2014-08-31

宗教に共通する不殺戒の意義

仏教には不殺生戒というものがある

またキリスト教十戒においても「汝、殺すなかれ」という教えがあり、イスラム教コーランにおいても殺生は禁じられている

しかしながら、これらの教えははたからみれば鼻で笑うほど達成が不可能であるといえるだろう

それは俗に言うイスラム教原理主義者がテロ()を起こし、キリスト教であるアメリカ自身利益の為に戦争を起こし続け、第二次世界大戦中にあらゆる仏教団体戦争を推し進めたことからもうかがい知ることができる

それどころか、宗教という例を出すまでもなく生物の根幹から振り返ってみれば、不殺などということが到底守ることのできない事実であることはもはや語るを待たない自明の理である

からこそ、宗教者達はこの絶対不可能である教えを自分たちが守れるように腕曲し、俗に言う一般人達はそのような現実から眼を背け、タブーとすることを選びとったのだといえる

人間は、いや少なくとも私は殺さず(食べず)にいることはできない

そうでありながらも、何故このような教えが説かれる必要があったのか

守れるものが誰一人としていない教えの意味とはなんであるのか

勿論、それには沢山の解釈存在し得るだろうが、私において私を満足させ得る解釈はただ一つである

それは人間は罪そのものであるということに集約することができる

人間は腕曲そのものである

人間は間違いそのものでありながら、なお正しさを求めるざるを得ない絶対矛盾存在である

不殺の教えはただそれのみを教える為のものであるといえる

宗教であるかどうかはこの痛烈な自己批判に集約することができる

その主張があらゆる批判を越える宗教的主張であるかどうかはその一点に集約することができる

人間には間違いしか存在し得ない

ならばどの間違いに立つのかという問題重要である

つべき間違い、それは自分自身もっとも求めるものであるべきだろう

則ちそれでもなお殺したくないという事実である

則ち偽善である

  • 「『無駄な』『衝動的な』殺生をしてはならない」じゃなかったか?? 在家・出家やら、大乗小乗でもちがいはあるが。勘違いに問題がある。

  • 「『貪りや無益な』『衝動的な』『怒りからの』殺生をしてはならない」じゃなかったか?? 在家・出家やら、大乗小乗でもちがいはあるが。

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