三角木馬の友があった。ヌメリンティウスである。今は此のシラクスの市で、別のエロ漫画家のアシをしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちにエロスは、まちの様子を怪しく思った。なんだか市全体が、やけに寂しい。路で逢った若いゲイをつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の市に来たときは、まちは即売会で賑やかであった筈だが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。

王様は、人を辱めます。」

「なぜ辱めるのだ。」

「嗜虐心を抱いている、というのですが、誰もそんな、性癖を持っては居りませぬ。」

「たくさんの人を辱めたのか。」

はい、はじめは王様自身のいちもつを。それから、御自身のいちもつを。それから、ごじしんのいちもつを。それから、――賢臣のアレキス様を。」

「おどろいた。国王性癖に。」

男根以外の人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な印税生活をしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、辱められます。きょうは、六人弄ばれました。」

 聞いて、エロス激怒した。「呆れた性癖だ。生かして置けぬ。」

 エロスは、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城はいって行った。たちまち彼は、巡邏の警吏捕縛された。調べられて、エロスの懐中からエロ同人が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。エロスは、王の前に引き出された。

「このエロ同人で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を以て問いつめた。その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。

「市を暴君性癖から救うのだ。」とエロスは悪びれずに答えた。

「おまえがか?」王は、憫笑した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの性癖がわからぬ。」

「言うな!」とエロスは、いきり立って反駁した。「人の性癖を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の性癖をさえ疑って居られる。」

「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の性癖は、あてにならない。人間は、もともと歪んだ性欲のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。「わしだってノンケを望んでいるのだが。」

「なんの為のノーマルだ。自分自慰を守る為か。」こんどはエロス嘲笑した。「自分性癖で辱めて、何がノーマルだ。」

「だまれ、海鮮の者。」王は、さっと顔を挙げて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔になってから、泣いて喜んだって知らぬぞ。」

「ああ、王は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと辱めを受ける覚悟で居るのに。ただ、――」と言いかけて、エロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一つのエロ漫画原稿を、入稿させてやりたいのです。三日のうちに、私は村で入稿をすませ、必ず、ここへ帰って来ます。」

「ばかな。」と暴君は、嗄れた声で低く笑った。「とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」

「そうです。帰って来るのです。」エロス必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。入稿即売会が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、この市にヌメリンティウスというエロ漫画家アシスタントがいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あのアシを辱めて下さい。たのむ、そうして下さい。」

 それを聞いて王は、そっと北叟笑んだ。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に辱めてやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑で弄んでやるのだ。

「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに入稿せよ。おくれたら、その身代りを、きっとちちくり倒すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの性癖は、永遠にゆるしてやろうぞ。」

「なに、何をおっしゃる。」

「はは。おちんちん大事だったら、おくれて来い。」

 エロスは口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなったが、即売会エロ同人を思うと股間がふくらんだ。

 三角木馬の友でエロ漫画家アシスタント、ヌメリンティウスは、深夜、王城に召された。暴君ディオニス面前で、佳きホモと佳きホモは、二年ぶりで相逢うた。エロスは、ホモに一切の事情を語った。ヌメリンティウスは無言で首肯き、エロスをひしと抱きしめた。ヌメリンティウスは、楽しそうに縄打たれた。エロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。若干良いことをしたとすら思った。

 エロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、翌る日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。三十のエロ漫画家も、きょうは同居人の代りに番をしていた。よろめいて歩いて来る同居人の、疲労困憊の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく同居人質問を浴びせた。

「なんでも無い。」エロスは無理に笑おうと努めた。「市に用事を残して来た。またすぐ市に行かなければならぬ。あす、即売会に出かける。早いほうがよかろう。」

 エロ漫画家は頬をあからめた。

「うれしいか。コスプレ用の綺麗な衣裳も買って来た。さあ、これから行って、村の人たちに知らせて来い。撮影会は、あすだと。」

 エロスは、家へ帰って神絵を飾り、ディスプレイ前の二次絵と食事を調え、間もなく床に倒れ伏し、TENGAを握ったまま呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。

