借金の貸し手と借り手が同一の集団であるということ、より単純化して言うならば、自分自身からお金を借りるということは、よく考えてみればすごく奇妙なことではないだろうか。
簡単な思考実験をしてみたい。
ある男が、無人島に流れ着いたとする。そこで彼は、政府も国民もたった一人だけの、独立国家の設立を宣言するのである。無人島に流れ着いた時、たまたまこの男は大量のメモ用紙を持っていたとしよう。そこで彼の政府は、メモ用紙を使って1万円ぶんの「国債」を発行し(もちろん、複利の利子付きで)、それを自分自身へ貸し付け、その国債を裏付けとする1万円ぶんの紙幣を(自分自身に対して)発行するのである。さて、これでこの無人島には、都合2万円ぶんの新たな「価値」が生じたことになる。この時、国債(=紙幣)の発行前後で、無人島における彼の生活に何か変化が生じるだろうか?
もちろん、何の変化も生じない。
もしこの男が無人島で豊かな生活を送りたいと考えるのであれば、島に存在する動植物や鉱物といった資源を、彼自身の労働力を用いて、有用な食料や住居、燃料に変換する以外に無い。いくら紙幣を発行したとしても、豊かさの源泉である自然資源は増加しないし、自然資源を有用な財に変換するための労働力が向上することもない。貿易やら分業などを考慮しなければ、この男が日本人全体の集合であり、無人島が日本列島であると言えるだろう。
さて、この思考実験から、一般的な常識とは異なる以下の2点が主張できるのではないだろうか。
メモ用紙の紙幣の発行可能量は、いかなる物理的な制限をも受けることはない (ただし、筆記用具と紙の量は除いて)。発行した国債の償還期日が迫った時には、彼は利子の額をプラスした新たな国債を発行すれば良い。そもそもこの国債は彼が自分自身に発行しているものであるため、未来の自分が償還してくれることも確実なのだから、原理的にはこの過程はいくらでも継続しうる。
2. 国債が破綻することが無いという事実は、我々が豊かになれるかどうかには、ほとんど関係がない
たとえ、彼がどれほど大きな数字をメモ用紙に記入したとしても、紙の上の数字は、島の物理的な現実世界に対していかなる影響を与えることもない。彼の生活の豊かさは、根本的には無人島に基から存在した資源に由来しており、直接的には資源を財に変換するプロセスである労働の効率に依存している。資源の量と労働の効率が向上しない限り、交換媒体である紙幣量を増加させたとしても、彼の生活には何の関係もない。ゆえに、紙幣の発行量を小手先で操作することで、経済が成長を続け、我々が豊かな生活水準を維持できるかのように考えることは、誤りである。
ちなみに、批判があるかもしれないので予め答えておくと、この例では紙幣と財や労働力の「交換」という要素を意図的に省略している。けれども、たとえ無人島に複数の人間が流れ付き、全員がメモ用紙の紙幣を交換の媒体として使用することに合意したとしても、メモ用紙の紙幣の発行前後で、利用可能な島内部の財の総量が変化しないという事実に変わりはないはずだ。そもそも紙幣と交換される財が存在しなければ、交換の手段である紙幣は全くの無用の長物なのである。
無人島に一人って時点で、経済の思考実験としては破綻してる。やり直し。 経済とは複数人が富と財を交換することで成り立ち、その家庭で富が増えて行くことで発達するのです。 ...
元増田です。 そのような批判を予想して、予め元エントリの最終段落に反論を書いています。 建設的な批判はありがたいですし、私の拙い記事を読むために時間を取ってくれたことにも...
最後まで読んでなかったのは謝るけど、一番重要な財と富の交換を省略してる時点で読む価値ないと思うんだが、どう? 簡単に説明する為だろうけど、一番重要な部分を省略してら意味...
一生懸命考えて、一生懸命書いたんだと思うけど、はっきり言って、読む価値ないね。 マルクスの資本論からやり直し。 いきなり、資本論を読むのは難しいだろうから、まんがで...