2015-05-28

老人には無条件で席を譲るべきという記事について

山移 玲という人が書いたこ文章

http://allabout.co.jp/newsdig/c/83419

山移 玲の駄文を信じて疑わない人間は以下のページを読むといい。抜粋しておく。

http://tspsycho.k-server.org/ent/ent043.html

自己中な人間ほど我慢を美徳と思う

本当に優しい人は、「我慢してあなたのため」とされることをあまり快く思わないでしょう。

自分で頼んでもいないことを苦しい思いの中で「あなたのため」と言われてされたら、かえって困ってしまます

優しい人が多い社会では、このような「美徳」は無用です。

他方、人を踏みにじってでも自分利益を得ようとする人ほど、「私は我慢して貴方のために」として差し出されたものを喜ぶことになります

実際この「美徳」は、現代社会では悪徳商法でよく利用されてしまます

「こんなに時間をかけて説明したのに、どうしてくれるんだ!誠意を見せろ!」と脅すわけです。

「我慢が善」という感覚が身にしみついている人は、「しかたないか」と必要もないもの契約してしまうわけです。

これでは、本人に損であるだけでなく、悪徳商法をはびこらせるのを助けているようなもので、とても「善」ではありません。

まるで、「人に良くするのは善」は、エゴイスティックな人のためにある美徳であるかのようですね。


日本道徳矛盾した「愛情強制である

真摯宗教としての姿を失った日本道徳は、実はその実体は「愛情強制」と言えるものになっているように思われます

そしてその「強制」において、実は人を愛していません。

ここに大いなる矛盾内包されることになります

「~のためには~しなさい」という話の筋を失った情緒道徳は、実は、「私に気に入られたければ」「皆に嫌われたくなければ」と暗黙の中で脅していることになります

子供は、親に愛されたいから、皆に愛されたいから、「良い子でいよう」と思うのです。

子供にとって、愛されることは生死にかかわるような重大なことなので、愛されるために親の言うことを何とか自分自身に取り込もうとするのです。

ところが、この「道徳的しつけ」が「~しなきゃ駄目でしょ!」という怒りを伴うにつれて、実際には子供を愛していないことの表現になってきます

怒りは、相手を破壊するための感情です。

大人は「それも愛情だ」と言うかもしれません。それは大人の言葉世界では通用するかも知れませんが、子供には通用しません。そして人間の心のメカニズムには通用しません。

怒りは、どんな言葉で飾られようとも、破壊なのです。

子供は、親に愛されようと、必死になって親の言うことを聞こうとします。

しかしその親の言うことが、子供を愛していないということです。そして親の言う通りにしても、愛されません。そもそも愛が欠けているからです。

「良いこと」をすれば愛されるということは、現実ではありません。愛と善はあまり関係なく、強さと関係します。

現実は、道徳が言う世界とは違うのです。

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