 眼が覚めたのは夜だった。エロスは起きてすぐ、エロ漫画家の家を訪れた。そうして、少し事情があるから入稿明日にしてくれ、と頼んだ。エロ漫画家は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、来週まで待ってくれ、と答えた。エロスは、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。チーフも頑強でなかなか承諾してくれない。夜明けまで議論をつづけて、どうにかチーフを説き伏せた。入稿は、真昼に行われた。編集者の、原稿へのチェックが済んだころ、黒雲が空を覆い、やがて車軸を流すような大雨となった。会議に列席していた他の編集たちは、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも怺え、陽気に議論し、重判を期待した。エロスも、満面に喜色を湛え、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。入稿祝いは、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。エロスは、一生このままここにいたい、と思ったが、いまは、自分からだで、自分のものでは無い。エロスは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。エロスほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、歓喜に酔っているらしいエロ漫画家に近寄り、

「おめでとう。私は疲れてしまたから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに即売会に出かける。私がいなくても、もうおまえには担当があるのだから、決して寂しい事は無い。おまえの同居人の、一ばんきらいなものは、性癖を疑う事と、それからTENGAバカにすることだ。編集との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。」

 エロ漫画家は、夢見心地で首肯いた。エロスは、それから新入りの肩をたたいて、

「仕度の無いのはお互さまさ。私の家にも、宝といっては、単行本だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。アシになったことを誇ってくれ。」

 新人は揉み手して、てれていた。エロスは笑って編集者たちにも会釈して、宴席から立ち去り、寝袋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。

 眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃であるエロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの王に、人の性癖の存するところを見せてやろう。そうして悶えながら磔の台に上ってやる。エロスは、悠々と身仕度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。さて、エロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。

 私は、今宵なぶられる為に走るのだ。身代りのアシを救う為に走るのだ。王の性癖を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私はなぶられる。さらば、ふるさと若いエロスは幾度か、立ちどまりそうになった。えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。村を出て、隣村に着いた頃には、雨も止み、日は高く昇って、暑くなって来た。エロスは額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや出版社への未練は無い。エロ漫画家たちは、きっと佳いコンビになるだろう。私には、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降って湧いた災難、エロスの足は、はたと、とまった。見よ、前方の川を。きのうの行列で男津波は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵に橋桁を跳ね飛ばしていた。彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、壁サーは残らず浪に浚われて影なく、運営の姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。エロス川岸うずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことが出来なかったら、あのアシスタントが、私のために辱められるのです。」

 濁流は、エロス叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今はエロス覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。エロスは、ざんぶと男津波に飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸のサークルに、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。エロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼりのぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊カメラ小僧が躍り出た。

ポーズ良いですか。」

「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ。」

「どっこい放さぬ。ポーズお願いします。」

「私には操の他には何も無い。その、たった一つの操も、これから王にくれてやるのだ。」

「その、ポーズ良いですか?」

「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」

 カメラ小僧たちは、ものも言わず一斉にかがみこんだ。エロスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、そのカメラを奪い取って、

