例えば前から女性が走ってくるとする。身体のラインがわかるような比較的タイトな服装でだ。
そこで男性諸君ならばすかさず期待の眼差しで身体の一部に目を向けるであろう。
慣性の法則に逆らうことができず足並みからワンテンポ遅れて上下運動する部位、つまりバストにだ。
しかし、わたしはあの一見すると物理の法則に逆らうような独立した動きを見せるバストが苦手なのだ。
その動きはわたしにとって暴力的であり動物的であり母性的でありながらも生臭すぎるのだ。
そんな訝しげな眼差しを持って向けた視線の先で、揺れていないバストがあった時(いや、なかった時と言うべきか)の安堵感は筆舌に尽くしがたいものがある。
まるで独自の生き物のように揺れる先を予測させない不規則な運動を繰り返すわけでもなく、全身の上下運動とほぼ連動する形で規則正しく小さく慣性を思わせる動きはまるで足並みの綺麗に揃った社交ダンスを見ているかのような優雅さを感じさせてくれるのだ。
そのため、胸は全体として揺れることを余儀なくされ、足が地面に設置する角度や左右の強弱の違いなどに影響を受けることで動きの不規則さがより強調されてしまう。
それに比べて品乳と呼べるバストの場合、下着と乳房の接地面は胸を形作るワイヤーやパットの一部に限られるため、乳房の揺れを下着に伝える役割は主に乳頭が担うことになる。
それがまるで免震構造のように機能することで、わずかに見せる乳房の揺れが下着、つまり見た目に伝わってしまうことを防いでいるというわけなのだ。
ここで想像してみて欲しい。一生懸命に揺れようとする小さな乳房と、その揺れを外部に伝えないようにと必死に上下する乳頭の姿を。
これが愛おしくなくて何を愛でろというのだ!
品乳を語る上でこんなことは数ある魅力のうちの取るに足りないような一つの要素でしかない。
ただ世の女性にはわかってほしいのだ。
走って揺れる乳を見れば男性全てが満足するというわけではないこと。