2014-01-18

明日、ママがいないのはあなたを泣かすため

日本テレビドラマ、「明日、ママがいない」の一話をネット見ました

中止要請についてと感想を書いています

中止要請については以下

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140116/k10014543211000.html

このドラマ本質的な問題は、

ドラマで描かれる“ポスト”というあだ名を持ち、ドラマ差別的発言を受ける子供という表現が、

フィクションと断りを入れていたとしても、“赤ちゃんポスト”という言葉現実に照らし合わせることが容易にでき、

そして照らし合わせると、著しく少数の子供に限定されるということだ。

こうのとりのゆりかご赤ちゃんポスト)」に預けらた幼児現在75人の10歳にも満たない児童存在する。

そのうち芦田真菜演じる“ポスト”に近い年齢の子供も少なくとも数人実在することは想像に難くない。

そして、彼ら全員が芦田真菜演じる“ポスト”のように「親に捨てられるのではなく親を捨てるんだ」という発言を

できるほど強靭な(不自然に大人びた)精神を持っているわけではない。

(「こうのとりのゆりかご」を運用している病院から中止要請があったということは、子供たち(と病院)に前もって

何らかの断りも入れていないということだろう。僕個人としては上記の理由でドラマを中止すべきだと思う。あまりにも杜撰制作だ。)

子供主体的に抗議ができない、

女性に対するフェミニスト団体などがあるわけでもないので、声を上げて抗議をするのは困難である

一部の大人、子供もが無批判に見ている可能性も十分あるので、偏見につながる可能性も十分あるだろう。

何より、放送が話題になって実在する“ポスト”への(杜撰な)取材をしたいというマスコミも現れるかもしれない。

また、ドラマの大まかなストーリー芦田真菜さんが演じる主役の名前あだ名)ぐらいは

スポンサー広報も知っているはずなので、よくこのドラマを“提供”しようと思ったなと思う。

スポンサー企業良識というか常識感覚を疑う。

テレビは本、映画ブログといった能動的に選択する他の表現とは違い、

電波を国に借りて放送しており、チャンネル10程度という選択肢のとても少ないものである

視聴者が段違いに多く影響がほかの手段に比べて大きいのだ。

テレビ表現の自由には配慮が他の表現に比べて必要だ。

病院が中止の申し入れをしたということは、

おそらく、骨髄反射的なものではなく、考慮の上、

この申し入れが「こうのとりのゆりかご」(とおそらくそれに預けられた子供)がマスコミの好奇の目にさらされる、

という危険性を冒しても、ドラマは中止されるべきだという決断を下したのだろうと思う。

だがテレビ局対応はあまりにも稚拙だ。放送中止を申し入れている病院側との話が成り立っていない。

ドラマでは子どもたちの心根の純粋さや強さ、たくましさを全面に表し、子どもたちの視点から愛情とは何か』という

趣旨のもと、子どもたちを愛する方々の思いも真摯(しんし)に描いていきたいと思っています

ぜひ、最後までご覧いただきたいと思います

日本テレビは実際に存在する児童養護施設にいる“子どもたち”をどう思っているのだろうか。

おそらく彼らは視聴率さえ取れればいいのだろう。

この発言は番組さえ見てもらえれば後は「こうのとりのゆりかご」等に偏見を持たれようがどうでもいいと思っている、と捉えられても文句は言えないだろう。

また仮に、このドラマがこのまま放送され終了した後、病院側に差別的だと捉えられ抗議されたとしても、

関係者は同じ「そういう受け止め方をされたのは残念」という言葉を繰り返すだけだろう。

http://daily.co.jp/gossip/2014/01/17/0006642533.shtml

日本テレビは、少なくともドラマチーフプロデューサー制作責任者)に実際に病院代表者に合ってもらい、ドラマでの意図を説明、話し合いをさせるべきだ。

そもそも僕はこのドラマが養護施設子供ではなくDVシェルター女性舞台としており、

ドラマでの施設の子供に対する大声での差別的発言が、支援者女性に対する二次被害的を発生させる暴力的な発言に

置き換えられていたとするなら、それだけで批判がそこら中から起こっていると思う。

(養護施設での虐待などのの問題があるが、DVシェルターでの二次被害などの問題がある。リンクは古いが以下。)

http://macska.org/article/118

http://macska.org/article/235

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以下一話を見た感想

―21世紀で一番泣けるドラマ

日本テレビドラマ、「明日、ママがいない」での公式サイトにあるイントロダクション最後の一文である

おそらくこの一文がドラマを表しているのだろう。

ドラマでの“ポスト”というあだ名や、差別的な発言をするのもすべてあなた最終回で泣かせるための装置に過ぎないのだ。

陳腐な不幸系の脚本、それをごまかすための差別的台詞、過剰な演出、子役の一発芸的な“演技”しか見せ場のない映像

それはあなたが泣くために用意された装置に過ぎない。

時間の過ぎるのが中学生の頃の授業のように遅く僕は見ていて退屈で苦痛でさえあった。

ただ単純に制作者にドラマを作る能力が無いのだろう、醜悪なドラマだと思う。

主題歌コトリンゴさんの曲と芦田真菜さんの演技をする能力はこのドラマにはもったいない。)

ただ、テレビ局の思惑通りこのドラマ最後まで見る視聴者は泣くだろう。

だが、そのうち何人が、ドラマだと割り切って見ているのか、

何人が児童養護施設(にいる子供)に潜在的な偏見を持つようになり、

何人が実在する児童養護施設の現状について調べるだろうか。

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