繰り返しの説明になるが、
“己の心と正面から向き合う”というのは何も、自身の精神性や魂の存在に対して定義しようという試みの事ではない。
「現実に際して直面した問題に対し、折れそうになったり投げ出しそうになったりする己の心と戦う」という意味だ。
さすがに説明するまでもないが、現実において自らに降りかかる問題にきちんと対応するという意味である。
心理学の話ではなく精神の方向性の話であり、そして机上の学問ではなく実生活の話だ。
また、余力があるすなわち精神的余裕があるという事であれば、わざわざ信仰を求める必要もない。
辛い時悲しい時に自らを救ってくれた信仰を、困難を乗り越えた後も持ち続けておきたいという気持ちは自然なものだが、
持っていれば繰り返し頼ってしまう。その過去の成功体験が、依存心を生んでしまう。そして信仰は万能ではない。
そしてここは最も大事なところだが、信じるものがどれだけ尽くしても、信仰は万能たり得ない。
重い信仰はやがてスロットマシンのジャックポットのようなものとなり、いずれは「こんなに信じたのにこんなに尽くしたのにこんなに祈ったのに、どうして何もしてくれない」となる。
信仰が深まれば御利益はいずれ釣り合わなくなる。信仰を次第に深めてゆけば究極的には必ず裏切られるという事でもある。
運命を左右すると思われがちな恒常的な存在、それに祈りを捧げ続けるという事は、見返りを求めているという事である。
いい事が起きるように祈る人間ばかりではなくても、悪い事が起きないようにと祈る人間は非常に多い。
神が人の造りしものかどうかはわからないが宗教は人が作ったものであるように、
仮に神が万能だったとしても人の信仰は万能ではない。
信仰は疲れた時に背を預けるべき大樹であり、立ち直ったら背を向けて歩き去るべき道標でもある。
お守りはお守りである。
信仰心のない人にはただの布切れと板切れであり、信仰心のある人には自らを守る護符だろう。
心が弱ってる人にあげれば有難い贈り物であり、加護を必要としない人にあげればいらない貰い物だろう。
ハサミで切るのはお守りなんてもう必要ない人であり、ハサミで切らないのはまだ必要な人だろう。
人それぞれだ。
善行には必ずしも良い結果が伴うものではない。世の中はもっと理不尽だ。
因果などというものは存在しないし、応報なんてものも被害妄想の一種に過ぎない。
強く生きられる人間はそのまま強く在るべきだ。
ただ弱い人間や、少し弱ってしまった人にとっては、宗教の説く優しい嘘がとても暖かい光となる。
その嘘を一時信じて、安らぎの中でやがて強さを取り戻して、そして、いずれはその嘘から目を覚まして、再び現実に立ち向かうべきである。
また弱ったらまた信じればいい。また立ち直ったらまた目を覚ませばいい。
宗教はそうやって利用するべきサービスであり、心のセーフティーネットだ。人は詐欺師にさえ癒される。
いっとき癒される事はあっても、長々と依存するべきものではない。
このツリーの頂点はこちらが書いたものではなく、またエントリは聖職者への質問コーナーでもないため、
できればまだ続きがあるのならばブログの方で聞いてもらいたい。
一人で悲しむべき問題ではない。 おいおいおいおい。語るに落ちたな。宗教できちまったじゃねーか。 悲しみを共有させる、喪を司るのは何だ。
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