「気の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、microSDカードを抜き取り、残る者のひるむ隙に、さっさと走って峠を下った。一気に峠を駈け降りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、エロスは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、男津波を泳ぎ切り、カメラ小僧を三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破して来たエロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとはふがいない。元アシは、おまえを信じたばかりに、やがて辱められなければならぬ。稀代の不信の人間、まさしく王の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。もう、どうでもいいという、不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、きっと笑われる。私のコレクションも笑われる。私は元アシを欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。ヌメリンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳いホモホモであったのだ。暗い不倫の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ヌメリンティウス。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。ホモホモの間の信実は、この世で一ばんそそるお宝なのだからな。ヌメリンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりは無かった。信じてくれ! 私は急いでここまで来たのだ。男津波も目もくれず突破した。カメラ小僧の囲みからも、するりと抜けて峠を駈け降りて来たのだ。私だから、出来たのだよ。この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。だらしが無いちんちんだ。笑ってくれ。王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを辱めて、私を助けてくれると約束した。私は王の劣情を憎んだ。けれども、今になってみると、私は王プレイの言うままになっている。私は、おくれて行くだろう。王は事も無くアシに放尿するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。アシは、永遠にスカトロ者だ。地上で最も、不名誉人種だ。ヌメリンティウスよ、私も辱められるぞ。君と一緒に辱めらさせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪性癖として生き伸びてやろうか。村には私のタコ部屋が在る。あの漫画家は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。海鮮だの、トレスだの、互助会だの、考えてみれば、くだらない。受け責めを通じて自分が生きる。それがBL世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い腐れ野郎だ。やんぬる哉。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。

 ふと耳に、潺々、ボーカロイド音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ近くで、ボカロが歌っているらしい。よろよろ起き上って、見ると、4Kモニタから延々と、何か小さく囁きながら湧き出ているのである。その映像に吸い込まれるようにエロスは身をかがめた。自分男根を加えて、一くち含んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。おかずのおかげで歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行希望である。わが身をなぶってエロを守る希望である斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私のちっぽけな性癖なぞは、問題ではない。黄金水を飲んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! エロス

 私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。エロス、おまえの性癖の恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。むくむく勃起する。待ってくれ、ゼウスよ。私は生れた時から正直な男であった。正直な性癖のままにして死なせて下さい。

 路行く人を押しのけ、跳ねとばし、エロスは黒い風のように走った。少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、磔で辱められているよ。」ああ、その男その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を辱めてはならない。急げ、エロス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。エロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、鼻から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。

「ああ、エロス様。」うめくような声が、風と共に聞えた。

「誰だ。」エロスは走りながら尋ねた。

フェラストラトスでございます貴方のお友達ヌメリンティウス様の弟子でございます。」その若いアシの後輩も、エロスの後について走りながら叫んだ。「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません。」

「いや、まだ陽は沈まぬ。」

「ちょうど今、あの方がいじられるところです。あなたは遅かった。おうらみ申します。もうちょっとでも、早かったなら!」

「いや、まだ陽は沈まぬ。」エロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。

「走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、エロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」

「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。王の性癖問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! フェラストラトス。」

「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。」

 まだ陽は沈まぬ。エロスは走った。何一つ考えていない。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、エロス疾風の如く刑場に突入した。間に合った。

「待て。その人を辱めてはならぬ。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたヌメリンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。エロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、

「私だ、刑吏! 辱められるのは、私だ。エロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。ヌメリンティウスの縄は、ほどかれたのである

「ヌメリンティウス。」エロスは眼に涙を浮べて言った。「私をなじれ。ちから一ぱいに俺をなじれ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私をなじってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。なじれ。」

 ヌメリンティウスは、すべてを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くエロスに薄汚れた罵声を浴びせた。言い切ってから優しく微笑み、

エロス、私をなじれ。同じくらい音高く私をなじれ。私はこの三日の間、たった一度だけ、王をちら見しつつ。生れて、はじめて君を疑った。君が私をなじってくれなければ、私は君と抱擁できない。」

 エロスは声に抑揚をつけてヌメリンティウスをいやらしくなじった。

ありがとうホモよ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放ってきもちよさげに泣いた。

 群衆の中からも、ため息が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。

おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの性癖に勝ったのだ。エロとは、決して空虚妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」

 どっと群衆の間に、どよめきが起った。

変態! 王様変態!!」

 ひとりの少女が、緋のTENGAエロスに捧げた。エロスは、まごついた。アシは、気をきかせて教えてやった。

エロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそTENGAをつけるがいい。この可愛い娘さんは、両刀エロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」

 勇者は、ひどく赤面した。

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