2014-04-02

やばいね。

ラノベ文学のことを書いたまとめがあったけれど、その言わんすることは、

1.ライトノベル純文学の系譜にある。

2.純文学は淘汰されつつある。

ということらしい。

それの根拠としてラノベを含んだ小説文化史が並べられている。反応は、その文化史が正しいかのか正しくないのかに始終している。根拠なんだからそれが正しいのか、正しくないのかは大事なことだろう。ただ感情的人間としては、結論が間違っているようにも思えない。

漢文や擬古文といったものが消え、口語体が主流になった。国語教科書にでてくる森鴎外舞姫を何の脚注もなしに読むのが難しいのだから、そこは間違っていないと思っている。

ただ、小説にでてくる口語体というのもまた時代の流れとともに陳腐化した。つまり口語ではなくなった。昔の口語が、古いレコードのように書き言葉として残っているに過ぎない。いまぼくらが日常会話で使う話し言葉は、正式な文章ではお目にかかれないし、まともな小説と呼ばれるものには出てこない。

言葉を整理すると、ライトノベルが「純文学」の系譜にあるという文脈での「純文学」とは小説という文化での権威のことだ。純文学は淘汰されつつあるという文脈での純文学は、いまのジャンルとしての純文学のことを言っている。

また、補足すると小説という文化には権威とそれに従うものそれから外れたものという階層構造存在している。

そういうことを踏まえると、いまのジャンル純文学権威を失いつつあり、次の権威ライトノベルが担う可能性があるということだ。

小説文化が変化をしつづける限り、永遠に権威で在り続けることはできないということだ。いまの権威純文学であるが、やがてそれは何かに取って代わられる。その可能性として高いのはライトノベルだということだ。それは単純にライトノベルがいま一番活況だからである

人の少ない文化は衰退する。人の少ない純文学やそれに従うものは魅力を失っていく一方だ。

さて。

ライトノベルは次の小説という文化権威となる可能性を秘めている。

ここから感情論が強くなるのだけれど、昔からある何かが否定されるとき、否定する人間はその昔からある何かをよく知らないのではないとかと思っている。むしろ、知らないからこそ否定できるのだと思う。ライトノベル純文学を否定する未来があるならば、そのときライトノベルを書いている人間はおそらく純文学をよく知らない。

どんなものでもよいところはあるものだ。

そして、先例というのはいつもあるのだ。

ライトノベルタイポグラフィ的なところも西尾維新的な言葉遊びも調べれば調べるほどに先例がある。タイポグラフィ自体がかなり古いものだし、言葉遊びという意味では無駄に爛熟していた江戸文化で見られると思う。イタズラを悪戯と書くのだ。

知れば知るほどに否定できなくなる。だから、知らないほうがいい。「純文学なんて高尚すぎて退屈だ。俺がもっと面白ものを書いてやる」という気概こそ必要だと思う。

そして、この気概を持つためには、ライトノベルが否定されているという認識必要だと思う。ライトノベルクズだ、と言われているからこそ、見返してやろうという気が起こるものだ。もし、ライトノベルも立派な芸術であるだとか、そういうふうに賞賛されてしまうのであれば、挑戦する必要がない。それでは、権威となった純文学と同じだ。

ということで、ラノベが好きでラノベを書きたい人には歴史かいままでの積み重ねを知らないでいて欲しいという思いがある。

車輪の再発明効率の悪さの象徴ではあるが、車輪程度のことを再発明できない人間革新を起こせるはずもない。

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