またキリスト教の十戒においても「汝、殺すなかれ」という教えがあり、イスラム教のコーランにおいても殺生は禁じられている
しかしながら、これらの教えははたからみれば鼻で笑うほど達成が不可能であるといえるだろう
それは俗に言うイスラム教原理主義者がテロ()を起こし、キリスト教国であるアメリカが自身の利益の為に戦争を起こし続け、第二次世界大戦中にあらゆる仏教団体が戦争を推し進めたことからもうかがい知ることができる
それどころか、宗教という例を出すまでもなく生物の根幹から振り返ってみれば、不殺などということが到底守ることのできない事実であることはもはや語るを待たない自明の理である
だからこそ、宗教者達はこの絶対不可能である教えを自分たちが守れるように腕曲し、俗に言う一般人達はそのような現実から眼を背け、タブーとすることを選びとったのだといえる
人間は、いや少なくとも私は殺さず(食べず)にいることはできない
そうでありながらも、何故このような教えが説かれる必要があったのか
勿論、それには沢山の解釈が存在し得るだろうが、私において私を満足させ得る解釈はただ一つである
それは人間は罪そのものであるということに集約することができる
人間は間違いそのものでありながら、なお正しさを求めるざるを得ない絶対矛盾存在である
宗教者であるかどうかはこの痛烈な自己批判に集約することができる
その主張があらゆる批判を越える宗教的主張であるかどうかはその一点に集約することができる
「『無駄な』『衝動的な』殺生をしてはならない」じゃなかったか?? 在家・出家やら、大乗小乗でもちがいはあるが。勘違いに問題がある。
「『貪りや無益な』『衝動的な』『怒りからの』殺生をしてはならない」じゃなかったか?? 在家・出家やら、大乗小乗でもちがいはあるが。